第54話
気づいたなら、助けなきゃいけないんですか
前話:美月は、幼い頃から「よく気がつく子」だった。父の機嫌、母の沈黙、教室の空気、友人の表情。気づけば褒められ、気づけば頼られた。気づくことは、いつの間にか美月の役割になった。母からのLINEに返信しないだけで、胃の奥が重くなる。気づかないふりをしても、気づいてしまう。よく気がつく子は、気づかないままでいる方法を知らなかった。
美月は、佐伯が嘘をついた瞬間に気づいた。
「大丈夫です」
その声は、いつもより半音だけ軽かった。
目線が資料の右下に落ちていた。
ペンのクリップを、親指で二回だけ弾いた。
分かっている時の佐伯ではない。
分からないまま、引き受けようとしている時の佐伯だった。
美月には分かった。
分かったから、何も言わなかった。
会議室の画面には、オンボーディング資料の修正タスクが映っていた。
部署別問い合わせ先一覧。
新人が迷いやすいケース集。
初日の確認フロー。
三つとも、細かい。
しかも部署ごとの確認が必要になる。
真壁が資料を見ながら言った。
「問い合わせ先一覧とケース集、佐伯いけるか」
佐伯は一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
誰も気づかないくらいの短さ。
でも、美月には見えた。
止まったあと、佐伯は少し早く頷いた。
「大丈夫です」
美月の喉元まで、言葉が上がってきた。
今の大丈夫ですは、違うと思います。
他のタスクと重なっています。
一度、量を確認した方がいいです。
前なら言っていた。
たぶん、言えた。
佐伯を守るために。
場の重さを一人に寄せないために。
でも、その言葉を出した瞬間、美月はまたそこに戻される。
気づく人。
止める人。
誰かの「大丈夫です」を、本当は大丈夫じゃないと見抜く人。
美月は、資料の文字に目を落とした。
言葉を飲み込んだ。
飲み込んだ瞬間、胃の奥が冷えた。
佐伯は救われなかった。
美月も救われなかった。
ただ、会議だけが進んだ。
気づいた人が、いつも助ける人になると、気づかない人はずっと気づかないままでいられる。
優作は佐伯を見た。
何か引っかかった顔をしていた。
でも、確信がない。
確信がないから、美月を見た。
ほんの少しだけ。
美月は見返さなかった。
見返せば、また答えになる。
相沢さんも違和感を持っている。
なら、やっぱり止めた方がいい。
そんなふうに、優作の中で使われる。
美月は画面を見たまま、手元のメモに一行だけ打った。
問い合わせ先一覧:担当者確認が必要。
それだけだった。
人の表情ではなく、資料の話だけを書く。
今はそれしかできなかった。
真壁が続ける。
「じゃあ佐伯、明日の午前までに一旦ラフで出してくれ。午後にみんなで見よう」
「はい」
佐伯はすぐに答えた。
早すぎる返事だった。
美月は、また気づいた。
でも、また言わなかった。
会議が終わったあと、優作は会議室に残って資料を閉じていた。
早坂も、ノートパソコンを鞄に入れている。
美月は先に出た。
佐伯も少し遅れて出た。
その背中を、優作は見ていた。
早坂が言った。
「相沢さん、気づいていましたね」
優作は返事に詰まった。
「……そう見えましたか」
「はい」
早坂は淡々と言った。
「佐伯さんが大丈夫じゃないこと」
優作は何も言えなかった。
早坂は鞄のファスナーを閉める。
「中村さんも、少し気づいていたんじゃないですか」
優作は目を伏せた。
「確信がありませんでした」
「相沢さんに確信をもらおうとしましたね」
その言葉は、静かだった。
だから逃げられなかった。
優作は何も返せなかった。
早坂は続けた。
「言わない自由もあります」
優作が顔を上げる。
早坂はドアの方を見ていた。
「今まで、それがなかったんじゃないですか」
それだけ言って、早坂は会議室を出ていった。
午後、佐伯から共有フォルダに資料が上がった。
予定より早かった。
早すぎた。
優作が開くと、問い合わせ先一覧は形になっていた。
でも、いくつかの部署名が古い。
担当者欄も未確認が多い。
ケース集は、項目だけが並んでいて、どの場面で使うのかが見えない。
