『やさしさ迷惑55/100』

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学び
第55話
助けてほしかったです

前話:佐伯がまた「大丈夫です」と言った時、美月はそれが嘘だと気づいていた。けれど、何も言わなかった。気づいたものをすべて拾えば、自分はまた“気づく係”に戻される。会議後、佐伯は美月に「前なら止めてくれましたよね」と言った。美月は「気づいたなら、助けなきゃいけないんですか」と返した。助けたくなかったわけではない。それでも美月は、その日だけは悪い人でいようとした。

佐伯は、助かったはずだった。

問い合わせ先一覧は、優作が半分持った。

部署名の確認は、黒川が見ることになった。

ケース集の分類は、桐谷が引き取った。

真壁も、佐伯一人にはしないと言った。

だから、仕事としては助かった。

締切にも間に合う。

資料も形になる。

誰も佐伯を責めていない。

それなのに、佐伯は少しも楽になっていなかった。

助けてほしかったのは、そこではなかった。

「大丈夫です」と言った瞬間だった。

自分がまた、大丈夫ではないものを大丈夫にしようとした瞬間。

その時に、誰かに止めてほしかった。

特に、美月に。

そう思ってしまった自分が、佐伯は嫌だった。

自分で言えばよかった。

無理です。

量が多いです。

一度、整理したいです。

そう言えばよかった。

分かっている。

分かっているから、余計に腹が立った。

誰に対してなのか分からない怒りが、胸の奥でずっと消えなかった。

翌朝、佐伯はいつもより早く会社に着いた。

昨日の資料を開く。

修正箇所は多い。

でも、手を動かせば終わる。

仕事は、言い訳を聞かない。

だから楽な時もある。

佐伯は問い合わせ先一覧を直しながら、何度も同じところで手が止まった。

担当者未確認。

確認中。

要再チェック。

そういう言葉を見るたびに、自分の中にも同じ札が貼られている気がした。

未確認。

確認中。

要再チェック。

大丈夫です、と言ってしまう自分。

助けてほしいのに、助けてほしいと言えない自分。

それを誰かに見つけてほしい自分。

そして、見つけてもらえなかったことに傷つく自分。

面倒くさい。

佐伯は、自分でそう思った。

自分が一番、自分のことを面倒くさいと思っていた。

十時の確認会で、修正版の資料が映された。

黒川が淡々と確認する。

「部署名は修正されています」

桐谷が言う。

「ケース集も、昨日より見やすいっすね」

真壁が頷く。

「この形で一度、人事に当てるか」

優作が画面を見ながら言った。

「はい。導線としては進められると思います」

美月は、資料を見ていた。

必要なところだけ確認し、必要なところだけ言う。

「三ページ目、語尾が揃っていません」

「五ページ目、確認先の表記が一箇所だけ違います」

「冒頭文は、このままで問題ありません」

仕事としては、何も間違っていなかった。

むしろ、昨日よりずっと明確だった。

人の内側に入らない。

感情を拾わない。

文章を見る。

役割を絞る。

美月は、ちゃんと線を引いていた。

その線が、佐伯には冷たく見えた。

冷たく見えた瞬間、佐伯は自分が嫌になった。

美月が冷たいのではない。

自分が、まだ美月に温度を求めている。

自分で立てないところを、美月の気づきに支えてもらおうとしている。

分かっている。

分かっているのに、苦しい。

察してほしいは、甘えだけではない。
言ったら壊れる場所で生きてきた人が、最後に残した小さな合図でもある。

会議が終わったあと、佐伯は立ち上がれなかった。

資料は閉じた。

ノートも閉じた。

でも、体が動かなかった。

美月がパソコンを閉じ、立ち上がる。

その瞬間、佐伯は言った。

「相沢さん」

美月が止まった。

「はい」

佐伯は、言ったあとで後悔した。

でも、もう戻せなかった。

優作がまだ会議室にいた。

真壁も資料をまとめていた。

桐谷は出口の近くで足を止めた。

黒川は画面を閉じずに、視線だけを上げた。

早坂は、会議室の端でノートパソコンを鞄にしまっていた。

誰も出ていかない。

誰も助けない。

佐伯は、自分で言うしかなかった。

「昨日」

声が少し掠れた。

「助けてほしかったです」

