第53話
よく気がつく子
前話:美月は「心配そうに見ないでください」と優作に言った。見に来ないでください。普通にしていたら、普通に扱ってください。普通にできていなかったら、仕事の話として言ってください。けれど周りは、美月を見ないように見ていた。心配は優しさの顔をして、相手の傷を覗きに行くことがある。その視線に、美月はまた傷ついていた。
母からのLINEは、いつも用件の形をしていなかった。
お父さん、昨日からあまり話さないの。
それだけだった。
電話してあげて、とも書いていない。
どうしたらいいと思う、とも書いていない。
でも、美月には分かった。
父の機嫌を見て。
私の代わりに聞いて。
空気を戻して。
そう書かれていない言葉を、美月は読めてしまった。
朝の電車の中で、美月はその一文を見た。
画面を閉じる。
また開く。
返信欄に指を置く。
「どうしたの?」
そこまで打って、消した。
どうしたの、ではない。
どうしたらいいかを、もう分かっているから連絡してきている。
美月はスマホを鞄にしまった。
でも、しまっただけだった。
読んだ言葉は、もう頭の中に残っていた。
お父さん、昨日からあまり話さないの。
たった一文で、美月の朝は実家の食卓に引き戻された。
小学校三年生の時だった。
夕飯の味噌汁から、湯気が上がっていた。
父は何も言わずに箸を持っていた。
母はいつもより少しだけ早く皿を並べていた。
弟はテレビを見て笑っていた。
誰も怒っていない。
誰も泣いていない。
でも、美月には分かった。
父の箸が茶碗に当たる音が、少しだけ強い。
母の返事が、少しだけ高い。
弟の笑い声が、少しだけ場に浮いている。
何かが悪い。
でも、何が悪いのかは分からない。
分からないから、美月は先に動いた。
父の湯呑みが空になりかけているのを見て、お茶を入れた。
母が出し忘れた小皿を、何も言わずに棚から取った。
弟がテレビの音を上げようとした瞬間、リモコンをそっと遠ざけた。
父が湯呑みを受け取って、少しだけ言った。
「気が利くな」
母が笑った。
「美月は本当によく気がつくね」
その言葉を聞いた時、美月は嬉しかった。
胸の奥が、少し温かくなった。
自分が何かを直せた気がした。
誰にも言われなくても分かる子。
空気を壊さない子。
大人が困る前に動ける子。
その日、美月は褒められた。
だから次の日も見た。
父の顔を。
母の声を。
弟の調子を。
食卓の音を。
見れば、褒められた。
気づけば、役に立てた。
役に立てば、そこにいていい気がした。
「よく気がつくね」は、褒め言葉の顔をして役割を渡す。
言われ続けた子は、気づかない自分を少しずつ許せなくなる。
中学生になると、美月はもっとよく気づくようになった。
教室の端で、笑っていない子。
グループの中で、少しだけ返事が遅れる子。
先生に当てられた瞬間、顔が白くなる子。
休み時間に、トイレからなかなか戻ってこない子。
見ようとしなくても、見えてしまった。
ある日、担任に呼ばれた。
放課後の教室だった。
窓際のカーテンが揺れていた。
担任は、声を少し小さくして言った。
「相沢さん、最近、菜々子さんの様子どう?」
美月は答えなかった。
答えなくても、何を聞かれているのか分かっていた。
「相沢さん、よく周り見てるから」
担任は笑った。
「ちょっと気にしてあげてくれる?」
それはお願いの形をしていた。
でも、断れる感じではなかった。
菜々子は、同じ班の子だった。
最近、昼休みに一人でいることが増えていた。
美月は気づいていた。
でも、気づいていることを誰かに知られたくなかった。
気づけば、動かないといけなくなるから。
それでも美月は、次の日から菜々子に声をかけた。
「一緒に行く?」
「プリント、ここだよ」
「今日の英語、小テストあるらしいよ」
菜々子は少し笑うようになった。
担任は美月に言った。
「ありがとう。助かった」
美月は頷いた。
でも、数日後、別の子に言われた。
「美月って、誰の味方なの?」
その言葉の意味が、すぐには分からなかった。
菜々子に声をかけると、別の誰かが不機嫌になる。
別の誰かに合わせると、菜々子がまた一人になる。
先生は、見てあげてと言った。
母は、よく気がつくねと言った。
でも、気づいた後にどうすれば誰も傷つかないのかは、誰も教えてくれなかった。
美月は、その頃から笑う前に空気を見るようになった。
何かを言う前に、誰の機嫌が動くかを考えるようになった。
自分がどう思ったかより、今この場でどの言葉を出せば崩れないかを先に探すようになった。
人の機嫌を読むことを、賢さだと思っていた。
大人びているのだと思っていた。
でも、本当は違った。
人の機嫌を読むことを、賢さだと思っていた。
でも本当は、怒られないために自分の感情を先に捨てる癖だった。
高校生の頃、一度だけ、気づかないふりをしたことがある。
母から電話があった。
