第58話
傷ついた側なら、何をしてもいいんですか
前話:佐伯は、怒っている人として腫れ物扱いされることに傷ついていた。仕事の指摘を薄められること。赤を入れられなくなること。怒っているからという理由で、仕事の相手ではなくなること。美月は、佐伯の資料に赤字を入れた。これは、資料の指摘です。その一行は冷たくもあり、必要でもあった。佐伯はまだ怒っていた。でも、怒っている人として守られることと、仕事の相手として見られなくなることは、思っていたより似ていた。
佐伯は、美月の赤字を見ながら、少しだけ気持ちよくなっている自分に気づいた。
最初は、痛かった。
確認導線の順番を再設計してください。
新人が判断する範囲が広すぎます。
相談先の表記を部署名ではなく役割名にしてください。
赤字は多かった。
容赦もなかった。
でも、何度も読み返しているうちに、佐伯の中で別のものが動いた。
やっぱり、見えている。
やっぱり、分かっている。
やっぱり、相沢さんは気づいている。
だったら。
だったら、どうして昨日は助けてくれなかったんですか。
その言葉が、喉の奥まで上がってきた。
佐伯は画面を見つめた。
美月のコメントは、資料だけを見ていた。
佐伯の怒りにも、疲れにも、昨日のやり取りにも触れていない。
それが正しいことは分かっていた。
分かっているのに、腹が立った。
こんなに見えるなら。
こんなに分かるなら。
今までみたいに、先に言ってくれればよかったじゃないですか。
その考えが浮かんだ瞬間、佐伯は自分の指を止めた。
それは、言ってはいけない気がした。
でも、言いたかった。
言ってはいけないと思うほど、言いたかった。
十時の確認会で、佐伯は修正版を映した。
会議室には、優作、真壁、桐谷、黒川、美月、早坂がいた。
いつものメンバーなのに、もういつもの会議室ではなかった。
怒りを置いた日から、机の配置まで少し違って見える。
佐伯は資料を説明した。
「三ページ目の確認導線は、ケース別に分けました」
声は普通に出た。
「ログイン不可、業務判断、勤怠、備品、相談先不明の五つです」
黒川が画面を見る。
「前回より具体化されています」
桐谷が頷く。
「新人目線だと、かなり動きやすいっすね」
真壁も言う。
「この方向でよさそうだな」
佐伯は美月を見ないようにした。
見れば、反応を取りに行ってしまうから。
でも、見ないようにした時点で、もう美月を見ていた。
美月は、資料を見たまま言った。
「五ページ目、相談先不明の場合の導線が弱いです」
佐伯の指が止まる。
美月は続けた。
「“迷ったら上長へ”だと、結局、本人の判断に戻っています」
「はい」
佐伯は返事をした。
「ここは、一次窓口を固定した方がいいと思います」
「はい」
美月の声は、昨日と同じだった。
資料の指摘。
仕事の声。
それなのに、佐伯の中では違うものとして聞こえた。
そんなに分かるなら。
そこまで見えるなら。
やっぱり、昨日も分かっていましたよね。
佐伯は口を開いた。
「相沢さん」
美月が顔を上げた。
「はい」
「それって、今まで相沢さんが先に言ってくれていた部分ですよね」
会議室の空気が、少しだけ固くなった。
優作が顔を上げる。
桐谷の指が止まる。
真壁が佐伯を見る。
美月は表情を変えなかった。
「何の話ですか」
佐伯は、自分でも止まれないのを感じた。
「読み手がどこで迷うかとか」
「はい」
「誰が言葉にされていない負担を持つかとか」
「はい」
「そういうところを、相沢さんが見てくれていたから、僕も気づけていた部分があります」
美月は黙っていた。
佐伯は続けた。
「それを急に、自分で見てくださいって言われても、正直困ります」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
言えた。
言ってやった。
そう思った。
その感覚に気づいて、佐伯はすぐに気持ち悪くなった。
でも、もう言葉は戻らない。
傷ついた人は、いつも正しいわけではない。
ただ、傷ついた側に立った瞬間、自分の言葉が少し正しく聞こえすぎることがある。
美月はしばらく佐伯を見ていた。
それから短く言った。
「戻りません」
佐伯の喉が詰まった。
たった四文字だった。
説明もない。
弁解もない。
謝罪もない。
でも、その四文字で、佐伯が伸ばした手は空振りした。
「戻りません、ですか」
「はい」
「僕が困っていてもですか」
美月の目が少しだけ揺れた。
でも、言葉は変わらなかった。
「はい」
佐伯の中で、何かが熱くなった。
「それは、ずるくないですか」
美月は黙った。
佐伯は続けた。
「相沢さんはずっと、気づける人だったじゃないですか」
「はい」
「みんな、それに助けられてきたじゃないですか」
「はい」
「それを急に降りますって言われても」
佐伯は、自分の声が少し強くなるのを止められなかった。
「じゃあ今までのあれは、何だったんですか」
美月は、すぐには答えなかった。
佐伯は、その沈黙にさらに腹が立った。
黙らないでください。