美月は、何も言わなかった。

佐伯は続けた。

「僕が大丈夫ですって言った時」

「はい」

「本当は違うって、分かってましたよね」

美月は目をそらさなかった。

「分かっていました」

その答えが、佐伯の胸に落ちた。

やっぱり。

そう思った。

分かっていた。

分かっていたのに、言わなかった。

それだけで、佐伯の中の何かが少し歪んだ。

「じゃあ」

佐伯は、指先を握った。

「じゃあ、僕はどうしたらよかったんですか」

美月は黙っていた。

「自分で言えばよかったんですよね」

佐伯は笑おうとした。

笑えなかった。

「分かってます」

誰も動かない。

「でも、言えないから、大丈夫ですって言うんです」

その言葉が、会議室に落ちた。

優作の顔が少し変わった。

真壁も、桐谷も、黒川も、何も言わなかった。

佐伯は、美月だけを見ていた。

「言える人だけが救われるなら」

一度、声が止まった。

「僕みたいな人は、ずっと無理です」

美月の表情が、少しだけ揺れた。

佐伯は、それにも気づいた。

気づいて、また嫌になった。

自分は今、美月を傷つけている。

でも、止まれなかった。

「相沢さんは、気づいてくれる人だと思ってました」

美月の指が、資料の角に触れた。

「それを、勝手に期待してました」

佐伯は言った。

「でも」

声が少し強くなった。

「期待してたら、だめなんですか」

誰も答えなかった。

「僕が言えないことを、誰かに分かってほしいって思うのは、そんなに悪いことですか」

美月は、目を伏せなかった。

でも、すぐには答えなかった。

佐伯は息を吸った。

「助けてほしかったです」

もう一度言った。

「気づいてたなら、止めてほしかったです」

その声は、子どもみたいだった。

優作はそう思いかけて、すぐに自分を嫌になった。

子どもみたい。

その言葉で佐伯を下に置こうとした。

弱い人。

言えない人。

助けてもらう人。

そうやって名前をつければ、自分は少し楽になる。

優作は、何も言えなかった。

助けてと言えない人は、助けてほしい顔をする。
でも、その顔を誰かが読み続けるかぎり、その人は言葉を持たないままでいられてしまう。

美月が、静かに言った。

「佐伯さん」

「はい」

「助けてほしかった、は受け取ります」

佐伯の目が揺れた。

「でも」

美月は続けた。

「助けなかった私を、悪い人にしてくれますか」

佐伯は黙った。

その問いは、予想していなかった。

美月は続けた。

「私が気づいていたのに言わなかった」

「はい」

「それで、佐伯さんは傷ついた」

「……はい」

「なら、私は悪い人です」

佐伯はすぐに首を振りそうになった。

美月は、それより先に言った。

「違うと言わないでください」

佐伯の口が止まった。

美月の声は震えていなかった。

「違うと言われると、また私は悪い人でいられなくなります」

佐伯は何も言えなかった。

美月は少しだけ息を吸った。

「私は、昨日、佐伯さんを助けませんでした」

「はい」

「気づいていたのに、拾いませんでした」

「はい」

「それで佐伯さんが苦しかったなら、私は佐伯さんにとって悪かったんだと思います」

佐伯の顔が歪んだ。

それを聞きたかったはずなのに、聞いたらもっと苦しくなった。

「でも」

美月は、そこで一度止まった。

「私は、それでも戻りたくありません」

会議室が静まり返った。

「佐伯さんの“大丈夫です”を、毎回私が止める場所には戻りたくありません」

佐伯は何も言えない。

「中村さんの迷いを、私が言葉にする場所にも戻りたくありません」

優作の胸が刺された。

「場の違和感を、私が拾って進める場所にも戻りたくありません」

真壁も、桐谷も、黒川も黙っていた。

美月は佐伯を見た。

「助けられなかったことは、消えません」

「でも、助けなかったことを責められて、すぐに元の役割に戻ることも、もうしたくありません」

佐伯は小さく言った。

「じゃあ」

言葉が喉に引っかかる。

「じゃあ、僕は」

どうすればいいんですか。

その言葉を言いたかった。

でも、言えばまた誰かに答えを求めることになる。

佐伯は、途中で黙った。

その沈黙を、美月は拾わなかった。

拾わなかった。

佐伯は、初めてその沈黙の中に置かれた。

苦しかった。