雑ではなかった。
急いで作った人の資料だった。
優作は佐伯の席を見た。
佐伯は別の画面を開いていた。
眉間に、薄く力が入っている。
指が早い。
口元が固い。
優作は声をかけようとして、止まった。
今声をかけるなら、何と言うのか。
量、多かったですか。
大丈夫ですか。
手伝いましょうか。
そのどれも、どこかで遅かった。
会議の時に確認すべきだった。
「大丈夫です」を受け取った時に、自分で止めるべきだった。
美月が何か言うのを待つのではなく。
夕方の確認会で、佐伯の資料が映された。
黒川がすぐに言った。
「部署名が一部、旧名称です」
佐伯は頭を下げる。
「すみません。修正します」
桐谷が言った。
「ケース集、これだと新人がどこから読むか迷うかもっすね」
「すみません」
佐伯の謝罪が早い。
早すぎる。
真壁が資料を見ながら言った。
「佐伯、これ一人で明日までに戻せるか」
佐伯は、またペンを触った。
一回。
二回。
美月には見えた。
「大丈夫です」
同じ声だった。
同じ嘘だった。
会議室の中で、いくつかの視線が動いた。
優作。
真壁。
桐谷。
たぶん、黒川も。
でも、誰もすぐには言わなかった。
言えば美月を見ることになる。
言わなければ佐伯を見ることになる。
どちらもできないまま、沈黙が落ちた。
佐伯はその沈黙を、自分への圧だと受け取ったのかもしれない。
少しだけ背筋を伸ばした。
「今日中に、確認先を洗い出します」
美月は、その姿を見ていた。
止めたいと思った。
思ってしまった。
胃の奥が、ぐっと痛んだ。
佐伯がまた、自分を追い込んでいる。
分かっている。
でも、ここで美月が止めたら、また元に戻る。
佐伯が言えないことを、美月が言う。
優作が踏み込めないところを、美月が踏む。
真壁が判断に迷うところを、美月が人の痛みとして置き直す。
それは、ずっとやってきたことだった。
たぶん、誰かの役には立った。
でも、そのたびに美月の中の何かが少しずつ減っていた。
「佐伯さん」
声を出したのは、美月ではなかった。
優作だった。
佐伯が顔を上げる。
優作は少しだけ息を吸った。
「今日中に全部は、厳しいと思います」
佐伯の表情が固まる。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫かどうかではなく、作業量として厳しいと思います」
優作の声は、少し震えていた。
「問い合わせ先の確認は、僕が半分持ちます。ケース集の分類は、桐谷さんと相談します」
桐谷がすぐに頷いた。
「俺いける」
黒川も言った。
「部署名の正誤確認は私が見ます」
真壁が頷く。
「分ける。佐伯一人にはしない」
佐伯は、何か言おうとして、やめた。
「……ありがとうございます」
美月は、何も言わなかった。
何も言わなくても、仕事は進んだ。
それを見て、美月はほっとした。
ほっとした自分に、少し傷ついた。
自分が言わなくても、誰かが言った。
本来、それでいいはずだった。
でも、心のどこかが空いた。
自分がいらないと言われた気がしたのではない。
自分が今まで、いなくていい場所に立ち続けていた気がした。
それが痛かった。
「言わなくても分かってほしい」は、甘えに見えないことがある。
傷ついた人の最後の祈りだからだ。
でも、その祈りを受け取り続けた人の心も、少しずつ削れていく。
会議が終わったあと、佐伯はすぐに席を立たなかった。
資料を閉じたり、開いたりしていた。
美月もノートパソコンを片づけていた。
先に出ようとした時、佐伯が言った。
「相沢さん」
美月は立ち止まった。
「はい」
佐伯は、なかなか顔を上げなかった。
「気づいていましたよね」
会議室に、まだ優作がいた。
真壁も資料をまとめていた。
桐谷はドアの近くで止まった。
黒川も目を上げた。
美月は、佐伯を見た。
「何にですか」
佐伯の喉が動いた。
「僕が、大丈夫じゃないことです」
美月は黙った。
嘘はつけなかった。
「気づいていました」
佐伯の顔が、少し歪んだ。
責めているようにも見えた。
すがっているようにも見えた。
「前なら」
