第52話
見に来ないでください
前話:早坂凪に「その優しさ、気持ち悪いです」と言われた美月は、自分が“気づける人”として立っていた場所を崩された。翌日、美月はいつも通り仕事をしたが、誰かの痛みを拾わなくなった。人の内側は見ない。少なくとも、今日は。そう言った美月に、優作は何も返せなかった。自分たちは美月の気づきに支えられていたのではない。頼っていた。そのことに、ようやく気づいた。
美月がコピー機の前で紙を落とした。
ただ、それだけだった。
数枚の資料が、床に散った。
大きな音でもなかった。
誰かが怪我をしたわけでもない。
けれど、その瞬間、島の空気が跳ねた。
佐伯が顔を上げた。
桐谷の椅子が少し鳴った。
優作も、反射的に立ち上がりかけた。
真壁の視線が動いた。
黒川の手が、一秒だけ止まった。
その全部を、美月は見た。
しゃがみながら、言った。
「大丈夫です」
その言葉に、誰も返事をしなかった。
返事をしたら、何かが始まってしまう気がした。
美月は資料を拾い上げる。
一枚。
二枚。
三枚。
ゆっくりではない。
震えてもいない。
ただ普通に拾っている。
それなのに、全員が普通に見られなかった。
美月は最後の一枚を拾い、紙の端をそろえた。
そして、顔を上げずに言った。
「見に来ないでください」
誰も動かなかった。
「落としただけです」
その声は小さくなかった。
怒鳴ってもいなかった。
でも、会議室で早坂に「気持ち悪い」と言われた時より、優作には近く刺さった。
美月は資料を持って、自分の席に戻った。
それだけだった。
でも、その場にいた全員が、自分の視線をどこに置けばいいのか分からなくなった。
朝の空気は、始まる前から壊れていた。
優作は画面を開いた。
メールの件名を読む。
読めない。
昨日の美月の言葉が残っている。
誰が傷ついているかを探すのは、今は嫌です。
分からないでください。
その言葉を守ろうとすると、美月を見てはいけない気がした。
でも、見ないようにすると、それはそれで美月だけを特別に扱っている気がした。
見るのも違う。
見ないのも違う。
普通にする。
その普通が、どこにあるのか分からなかった。
十時から、資料修正の確認会があった。
昨日のオンボーディング資料の続き。
早坂も参加している。
今日はオンラインではなく、同じ会議室だった。
早坂は、昨日と同じように席に着いた。
「よろしくお願いします」
それだけ言って、資料を開いた。
謝罪はなかった。
昨日のことに触れる様子もなかった。
それが正しいのか、冷たいのか、優作には分からなかった。
真壁が進行する。
「今日は、冒頭と確認導線だけ詰める。時間は四十分」
黒川が言う。
「確認先の表記は、各部署の運用と照合が必要です」
佐伯が頷く。
「一覧化します」
桐谷が小さく言う。
「新人が最初に見る資料で、いきなり迷子センターみたいになるのは避けたいっすね」
いつもなら、美月が少しだけ拾ったかもしれない。
「迷子センター、近いですね」
そんなふうに。
でも、美月は何も言わなかった。
資料を見ている。
仕事はしている。
ただ、場に体温を渡さない。
真壁が美月を見る。
「相沢、冒頭文の修正、見たか」
「見ました」
「どうだ」
「文章としては、前回より整理されています」
「違和感は」
美月の指が止まった。
会議室の中の何人かが、美月を見た。
その一瞬が、もう遅かった。
美月は、ゆっくり顔を上げた。
「違和感を言えばいいですか」
真壁が少し止まる。
「文章上の話だ」
「文章上の違和感だけでいいですか」
誰もすぐに答えられなかった。
早坂が資料から目を上げた。
美月は続けた。
「それとも、私が何か引っかかっているかを聞いていますか」
真壁はペンを置いた。
「すまん。確認の仕方が雑だった」