でも、その苦しさの中で、佐伯は続きを自分で言うしかなかった。

「僕は」

声が小さくなった。

「助けてほしかったです」

美月は頷いた。

「はい」

「でも、それを言わなかったのは僕です」

「はい」

「それも、分かってます」

佐伯は、唇を噛んだ。

「分かってるから、余計に腹が立ちます」

美月は何も言わなかった。

優作も何も言えなかった。

佐伯の怒りは、誰か一人に向いていなかった。

美月に向いていた。

自分に向いていた。

優作に向いていた。

この場に向いていた。

今まで「大丈夫です」で通してきた全部に向いていた。

早坂が、静かに口を開いた。

「どちらかを悪者にしたいんですか」

優作は顔を上げた。

早坂は優作を見ていた。

「悪者がいた方が、楽ですもんね」

誰も返さなかった。

佐伯も、美月も、何も言わなかった。

早坂はそれ以上言わなかった。

言いすぎることも、言わなすぎることも、今は同じくらい危なかった。

言えない人を救うために、誰かが読み続ける。
その優しさの上で、言えない人はずっと言えないまま守られてしまう。

真壁が、ゆっくり言った。

「今日の話は、ここで終わらせない」

誰も返事をしなかった。

真壁は続けた。

「でも、今ここで結論も出さない」

それは正しかった。

正しいだけだった。

佐伯は椅子に座ったまま、机の一点を見ていた。

美月は立っていた。

優作は、その間に何か言葉を置きたくて、置けなかった。

すみません。

僕が悪かった。

相沢さんだけに言わせていました。

佐伯に言わせない空気を作っていました。

どれも本当だった。

でも、今それを言えば、佐伯はまた困る。

誰を責めればいいのか。

誰に怒ればいいのか。

その出口を、優作が自分の反省で塞いでしまう。

優作は、初めて謝らないことを選んだ。

謝れなかっただけかもしれない。

それでも、言わなかった。

佐伯が立ち上がった。

「すみません」

言ってから、すぐに顔を歪めた。

「いや」

佐伯は言い直した。

「すみません、じゃないです」

美月が佐伯を見た。

佐伯は、少し震える声で言った。

「僕は、怒っています」

その言葉が、会議室の床に落ちた。

誰も拾わなかった。

拾わないことで、初めてそのまま残った。

佐伯は続けた。

「相沢さんにも」

美月は頷いた。

「はい」

「中村さんにも」

優作は頷いた。

「はい」

「自分にも」

佐伯の声が少しだけ割れた。

「一番、自分に腹が立っています」

美月は何も言わなかった。

優作も何も言わなかった。

誰も、佐伯の怒りを正しいとも、間違っているとも言わなかった。

佐伯は鞄を持った。

「少し、外に出ます」

真壁が頷いた。

「分かった」

「戻ります」

「分かった」

佐伯は会議室を出ていった。

ドアが閉まる音がした。

美月はまだ立っていた。

優作は、美月を見た。

美月は、佐伯が出ていったドアを見ていた。

その顔に、名前をつけたくなった。

傷ついた。

後悔した。

苦しんでいる。

でも、どれも美月から奪った言葉だった。

優作は、何も思わないようにした。

でも、何も思わないことはできなかった。

美月が言った。

「中村さん」

「はい」

「今、私に何か言おうとしましたか」

優作は少し黙った。

「言おうとしました」

「何をですか」

「分かりません」

美月は少しだけ頷いた。

「なら、言わないでください」

「はい」

美月は資料を持ち直した。

「私も、言わないでおきます」

その言葉の意味を、優作は聞けなかった。

美月は会議室を出ていった。

誰も追わなかった。

佐伯もいない。

美月もいない。

残ったのは、優作と、真壁と、桐谷と、黒川と、早坂。

そして、佐伯の言葉だった。

助けてほしかったです。

僕は、怒っています。

その声だけが、会議室に残っていた。

誰も謝らなかった。

誰も許さなかった。

誰もまとめなかった。

それでも、仕事の資料だけは画面に残っていた。

問い合わせ先一覧。

ケース集。

確認フロー。

人が壊れそうになっても、資料は進む。

そのことが、ひどく残酷だった。

第56話へ続く。
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