第56話
怒りを片づけないでください
前話:佐伯は、美月に「助けてほしかったです」と言った。大丈夫ではないのに「大丈夫です」と言ってしまう自分を、本当は止めてほしかった。けれど美月は、気づいていたのに助けなかった。佐伯は怒っていた。美月にも、優作にも、自分にも。誰も謝らず、誰も許さず、誰もまとめなかった。会議室には、佐伯の怒りだけが残った。
佐伯は、普通に出社した。
普通にドアを開けた。
普通に「おはようございます」と言った。
普通にパソコンを開いた。
普通に昨日の資料を直し始めた。
それが、周りを一番困らせた。
怒っている人は、怒っている顔をしてくれた方が扱いやすい。
机を強く閉めるとか。
返事をしないとか。
目を合わせないとか。
そういう形があれば、周りは態度を決められる。
気を遣う。
距離を取る。
謝る。
様子を見る。
でも、佐伯は普通だった。
普通に仕事をしていた。
普通に確認を返した。
普通に電話も取った。
その普通の中に、昨日の怒りだけが残っていた。
誰も、それをどう扱えばいいのか分からなかった。
優作は、朝から何度も佐伯の席を見そうになった。
見るたびにやめた。
でも、見ないようにしている自分にも気づいていた。
美月はいつも通り、資料の修正コメントを返している。
佐伯の方は見ない。
見ないようにしているのか。
本当に見ていないのか。
優作には分からない。
分からないことが、こんなに落ち着かない。
十時前、佐伯が優作の席に来た。
「中村さん」
「はい」
「昨日の問い合わせ先一覧、修正版です。確認お願いします」
声はいつも通りだった。
表情も崩れていない。
優作は資料を受け取った。
「あ、ありがとうございます」
それだけ言えばよかった。
でも、言えなかった。
胸の中に、昨日からずっと残っている言葉があった。
助けてほしかったです。
僕は、怒っています。
その言葉の前で、自分が何もしていないことに耐えられなかった。
「佐伯」
佐伯が顔を上げる。
「はい」
優作は、言ってしまった。
「昨日のこと、すみませんでした」
佐伯の表情は変わらなかった。
でも、目の奥だけが少し沈んだ。
優作は続けようとした。
「僕がもっと早く気づいて、会議の中で——」
「中村さん」
佐伯が遮った。
声は大きくなかった。
「謝られると、僕が怒りにくくなります」
優作の口が止まった。
佐伯は資料を持つ手に、少しだけ力を入れた。
「謝ってほしくないわけじゃないです」
「はい」
「でも、謝られると」
一度、佐伯は言葉を探した。
「僕が、許す側になります」
優作は何も返せなかった。
「まだ怒っていたいのに」
その言葉は、静かだった。
静かな分だけ、逃げ場がなかった。
怒りを出された人は、すぐに謝りたくなる。
相手のためではない。
自分が“怒らせた側”に立っている時間に耐えられないからだ。
佐伯は、少しだけ目を伏せた。
「すみません」
言ってから、すぐに顔を歪めた。
「また言いました」
優作は何か言いそうになって、やめた。
謝らなくていい。
そう言えば、また佐伯の言葉を止めることになる。
佐伯は小さく息を吐いた。
「昨日、怒っているって言いました」
「はい」
「でも、今朝来たら、みんな普通で」
優作は何も言わなかった。
「僕も普通にしなきゃいけない気がしました」
佐伯の声は、少しずつ固くなっていった。
「仕事はありますし」
「はい」
「資料も直さなきゃいけないですし」
「はい」
「だから普通にしてます」
佐伯は、優作を見た。
「でも、普通にしてるからって、落ち着いたことにしないでください」
優作の胸が痛んだ。
「はい」
「仕事をしているからって、もう大丈夫になったことにしないでください」
「はい」
佐伯は、それ以上言わなかった。
資料を優作の机に置いた。
「確認お願いします」
「確認します」
佐伯は自分の席に戻った。
優作は、渡された資料を見た。
文字は整っていた。
表も整っていた。
確認先も埋まっていた。
仕事は進んでいる。
怒りは、進んでいない。
そのことが、ひどく重かった。
昼前の短い確認会で、真壁はいつもより言葉を選んでいた。
「昨日の件もあるから、一度、タスクの持ち方を整理する」
その一言で、佐伯の指が止まった。
真壁も気づいた。
「業務上の話としてな」
補足した。
でも、その補足がもう業務上だけではないことを示していた。
黒川が資料を見ながら言う。