夜の九時過ぎだった。
「今、大丈夫?」
その声で、父と何かあったのだと分かった。
いつもなら、美月は聞いた。
「どうしたの?」
「お父さん?」
「また何か言われた?」
でも、その日は疲れていた。
模試の結果が悪かった。
友達との約束もうまくいかなかった。
自分のことで頭がいっぱいだった。
だから、美月は言った。
「ごめん、今ちょっと勉強してる」
電話の向こうで、母が少し黙った。
その沈黙が、美月には分かった。
がっかりした沈黙だった。
「そっか」
母は言った。
「ごめんね」
電話はすぐに切れた。
美月は机に向かった。
でも、何も読めなかった。
十分後、母からLINEが来た。
大丈夫。気にしないで。
その文章を見た瞬間、美月は椅子から立ち上がった。
気にしないで、は気にしてという意味だった。
大丈夫、は大丈夫ではないという意味だった。
美月は電話した。
母は出なかった。
翌朝、母から返信が来た。
昨日はごめんね。美月なら分かってくれると思って。
その一文は、謝罪の形をしていた。
でも、美月には罰に見えた。
分かってくれると思って。
それは、分からなかった美月を責める言葉ではなかったのかもしれない。
母に悪意はなかった。
たぶん、本当に疲れていただけだった。
それでも美月は、その日からさらに気づくようになった。
電話の声。
LINEの句読点。
返信までの時間。
絵文字があるかないか。
既読がついてからの沈黙。
気づかないと、誰かを置いていく。
気づけないと、自分が冷たい人になる。
そう思った。
大学生になっても、社会人になっても、それは変わらなかった。
むしろ、少しずつ評価に変わっていった。
「相沢さん、場を見るのうまいよね」
「今の会議、どう思った?」
「あの人、納得してなさそうだった?」
「相沢さんなら分かるでしょ」
分かるでしょ。
その言葉を言われるたびに、美月は少しだけ安心した。
自分には役割がある。
必要とされている。
ここにいていい。
その代わり、気づけない日は怖かった。
何も見えない日は、役に立っていない気がした。
誰かが黙っているのに理由が分からないと、自分が鈍くなったようで不安になった。
だから、美月は見た。
誰かの表情を。
沈黙を。
目線を。
語尾を。
会議室の空気を。
見れば見えるようになった。
見えるようになるほど、頼られた。
頼られるほど、降りられなくなった。
今の職場に来てからも、同じだった。
優作が曖昧に笑う時。
佐伯が「大丈夫です」と言う時。
桐谷が軽口で痛みを逃がす時。
真壁が場を回しながら、自分の話を飲み込む時。
黒川が正しさの中に疲れを隠す時。
美月は気づいた。
気づいてしまった。
そして、言葉にした。
それは誰かを助けたこともあった。
場を止めたこともあった。
優作を逃げ場から引きずり出したこともあった。
佐伯を、一人にしないために必要だったこともある。
だから、美月は自分を疑わなかった。
気づけることは、悪いことではない。
誰かが言えないことを見つけるのは、必要なことだ。
そう思っていた。
早坂凪に言われるまでは。
分かる顔をする人です。
人の痛みに、先に名前をつける人です。
私は、壊れ物として丁寧に扱われたいわけじゃありません。
美月は朝の電車の中で、スマホを鞄の中に入れたまま、窓の外を見ていた。
ビルのガラスに、知らない自分の顔が映っている。
鋭い人。
気づける人。
強い人。
分かる人。
そう呼ばれてきた椅子に、自分はいつから座っていたのだろう。
座らされたのか。
自分で座ったのか。
どちらでもいいくらい、長くそこにいた。
気づける子は、大人にとって便利だった。
泣く子より、怒る子より、場を壊さずに傷を片づける子だったから。
会社に着くと、優作が席にいた。
美月はいつも通り挨拶をした。
「おはようございます」
優作が顔を上げる。
「おはようございます」
一瞬、何か言いたそうな顔をした。
でも言わなかった。
言わないようにしているのが分かった。
そのことにも気づいてしまった。
美月は自分の席に座り、パソコンを開いた。
今日の予定を見る。
十時、オンボーディング資料確認。
十一時半、部署別ヒアリング。
十五時、修正版レビュー。
仕事はある。
仕事は、見れば進む。
人の気持ちを見なくても、文章は見られる。
主語の抜け。
情報の重複。
順番の悪さ。
それらは美月を裏切らない。
文章は、黙っていても機嫌を損ねない。
でも、人は違う。
黙っていても意味がある。
笑っていても意味がある。
見ないようにしても、意味が出る。
気づきたくないのに、気づいてしまう。
それが美月を疲れさせていた。
昼休み、母からまたLINEが来た。
朝の続きだった。
時間ある時でいいんだけど、電話できる?
美月は画面を見た。
時間ある時でいい。
その言葉が、時間を作ってほしいという意味に見えた。
電話できる?