「はい」
美月は頷いた。
「文章上なら、二行目が重いです」
それだけ言った。
真壁がメモを取る。
「分かった」
「はい」
会議は進んだ。
進んでいるように見えた。
でも誰も、昨日までの速度で言葉を出せなかった。
みんな、美月に当てないように話している。
美月を避けないようにしながら、美月を避けている。
気を遣っていない顔で、気を遣っている。
その気持ち悪さが、部屋の端に溜まっていく。
心配は、優しさの顔をして相手の傷を覗きに行くことがある。
「大丈夫?」と聞きながら、本当は自分が安心したいだけの時がある。
確認会の途中、佐伯が発言した。
「このページは、問い合わせ先を表で出した方がいいと思います」
黒川が頷く。
「賛成です」
優作も言った。
「その方が動きやすいですね」
美月は何も言わない。
佐伯が少しだけ美月を見る。
ほんの一瞬だった。
でも美月は見逃さなかった。
「佐伯さん」
佐伯の肩が小さく揺れた。
「はい」
「今、私の反応を確認しましたか」
会議室が止まる。
佐伯は顔を伏せた。
「すみません」
「謝らなくていいです」
美月の声は平らだった。
「聞いています」
佐伯は、少し苦しそうに言った。
「確認しました」
美月は頷いた。
「なぜですか」
佐伯は言葉を探した。
「相沢さんが、昨日からあまり発言されていないので」
「はい」
「僕が言ったことが、的外れだったかもしれないと思って」
「それを、私の顔で確認しようとしたんですね」
佐伯は黙った。
美月は資料を見たまま言った。
「私の顔を、正解発表に使わないでください」
佐伯の顔が赤くなった。
「すみません」
「謝らなくていいです」
美月はもう一度言った。
「でも、やめてください」
その言葉に、佐伯は小さく頷いた。
優作は何も言えなかった。
佐伯の気持ちも分かる気がした。
美月の反応がないと、不安になる。
自分の言葉が合っているのか、分からなくなる。
でも、それは美月に確認することではない。
美月が黙っただけで、周りの足元が揺れる。
それは、美月が不安定なのではない。
周りが、美月の視線に寄りかかっていたからだった。
早坂が静かに言った。
「相沢さん、今度は心配される人になっているんですね」
誰も返せなかった。
美月も、少しだけ早坂を見た。
早坂は表情を変えない。
「昨日まで気づく人だったのに」
一拍。
「今日は、気づかれる人にされている」
桐谷が低く言った。
「早坂さん、それもきついっす」
早坂は桐谷を見た。
「はい」
「はいじゃなくて」
「きついと思って言っています」
桐谷は口を閉じた。
早坂は続けた。
「壊したあとに、ちゃんと壊れているか見に来るんですね」
その言葉で、美月の目が初めて揺れた。
優作は早坂を見た。
言いすぎだと思った。
でも、その言いすぎの中に、逃げられないものがあった。
自分たちは、見ていた。
美月がどれくらい傷ついたのか。
まだ怒っているのか。
もう戻れるのか。
普通にしていいのか。
距離を取るべきなのか。
その答えを、美月の顔から拾おうとしていた。
心配の顔で。
美月を見に行っていた。
壊れた人を見守るふりをして、壊れ具合を確認しに行く人がいる。
それを優しさと呼ぶから、された側は逃げ場を失う。
美月は何も言わなかった。
ただ、ペンを置いた。
その音が、やけに大きく聞こえた。
「早坂さん」
美月が言った。
「はい」
「昨日のことは、私にとってきつかったです」
会議室の空気が固まった。
美月は続けた。
「でも、今日きついのは、昨日の言葉だけではありません」
誰も動かなかった。
「昨日のことがあったから、みなさんが私を見る」
美月は、ゆっくり周囲を見た。
「見ないように見る」
「触れないように触る」
「普通にしようとして、普通ではない扱いをする」