「再発防止としては、タスクの見積もりと受け渡し時の確認項目を明確にする必要があります」
桐谷が少し苦い顔をした。
「再発防止って言うと、事故報告みたいっすね」
黒川は桐谷を見た。
「実際、運用上の不具合です」
「まあ、そうなんすけど」
桐谷は頭をかいた。
「佐伯の怒りまで、運用に入れる感じがして、ちょっと嫌っす」
黒川は黙った。
真壁もペンを止めた。
佐伯は何も言わない。
美月も言わない。
早坂は、会議室の端で資料を見ていた。
優作は、黒川の言葉が間違っていないことも分かっていた。
タスクの持ち方は整理した方がいい。
確認項目も作った方がいい。
再発防止は必要だ。
でも、それをやった瞬間に、佐伯の怒りが“改善材料”に変わってしまう気もした。
怒りが、資料に吸い込まれる。
チェックリストになる。
運用ルールになる。
次回から気をつけましょう、になる。
それはきっと必要だ。
でも、今すぐそこへ運ぶことが、本当に必要なのかは分からなかった。
早坂が言った。
「みなさん、怒っている人を見ると、すぐ処理したがるんですね」
会議室が止まった。
桐谷が少し顔を上げる。
「処理?」
早坂は頷いた。
「謝罪する」
「整理する」
「ルールにする」
「前向きにする」
「仕事に戻す」
早坂は佐伯を見なかった。
誰か一人を責める言い方ではなかった。
「怒りがそのまま置いてあるのが、苦手なんだと思います」
優作は、何も言えなかった。
その通りだった。
佐伯が怒っている。
ただ、それだけのことに耐えられない。
謝りたい。
整理したい。
意味をつけたい。
成長にしたい。
怒りを、何か扱いやすいものに変えたい。
そうしないと、自分たちが落ち着かない。
怒っている人を前向きにしようとするのは、優しさではないことがある。
その怒りを長く見ていられない人たちの、片づけ作業だ。
真壁が深く息を吐いた。
「じゃあ、どうすればいい」
早坂は真壁を見た。
「私に聞くんですか」
真壁は一瞬止まった。
「……そうだな。悪い」
早坂は少しだけ頷いた。
「私は答えを持っていません」
誰も笑わなかった。
早坂は続けた。
「ただ、今この場では、佐伯さんの怒りを“次に活かす話”にするのが早すぎるように見えます」
佐伯の表情が、ほんの少し動いた。
早坂は、それ以上何も言わなかった。
解説しない。
救わない。
ただ、置いた。
その言葉のせいで、会議室はさらに扱いにくくなった。
真壁が資料を閉じた。
「分かった」
一拍置いて、言った。
「タスク整理はする。ただ、昨日の話を終わったことにはしない」
佐伯は黙っていた。
真壁は佐伯を見る。
「佐伯」
「はい」
「今、確認したいのは業務量だけだ」
「はい」
「怒ってるかどうかは、今ここで答えなくていい」
佐伯は少しだけ目を伏せた。
「分かりました」
その返事が本当に分かりましたなのか、優作には分からなかった。
分からないまま、会議は続いた。
業務量は分けられた。
締切は調整された。
資料は進んだ。
でも、誰も楽になっていなかった。
午後、美月が佐伯の席に来た。
優作は、それを見ないようにした。
でも、声は聞こえた。
「佐伯さん」
「はい」
「昨日のことについて、私は今、謝りません」
佐伯は顔を上げた。
周りの空気が少し固くなった。
美月は続けた。
「謝る言葉を使うと、私が少し楽になる気がするからです」
佐伯は黙っていた。
「助けなかったことを、なかったことにはしません」
「はい」
「佐伯さんが怒っていることも、消さなくていいと思っています」
美月の声は、低く、平らだった。
でも冷たくはなかった。
「ただ」
佐伯の指が止まる。
「私は、佐伯さんの怒りを受け取ったからといって、前の役割には戻りません」
佐伯は少しだけ口を開いた。
でも何も言わなかった。
美月は言った。
「怒っていてください」
佐伯の目が揺れた。
「私に対しても」
「……はい」
「中村さんに対しても」
優作の手が止まった。
「自分に対しても」
佐伯は黙った。
美月は続けた。
「ただ、その怒りを、私が代わりに言葉にすることはしません」
佐伯は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく頷いた。
「分かりました」
美月は少しだけ目を伏せた。
「分からなくてもいいです」
その言葉に、佐伯は何も返さなかった。
