第57話
怒っている人扱いしないでください
前話:佐伯は、自分の怒りを初めて言葉にした。助けてほしかった。怒っている。けれど優作が謝ろうとすると、佐伯は「謝られると、僕が許す側になります」と言った。怒りをすぐ謝罪や反省や成長に変えないこと。片づけないこと。佐伯はチャットに「今も怒っています。ただ、作業は進めます。落ち着いたという意味ではありません」と残した。誰もそれを終わったことにはできなかった。
翌朝、佐伯の資料には、誰も赤を入れなかった。
間違っていなかったからではない。
間違っていると言いにくかったからだ。
オンボーディング資料の修正版。
新人が迷いやすいケース集。
問い合わせ先一覧。
初日の確認フロー。
佐伯は、昨日のうちにかなり直していた。
整っている。
表も見やすい。
部署名も修正されている。
けれど、肝心なところが弱かった。
困った時は、周囲に相談しましょう。
必要に応じて、上長へ確認してください。
不明点は、関係部署へ問い合わせてください。
言葉はきれいだった。
でも、動けない。
誰に。
いつ。
何を。
どの順番で。
それが分からない。
新人向けの資料なのに、新人が一番迷う場所で、また空気を読ませようとしている。
優作は気づいた。
黒川も、たぶん気づいていた。
桐谷も、少しだけ眉を寄せた。
真壁も資料を見たまま、ペンを止めた。
美月は画面を見ていた。
何も言わなかった。
誰も最初の一言を出せなかった。
理由は分かっていた。
佐伯が怒っているから。
昨日、怒っていると明言したから。
まだ落ち着いたわけではないと、わざわざチャットに書いたから。
だから、いつもなら言える指摘が、急に重くなっていた。
ここを直した方がいい。
このままだと伝わらない。
新人が迷う。
そう言えばいいだけだった。
仕事の話として。
でも、その仕事の話が、今だけ佐伯の怒りに触れるような気がした。
真壁が資料を見ながら言った。
「全体としては、形になってるな」
その言葉は、便利だった。
間違ってはいない。
でも、言い切っていない。
黒川が続ける。
「大枠は整理されています」
大枠。
整理。
それも便利な言葉だった。
桐谷が少し笑おうとして言った。
「だいぶ見やすくなったっすね」
だいぶ。
見やすい。
誰も嘘はついていない。
でも、誰も本当のことを言っていなかった。
佐伯は画面を見ていた。
表情は変わらない。
変わらないから、余計に誰も言えなかった。
早坂が、資料の三ページ目を見たまま言った。
「これ、このままだと使えません」
会議室の空気が固まった。
佐伯の指が止まった。
優作の背中も、少しだけ硬くなった。
桐谷が反射的に言う。
「早坂さん、言い方」
早坂は桐谷を見た。
「言い方を整えれば、使える資料になりますか」
桐谷は黙った。
早坂は資料に目を戻した。
「困った時は周囲に相談しましょう、では新人は動けません」
一拍。
「周囲とは誰か」
「何を持っていけばいいのか」
「上長に確認する前に何を確認するのか」
「それが書かれていません」
黒川が静かに頷いた。
「指摘としては正しいです」
佐伯の顔が、少しだけ赤くなった。
恥ずかしさなのか。
怒りなのか。
悔しさなのか。
誰も名前をつけられなかった。
早坂は続けた。
「怒っている人の資料には、赤を入れてはいけないルールですか」
誰も答えなかった。
その一言は、佐伯ではなく、周りに刺さった。
優作は、机の下で手を握った。
言えなかった。
自分は気づいていた。
使えないとまでは言えなくても、このままでは弱いと思っていた。
でも言わなかった。
佐伯を傷つけたくなかったから。
いや、違う。
佐伯をこれ以上怒らせたくなかったから。
もっと言えば、怒らせた側に立つ時間を増やしたくなかったから。
怒っている人を大切に扱うふりをして、ただ腫れ物として避けることがある。
そこには敬意ではなく、面倒なものを刺激したくない臆病さがある。
佐伯が小さく息を吸った。
「言ってください」
誰もすぐには反応しなかった。
佐伯は、画面を見たまま言った。
「使えないなら、使えないって言ってください」
真壁が口を開く。
「佐伯、言い方の問題もあるから」
「違います」
佐伯は珍しく、真壁の言葉を遮った。
会議室が止まった。
佐伯自身も少し驚いた顔をした。
でも、続けた。
「言い方は、きつかったです」
早坂は頷いた。
「はい」
「でも、資料の指摘は必要だったと思います」