また、分かった顔で黙らないでください。
何か言ってください。
そう思った。
でも、それを言えば、美月にまた言葉を求めることになる。
分かっていた。
分かっていても、求めたかった。
早坂が、会議室の端から言った。
「佐伯さん」
佐伯は早坂を見た。
「それは、相沢さんを責めていますか」
一拍。
「それとも、相沢さんに戻ってきてほしいだけですか」
佐伯の顔が熱くなった。
「早坂さんには関係ないと思います」
声が硬くなった。
早坂は頷いた。
「はい」
「だったら」
「関係ないから言えます」
佐伯は黙った。
早坂は、佐伯から目をそらさなかった。
「助けてほしかった、と、元の役割に戻ってくださいは違います」
佐伯の指が、机の下で強く握られた。
「僕は、そんなこと言ってません」
「言っているように聞こえました」
「決めつけないでください」
「はい」
早坂はすぐに頷いた。
「では確認します」
一拍。
「相沢さんに、前みたいに気づいて止めてほしいと思っていますか」
会議室が静かになった。
佐伯は、答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
優作が、静かに言った。
「佐伯」
佐伯は優作を見た。
優作の顔は、迷っていた。
迷っているのに、逃げようとはしていなかった。
「佐伯が傷ついたことは、消えません」
佐伯は黙る。
優作は続けた。
「でも、それで相沢さんを元の役割に戻そうとするのは、違うと思います」
その瞬間、佐伯の中で怒りが跳ねた。
「中村さんに言われたくないです」
優作の顔が止まった。
佐伯は続けた。
「中村さんは、今まで相沢さんに言わせていた側じゃないですか」
会議室の空気が、一段重くなった。
優作は何も言わなかった。
佐伯は止まれなかった。
「自分が言えなかったことを、相沢さんが言ってくれて」
「はい」
優作が頷いた。
その素直さにも腹が立った。
「今さら、僕にそれは違うって言うんですか」
「はい」
優作は言った。
「それでも言います」
佐伯は、言葉を失った。
優作は、少し震える声で続けた。
「僕がそれをやってきたから、言います」
「……」
「佐伯が相沢さんに戻ってきてほしいと思う気持ちは、分かる気がします」
佐伯の眉が動いた。
優作はすぐに言い直した。
「いや、分かると言い切るのは違います」
一拍。
「でも、僕にもありました」
優作は美月を見なかった。
「相沢さんが気づいてくれると、楽だったんです」
美月の指が、少しだけ止まった。
優作は続けた。
「自分で見なくて済みました」
「自分で言わなくて済みました」
「自分が悪者にならなくて済みました」
佐伯は何も言えない。
「だから、佐伯に言いながら、自分にも言っています」
優作は、佐伯を見た。
「相沢さんを戻そうとするのは、違うと思います」
それは正しい言葉だった。
たぶん。
でも、正しいからこそ、佐伯は腹が立った。
「じゃあ」
佐伯は言った。
「僕が悪いんですね」
出した瞬間、会議室が止まった。
その言葉が、場を止めることを佐伯は知っていた。
知っていて、出した。
僕が悪いんですね。
それは、自分を責める言葉の形をしていた。
でも本当は、相手を黙らせる言葉だった。
違うよ。
佐伯さんは悪くない。
そう言わせるための言葉だった。
佐伯は、それに気づいてしまった。
気づいた瞬間、背中に嫌な汗が出た。
早坂が言った。
「今の言葉、便利ですね」
佐伯は早坂を睨むように見た。
「便利って、何ですか」
「全員を止められました」
早坂の声は淡々としていた。
「“僕が悪いんですね”と言えば、周りは否定しなければいけなくなる」
佐伯の顔が強張る。
「そうやって言ったつもりはありません」
「つもりは、そうかもしれません」
早坂は引かなかった。
「でも、機能としてはそうなっています」
機能。
その言葉が冷たかった。
でも、逃げられなかった。
佐伯は何も言えなくなった。
被害者の席には、座り心地の悪さと、少しの快感がある。
相手が気を遣い、自分の言葉に重さが出る。
その場所から降りるのは、思っているより難しい。
真壁が低い声で言った。
「一回止めるか」
誰もすぐには返事をしなかった。
美月が静かに言った。
「止めなくていいです」
真壁が美月を見る。
美月は佐伯を見ていた。
「佐伯さんが私に怒っているなら、それは受けます」
佐伯は、胸が痛んだ。
「でも、私は戻りません」
また、その言葉だった。
戻りません。
佐伯は、そこにぶつかるたびに、自分が何を求めていたのかを突きつけられる。
美月が続けた。
「私が気づいて助けなかったことを、佐伯さんが怒るのは分かります」
佐伯の喉が動いた。
美月はすぐに言い直した。
「いえ、分かると言うのは違いますね」
少しだけ間があった。
「怒っていることは、受け取ります」
佐伯は何も言えない。
「でも、その怒りで私を前の場所に戻すなら、私は拒みます」
「……はい」
「それで佐伯さんが、もっと私を嫌になるなら」
美月の声は、ほんの少しだけ低くなった。
「それも受けます」