美月は自分の席に戻った。
優作は、美月の背中を見てしまった。
見ないようにしていたはずなのに、見た。
その背中に、また名前をつけそうになる。
強い。
冷たい。
苦しい。
誠実。
どれも違う気がした。
どれも、自分が落ち着くための言葉だった。
夕方、佐伯が修正資料を共有した。
チャットには、短く書かれていた。
修正版を格納しました。確認お願いします。
いつもの文面だった。
でも、その数分後、もう一通送られてきた。
今も怒っています。
ただ、作業は進めます。
落ち着いたという意味ではありません。
チームのチャットが、そこで止まった。
誰もすぐに返信しなかった。
返信しないことが正解なのか。
何か返すべきなのか。
また全員が迷っていた。
桐谷が最初に打った。
確認します。
次に黒川。
資料を確認します。
真壁。
作業ありがとう。怒りについては、終わったことにしない。
優作は画面を見ていた。
何を書くべきか分からない。
すみませんでした。
違う。
ありがとう。
それだけでも違う。
分かりました。
違う。
佐伯の怒りを、受け取りました。
重すぎる。
何を書いても、佐伯の怒りに触りすぎる気がした。
結局、優作はこう打った。
資料を確認します。
今の状態を、落ち着いたとは扱いません。
送信したあと、胸が少し苦しくなった。
正しいことを言えた気はしなかった。
ただ、片づけないと決めただけだった。
人の怒りは、すぐに結論へ運ばなくていい。
謝罪にも、反省にも、成長にも変えず、ただそこに置いておく時間が必要な時がある。
定時を過ぎても、佐伯は席にいた。
美月もいた。
優作も残っていた。
誰も長く話さなかった。
それぞれが、それぞれの画面を見ていた。
怒りがあるまま、仕事をする。
謝罪がないまま、仕事をする。
許しがないまま、仕事をする。
それは不健全なのかもしれない。
でも、すぐに健全な形に直すことの方が、今日は不誠実に思えた。
佐伯が席を立った。
鞄を持つ。
優作は反射的に声をかけそうになった。
今日はありがとうございました。
お疲れさまでした。
気をつけて。
全部、いつもの言葉なのに、今日はどれも余計に見えた。
佐伯が先に言った。
「お先に失礼します」
声は普通だった。
でも、普通の声で怒っていた。
真壁が返す。
「お疲れ」
桐谷も言う。
「お疲れ」
黒川が頷く。
「お疲れさまです」
美月は少し遅れて言った。
「お疲れさまです」
優作も言った。
「お疲れさまです」
佐伯は会釈して出ていった。
ドアが閉まる。
誰も、ため息をつかなかった。
ため息をつけば、佐伯がいなくなって楽になったみたいになる。
だから誰もつかなかった。
早坂が鞄を持ちながら言った。
「怒りって、みなさん苦手なんですね」
優作は小さく返した。
「得意な人はいないと思います」
早坂は首を振った。
「そうじゃなくて」
一拍。
「怒られる側に立つのが、苦手なんですね」
優作は、返せなかった。
早坂は続けなかった。
そのまま会議室を出ていった。
美月も席を立った。
優作は、今度は見なかった。
いや、見ないようにした。
でも、見ないようにしていることを、自分で分かっていた。
美月が横を通る。
一瞬だけ止まった。
「中村さん」
「はい」
「佐伯さんの怒りを、私の罪にしないでください」
優作は息を止めた。
美月は続けた。
「私のせいにすれば、中村さんは少し楽になると思います」
「……はい」
「でも、佐伯さんはたぶん、それで楽になりません」
優作は何も言えなかった。
美月は、それ以上言わなかった。
歩いていった。
優作は席に残った。
画面には、佐伯のチャットがまだ残っている。
今も怒っています。
ただ、作業は進めます。
落ち着いたという意味ではありません。
優作は、その文字を閉じられなかった。
閉じたら、終わったことにしてしまいそうだった。
怒りは、資料のように保存できない。
タスクのように完了できない。
会議のように議事録にまとめられない。
それでも明日になれば、また仕事は始まる。
怒ったままの人が来る。
怒らせた側の人も来る。
助けなかった人も来る。
謝れなかった人も来る。
そして、何事もなかったように資料は開かれる。
何事もなかったわけではないまま。
優作は、佐伯のチャットを開いたまま、しばらく動けなかった。
怒りを片づけない。
そう決めただけで、何も解決していなかった。
第57話へ続く。