早坂は何も言わない。
佐伯は、優作を見た。
「中村さんも、気づいてましたよね」
優作は逃げられなかった。
「気づいていました」
「どうして言わなかったんですか」
優作は、すぐに答えられなかった。
きれいな理由はいくつか浮かんだ。
昨日のことがあったから。
佐伯の状態を考えて。
言い方を選んでいた。
もう少し後で伝えようと思っていた。
どれも、嘘ではない。
でも本当でもなかった。
「佐伯が怒っているから、言いにくかったです」
佐伯の目が、少しだけ揺れた。
優作は続けた。
「刺激したくありませんでした」
言った瞬間、自分の言葉の嫌さが分かった。
刺激したくない。
その言い方は、佐伯を人ではなく、危ないもののように扱っていた。
佐伯は、少しだけ笑った。
笑いではなかった。
「それ、一番嫌です」
優作は何も言えなかった。
「僕が怒ってることを理由に、仕事の話を薄められるのは嫌です」
佐伯は資料を見た。
「怒っているから、指摘しにくい」
「怒っているから、様子を見る」
「怒っているから、今はやめておく」
佐伯の声は、少しずつ低くなっていった。
「それ、僕が仕事の相手じゃなくなってる感じがします」
会議室は静かだった。
美月が、初めて顔を上げた。
「三ページ目」
全員の視線が、美月に向いた。
美月は佐伯を見ず、資料を見ていた。
「確認フローとして使えません」
佐伯の肩が、わずかに動いた。
美月は続けた。
「理由は三つです」
「一つ目。相談先が抽象的です」
「二つ目。新人が自分で判断する範囲が広すぎます」
「三つ目。上長確認に進む条件が曖昧です」
美月の声は、仕事の声だった。
冷たくはない。
優しくもない。
ただ、逃げていない声だった。
「修正するなら、“困った時”ではなく、“この状態になったらこの人に確認する”に変えた方がいいです」
佐伯は資料を見つめていた。
痛そうだった。
でも、聞いていた。
美月は言った。
「これは、佐伯さんの状態の話ではありません」
一拍。
「資料の話です」
佐伯は小さく頷いた。
「はい」
その返事は、すぐには出なかった。
時間がかかった。
でも、佐伯自身の返事だった。
怒りを受け止めることと、怒っている人を特別扱いすることは違う。
指摘されなくなった瞬間、その人は対等な仕事相手ではなくなる。
会議は、そこからようやく動き始めた。
黒川が表を開く。
「確認先は、一次窓口と最終確認者を分けた方がいいです」
桐谷が言う。
「新人が最初に見るなら、“迷ったらここ”を一番上に置いた方がいいっすね」
真壁がメモを取る。
「ケース集は、場面別にしよう。初日、配属後一週間、トラブル時」
優作も言った。
「佐伯、三ページ目は僕も一緒に見ます」
言った瞬間、佐伯の顔を見てしまった。
助けに行きすぎたかもしれない。
佐伯は少しだけ黙った。
それから言った。
「お願いします」
短い返事だった。
優作は、それ以上何も足さなかった。
助かります。
無理しないでください。
大丈夫ですか。
どれも言わなかった。
ただ資料を開いた。
資料だけを見る。
それが、こんなに難しい。
昼前に会議が終わった。
佐伯は自分のノートパソコンを閉じず、画面を見ていた。
早坂が立ち上がる。
そのまま出ていこうとして、佐伯の横で少しだけ止まった。
「言い方は、きつかったと思います」
佐伯は顔を上げた。
「はい」
「そこは調整します」
「はい」
「でも、資料は使えませんでした」
佐伯は少しだけ息を吐いた。
「分かっています」
早坂は頷いた。
「分かっているなら、いいです」
それだけ言って、会議室を出ていった。
桐谷が小さく言った。
「やっぱ強えな」
黒川が資料を閉じながら言う。
「指摘と人格を分けています」
桐谷が顔をしかめる。
「黒川さんのそういう言い方もまあまあ強いっす」
黒川は少しだけ考えた。
「気をつけます」
桐谷は「そこは素直なんすね」と言いかけて、やめた。
佐伯がまだそこにいたからだった。
そのやめ方に、佐伯は気づいた。
気づいてしまった。
「桐谷さん」
「ん?」
「今、僕がいるから言うのやめましたか」
桐谷の顔が固まった。
「……ちょっと、そう」
佐伯は頷いた。
「言っていいです」
桐谷は困った顔をした。
「いや、なんか今、何言ってもむずいじゃん」
「はい」
「でも、それ言うとまた、佐伯を怒ってる人扱いしてる感じになるし」
佐伯は、少しだけ目を伏せた。
「はい」
桐谷は頭をかいた。