佐伯は、美月を見ていられなくなった。
責めたかった。
美月を悪い人にしたかった。
でも、美月が悪い人でいることから逃げなかった瞬間、佐伯の怒りは行き場を失った。
相手が謝らない。
言い訳もしない。
でも戻らない。
その姿は、佐伯にとって一番腹立たしかった。
そして、一番逃げられなかった。
佐伯は、声を絞り出した。
「僕は」
全員が佐伯を見た。
「僕は、相沢さんに戻ってきてほしかったんだと思います」
誰も何も言わなかった。
言えば壊れる言葉だった。
佐伯は続けた。
「助けてほしかった」
「気づいてほしかった」
「止めてほしかった」
一つずつ言うたびに、胸の中のものが剥がれていく。
「でも、それだけじゃなかったです」
佐伯は、自分の声が震えているのを感じた。
「僕を傷つけたなら」
言葉が止まる。
言いたくない。
でも、もう気づいている。
「僕の痛みの分だけ、相沢さんにも不自由になってほしかった」
会議室の空気が、静かに沈んだ。
優作が息を止めたのが分かった。
桐谷が目を伏せた。
黒川も何も言わなかった。
早坂も黙っていた。
美月だけが、佐伯を見ていた。
責めていない。
許してもいない。
ただ、聞いていた。
それが苦しかった。
怒りは、自分を守るために必要なことがある。
でも、その怒りで相手を黙らせた瞬間、今度はこちらが誰かの言葉を奪っている。
佐伯は椅子に座ったまま、手元の資料を見た。
赤字が並んでいる。
美月のコメント。
これは、資料の指摘です。
あの一文の意味が、今になって少しだけ違って見えた。
美月は、佐伯を怒っている人として避けなかった。
傷ついた人として慰めなかった。
ただ、資料に赤を入れた。
そのことに救われたはずだった。
なのに自分は、その赤字の向こうに、美月の役割を取り戻そうとしていた。
見てください。
分かってください。
助けてください。
戻ってください。
それは、お願いではなかった。
傷ついた側から出した命令に近かった。
佐伯は、吐き気がした。
「すみません」
言いかけて、止めた。
また謝罪で逃げようとしている。
謝れば、場が少し動く。
誰かが「大丈夫」と言ってくれるかもしれない。
佐伯は、その道に逃げたくなった。
でも、美月をそこに戻したのは、そういう言葉だったのかもしれない。
大丈夫です。
すみません。
僕が悪いんですね。
全部、自分を下げているようで、誰かに拾わせる言葉だった。
佐伯は、言い直した。
「今、謝ろうとしました」
誰も何も言わなかった。
「でも、謝ると、また誰かに処理してもらう気がしました」
美月の表情が、わずかに変わった。
佐伯は続けた。
「だから、今は謝りません」
その言葉は、誰かを救うものではなかった。
自分を良く見せるものでもなかった。
ただ、逃げ道を一つ塞いだだけだった。
真壁が、静かに頷いた。
「分かった」
それ以上は言わなかった。
桐谷が小さく息を吐いた。
「きついな」
誰も笑わなかった。
桐谷も笑わせようとはしていなかった。
黒川が資料を見た。
「三ページ目の修正は、続けられますか」
その問いは、冷たく聞こえるかもしれなかった。
でも佐伯には、少し助かった。
佐伯は、画面を見た。
美月を見なかった。
優作も見なかった。
資料を見た。
「続けます」
声は小さかった。
でも、自分で出した声だった。
会議は、ゆっくり仕事に戻った。
何かが解決したわけではなかった。
佐伯の怒りが消えたわけでもない。
美月が楽になったわけでもない。
優作が成長したわけでもない。
ただ、佐伯の怒りの中に、佐伯自身の醜さが混じっていることだけが、見えてしまった。
夕方、佐伯は一人で修正資料を見直していた。
三ページ目。
五ページ目。
七ページ目。
美月の赤字を一つずつ反映する。
途中で、美月にチャットを送りたくなった。
戻ってきてほしかったです。
でも、その文を打った瞬間、自分がまだ美月を引っ張っている気がして消した。
助けてほしかったです。
それも、もう言った。
すみません。
それも違う。
佐伯は結局、何も送らなかった。
ただ、資料を直した。
赤字を直すたびに、少し傷ついた。
少し腹が立った。
少し、自分が嫌になった。
その全部が混ざっていて、どれが本当か分からなかった。
でも、一つだけ分かっていた。
自分は傷ついた。
それは本当だった。
でも、傷ついた自分が、いつも正しいわけではなかった。
その事実は、怒りよりずっと扱いにくかった。
退勤前、美月が佐伯の席の横を通った。
佐伯は顔を上げなかった。
美月も立ち止まらなかった。
ただ、通り過ぎる時に一言だけ言った。
「修正、見ます」
それだけだった。
佐伯は少し遅れて言った。
「お願いします」
美月は頷かなかった。
振り返りもしなかった。
そのまま歩いていった。
佐伯は画面を見た。
怒りはまだあった。
でも、もう正しさだけではなかった。
怒りの中に、自分の嫌な顔が混じっている。
それを見てしまった以上、もう被害者の席に座ったままではいられなかった。
でも、降り方も分からなかった。
第59話へ続く。