佐伯はそこで一度止まった。
「前なら、止めてくれましたよね」
美月の指が、資料の端に触れたまま止まった。
前なら。
その言葉が、机の上に落ちた。
前なら、確かに止めた。
佐伯さん、今の大丈夫ですは少し違うと思います。
一度、作業量を整理した方がいいです。
そう言って、佐伯を助けたかもしれない。
佐伯だけじゃなく、場も助けたかもしれない。
優作も、真壁も、桐谷も、黒川も。
そして自分だけが、また少し削れたかもしれない。
美月は静かに言った。
「前なら、ですね」
佐伯の目が揺れた。
「だったら」
その先を、佐伯は言えなかった。
言ってしまえば、自分が何を求めていたのか分かってしまうからだった。
気づいていたなら助けてほしかった。
言わなくても分かってほしかった。
自分がまた大丈夫ですと言ってしまう前に、止めてほしかった。
美月は、その言葉にならなかった部分まで分かってしまった。
分かったから、苦しかった。
でも、言わなかった。
「佐伯さん」
「はい」
「気づいたなら、助けなきゃいけないんですか」
佐伯は何も言えなかった。
その顔を見た瞬間、美月の胸が痛んだ。
痛ませたのは、自分だと思った。
でも、その痛みを見てすぐに謝れば、また元に戻る。
優しい人。
分かる人。
傷つけない人。
その席に戻される。
美月は、戻りたくなかった。
「助けたくなかったわけではありません」
佐伯は顔を上げた。
美月は続けた。
「でも、私が気づいたものを全部拾っていたら、私はずっとそこにいなきゃいけなくなります」
佐伯は黙っていた。
「誰かの“大丈夫です”を、毎回、私が違うと言うんですか」
佐伯の指が震えた。
「誰かの沈黙を、毎回、私が意味にするんですか」
美月の声は荒くなかった。
だから余計に、痛かった。
「それをしない私は、冷たいですか」
佐伯はすぐに首を振った。
「違います」
「でも、そう感じましたよね」
佐伯は答えられなかった。
美月は小さく頷いた。
「私も、そう感じています」
会議室の誰も動かなかった。
美月は、少しだけ目を伏せた。
「助けなかった自分が、すごく嫌です」
佐伯の顔が歪んだ。
「すみません」
「謝られると、私が悪い人になれません」
佐伯は言葉を失った。
美月は、資料を抱え直した。
「今日は、悪い人でいさせてください」
その言葉は、佐伯に向けたものでもあり、自分に向けたものでもあった。
佐伯は何も言わなかった。
優作も何も言えなかった。
真壁も、桐谷も、黒川も。
誰かが美月を責めれば、美月は楽だったかもしれない。
誰かが美月を許せば、美月はもっと苦しかったかもしれない。
だから、誰も何も言わなかった。
美月は会議室を出た。
廊下に出ると、鞄の中でスマホが震えた。
母からだった。
美月は画面を見た。
お父さん、今日は普通にしてる。昨日はごめんね。
美月は、その文を読んだ。
普通にしてる。
昨日はごめんね。
それだけで、また実家の食卓が浮かんだ。
父の湯呑み。
母の声。
茶碗の音。
自分が入れたお茶。
よく気がつくね。
美月はスマホを伏せた。
返信はしなかった。
でも、読んでしまった。
読んでしまえば、もう気づいている。
気づいているのに、動かない。
その重さを、今日は自分で持つしかなかった。
会議室の中では、まだ誰も大きな声を出していなかった。
佐伯が泣いているわけではない。
優作が追ってくるわけでもない。
誰かが美月を止めるわけでもない。
美月は廊下の端で、少しだけ立ち止まった。
見えているのに、拾わない。
それは冷たさに似ていた。
でも、今の美月には、それ以外の立ち方が分からなかった。
見えているのに拾わないことは、冷たさに見える。
でも、見えたものを全部拾っていたら、その人は自分の人生から消えていく。
美月は歩き出した。
胸の奥は、少しも軽くなっていなかった。
むしろ、重くなっていた。
誰かを助けないことは、自由ではなかった。
ただ、自分をこれ以上差し出さないために、誰かの痛みを見たまま通り過ぎることだった。
それは思っていたよりずっと、ひどいことに見えた。
それでも今日は、そのひどい人でいるしかなかった。
第55話へ続く。