その言葉が、電話してという意味に見えた。
美月は返信欄を開いた。
「今日は難しい」
打って、止まった。
冷たいだろうか。
母は困っているのかもしれない。
父が本当に何かあったのかもしれない。
家の空気が悪いのかもしれない。
美月が電話すれば、少しは戻るのかもしれない。
そこまで考えて、美月はスマホを伏せた。
頭の中で、早坂の声がした。
人の中に入ってこないでください。
美月は、小さく息を吐いた。
自分は、ずっと入ってきたのかもしれない。
父の中に。
母の中に。
友達の中に。
同僚の中に。
頼まれていると思っていた。
必要とされていると思っていた。
でも、本当は自分が怖かっただけなのかもしれない。
空気が悪くなることが。
誰かが不機嫌になることが。
自分が気づかなかったせいで、誰かが壊れることが。
午後の確認会で、早坂はいつも通りだった。
資料の一部を見て、淡々と言った。
「ここ、読み手が迷います」
黒川が頷く。
「修正します」
桐谷が言う。
「じゃあ、図にしますか」
早坂は即答した。
「図にすればいいわけではありません」
桐谷が苦笑する。
「今日も切れ味いいっすね」
「切っているつもりはありません」
「余計痛いっすね」
少しだけ空気が動いた。
美月はそれを見ていた。
今なら、前の自分なら、何か言えたかもしれない。
桐谷の軽さを拾って、早坂の硬さを少しだけほどく。
黒川の正しさを置き、優作の迷いを支え、佐伯が黙る前に逃げ道を作る。
でも、美月は言わなかった。
言えなかったのではない。
言いたくなかった。
今、その役割に戻ったら、自分がどこにいるのか分からなくなる気がした。
会議が終わったあと、早坂が美月の横を通った。
立ち止まらないまま、言った。
「相沢さん」
美月は顔を上げた。
「はい」
「今日は、見に来なかったですね」
美月は少しだけ息を止めた。
早坂は続けた。
「楽でした」
それだけ言って、早坂は会議室を出ていった。
美月は、しばらく動けなかった。
褒められたのか。
刺されたのか。
分からなかった。
でも、胸のどこかが少し痛かった。
楽でした。
それは、美月が何もしなかったことで、誰かが楽だったということだった。
よく気がつくね、と言われてきた美月にとって、それは褒め言葉ではなかった。
むしろ、今までの自分がいたことで誰かを疲れさせていたと言われたようだった。
夕方、美月は母のLINEをもう一度開いた。
時間ある時でいいんだけど、電話できる?
既読はついている。
返信はしていない。
未読には戻せない。
読まなかったことにはできない。
美月は返信欄に指を置いた。
「今日は電話できない」
今度は消さなかった。
続けて打った。
「お父さんのことは、お母さんから直接聞いて」
送信ボタンの上で、指が止まった。
冷たい。
そう思った。
ひどい。
そうも思った。
母は困るかもしれない。
父はさらに黙るかもしれない。
家の空気は悪くなるかもしれない。
それでも、美月は送った。
すぐに既読がついた。
返信は来なかった。
美月はスマホを伏せた。
勝った感じはしなかった。
自由になった感じもしなかった。
ただ、胃の奥が重かった。
気づかないふりをするのは、楽ではない。
気づいても動かないのは、もっと楽ではない。
美月は鞄を持って立ち上がった。
優作が一瞬こちらを見た。
すぐに目を戻した。
見ないようにしているのが、また分かった。
美月は何も言わなかった。
会社を出て、駅へ向かう途中、母から返信が来た。
そうだよね。ごめんね。
美月は立ち止まった。
その文字を見た瞬間、胸の中がまた騒いだ。
ごめんね。
それは本当に謝罪かもしれない。
でも、美月には、少しだけ責められているようにも見えた。
美月なら分かってくれると思って。
昔の言葉が、勝手に戻ってきた。
美月はスマホを閉じた。
返信はしなかった。
けれど、読んでしまった。
読んだ以上、もう頭の中では考え始めている。
母の声。
父の沈黙。
実家の食卓。
湯呑み。
茶碗の音。
あの日、褒められた自分。
よく気がつくね。
その言葉を、まだ体のどこかが捨てられずにいる。
美月は駅のホームで、電車を待った。
人の流れの中に立っていると、誰の機嫌も読まなくていいはずだった。
知らない人たち。
知らない沈黙。
知らない表情。
それなのに、隣の女性がため息をついたことに気づく。
向かいの男性が舌打ちを飲み込んだことに気づく。
高校生の笑い声が、ひとりだけ遅れていることに気づく。
美月は目を閉じた。
見たくない。
分かりたくない。
でも、分かってしまう。
そういう自分を、まだ消せなかった。
電車が来た。
美月は乗り込んだ。
スマホは鞄の中で、もう光っていなかった。
それでも美月は、何度も確かめたくなった。
母から返事が来ていないか。
父がどうなったか。
家の空気が悪くなっていないか。
自分が気づかなかったせいで、誰かが困っていないか。
美月は、鞄の上からスマホを押さえた。
気づくことは、優しさだったのか。
癖だったのか。
役割だったのか。
逃げ道だったのか。
分からなかった。
ただ一つだけ、分かっていた。
よく気がつく子は、気づかないままでいる方法を知らない。
第54話へ続く。