「めんどくせえな」
その言葉で、会議室の空気が止まった。
桐谷自身も、しまったという顔をした。
佐伯は少しだけ笑った。
今度は、少しだけ本当に笑っていた。
「はい」
「そこは肯定すんなよ」
桐谷の声に、少しだけいつもの温度が戻った。
でも、すぐに消えた。
戻りきらない。
戻してはいけないものもある。
佐伯は言った。
「僕も、自分でめんどくさいと思っています」
桐谷は何も返せなかった。
その言葉を軽く扱えば、また逃げになる。
重く扱えば、佐伯を壊れ物にする。
桐谷は、結局何も言わなかった。
何も言えなかった。
午後、佐伯と優作は三ページ目の修正を並んで見た。
佐伯が作った文章を、優作が読み上げる。
「困った時は、周囲に相談しましょう」
優作は言った。
「ここを具体化します」
佐伯は頷く。
「はい」
「例えば、“ログインできない場合は、まず情報システム部の一次窓口へ連絡する”」
「はい」
「“業務判断に迷う場合は、直属の上長へ確認する”」
「はい」
返事はする。
でも、佐伯の手は少し遅い。
怒っているからか。
傷ついているからか。
疲れているからか。
それとも、ただ考えているだけか。
優作は、意味を探しかけた。
すぐにやめた。
「ここ、どうしますか」
資料の話に戻す。
佐伯は画面を見た。
「ケースごとに分けます」
「はい」
「新人が自分で判断しない方がいいものを、上に置きます」
「いいと思います」
優作がそう言った時、佐伯が手を止めた。
「いいと思います、は本当ですか」
優作は少し驚いた。
「本当です」
「僕に気を遣っていませんか」
優作は、すぐには答えられなかった。
その沈黙で、佐伯は分かってしまった。
「やっぱり」
「違います」
「違わないです」
佐伯は強く言った。
優作は黙った。
佐伯は画面を見たまま言った。
「気を遣わないでください、とは言えません」
一拍。
「たぶん、気を遣われたい気持ちもあります」
その正直さが、優作には痛かった。
「でも」
佐伯は続けた。
「気を遣われていることを隠されると、もっと嫌です」
優作は、ゆっくり頷いた。
「はい」
「気を遣うなら、気を遣ってるって言ってください」
「……はい」
「その上で、仕事の指摘はしてください」
優作は何も言えなかった。
佐伯は画面から目を離さずに言った。
「怒っている人扱いしないでください」
その言葉は、静かだった。
でも、昨日の怒りより、少し深いところから来ていた。
人は傷ついたあと、優しくされたいだけではない。
ちゃんと仕事の相手として、面倒でも正面から扱われたい時がある。
夕方、美月から佐伯の資料にコメントが戻った。
赤字は多かった。
多すぎるくらいだった。
三ページ目。
確認導線の順番を再設計してください。
五ページ目。
新人が判断する範囲が広すぎます。
七ページ目。
相談先の表記を部署名ではなく役割名にしてください。
最後に、一行だけあった。
これは、資料の指摘です。
佐伯はそのコメントを見て、しばらく動かなかった。
傷ついた。
たぶん、傷ついた。
でも、少しだけ助かった。
腫れ物として避けられなかった。
怒っている人だからといって、赤字を薄められなかった。
そのことに、ほっとしている自分がいた。
ほっとした自分に、また腹が立った。
佐伯は返信欄を開いた。
ありがとうございます。
そう打って、消した。
すみません。
それも消した。
確認しました。修正します。
最後に、それだけ送った。
数分後、美月から返信が来た。
お願いします。
それだけだった。
佐伯は、画面を見つめた。
冷たいと思った。
でも、冷たくないとも思った。
どちらか分からなかった。
分からないまま、修正ファイルを開いた。
赤字が並んでいる。
仕事の赤字だった。
怒りへの慰めではない。
罪悪感の調整でもない。
美月の優しさでもない。
ただ、資料への指摘だった。
それが痛かった。
それが少しだけ、必要だった。
佐伯はまだ怒っていた。
優作にも。
美月にも。
自分にも。
でも、その怒りを理由に、誰にも資料を甘く見てほしくなかった。
怒っている人として守られることと、仕事の相手として見られなくなることは、思っていたより似ていた。
その境目で、佐伯は今日も少しだけ息がしづらかった。
画面には、美月の赤字が並んでいた。
佐伯はそれを見て、少し傷ついた。
少し助かった。
そのどちらにも、まだ名前をつけられなかった。
第58話へ続く。