優作は息が詰まった。
美月の視線が、優作のところで止まる。
「中村さんもです」
優作は頷くしかなかった。
「はい」
「何度も、こちらを見ました」
「はい」
「何度も、見ないようにしました」
「……はい」
美月は少しだけ目を細めた。
「どちらも分かりました」
その一言が、痛かった。
見ても分かる。
見ないようにしても分かる。
気を遣っても分かる。
気を遣わないふりをしても分かる。
美月は、気づきたくないのに、まだ気づいてしまう。
それが一番残酷だった。
真壁が低い声で言った。
「相沢、今日はここまででいい」
美月はすぐに返した。
「それは業務判断ですか」
真壁が止まる。
「……半分は、そうだ」
「もう半分は」
真壁は答えなかった。
美月は頷いた。
「なら、続けます」
「無理するな」
言った瞬間、真壁自身が口を閉じた。
美月は何も言わなかった。
何も言わないことで、その言葉をそこに置いた。
無理するな。
その優しい言葉が、今は一番扱いにくかった。
会議は、そのまま続いた。
誰も集中していなかった。
資料は進んだ。
でも、場は進んでいなかった。
昼前に会議が終わった。
早坂は資料を閉じた。
「今日の確認は、ここまでで十分だと思います」
黒川が頷く。
「私も同意です」
桐谷が言う。
「午後、重複部分まとめます」
佐伯も続ける。
「問い合わせ先の表、作ります」
美月は資料を閉じた。
「冒頭文の修正は、私が戻します」
真壁が少し迷った。
その迷いを、美月が見る。
「戻します」
もう一度言った。
今度は、確認ではなく線引きだった。
真壁は頷いた。
「頼む」
美月は「はい」と答えた。
その声に、何も乗っていなかった。
会議室を出る時、佐伯が美月に近づいた。
「相沢さん」
美月は立ち止まった。
佐伯は言った。
「さっきは、すみませんでした」
「謝罪は受け取りました」
美月は言った。
「でも、今はそれ以上はいりません」
佐伯は口を閉じた。
「はい」
美月は少しだけ佐伯を見た。
「佐伯さんが悪い、という話にしないでください」
佐伯の目が揺れた。
「はい」
「それも、私にとってはしんどいです」
佐伯はもう一度、小さく頷いた。
美月は会議室を出た。
午後、美月は普通に仕事をしていた。
普通にメールを返し、普通に資料を直し、普通に会議予定を確認していた。
その普通が、周りをさらに落ち着かなくさせた。
傷ついているなら、傷ついている顔をしてほしい。
疲れているなら、疲れている顔をしてほしい。
怒っているなら、怒っている顔をしてほしい。
そうすれば、こちらも態度を決められる。
でも、美月は普通だった。
普通にしているのに、普通に扱わせてくれない。
いや、違う。
普通に扱えないのは、こちらだった。
傷ついた人は、傷ついた顔をしなければならないわけじゃない。
でも周りは、傷ついている証拠を見つけるまで、その人を普通に戻してくれない。
夕方、優作は美月にチャットを送ろうとして、何度も消した。
「今日の資料、ありがとうございました」
違う。
「冒頭文、確認しました」
それでいい。
でも、それだけでは冷たい気がした。
「無理のない範囲で」
最悪だと思って消した。
「何かあれば」
これも消した。
「確認しました。修正ありがとうございます。」
最後にそれだけ送った。
数分後、美月から返信が来た。
「承知しました。」
それだけだった。
優作は画面を見つめた。
何も返す必要はない。
なのに、何か返したくなる。
会話を終わらせたくない。
終わると、美月が遠くに行ってしまう気がした。
その時点で、もう自分のためだった。
定時を過ぎた頃、美月が席を立った。
鞄を持っている。
帰るのだろう。
優作は声をかけなかった。
ただ、見てしまった。
美月が少しだけ振り返った。
目が合った。
逃げられなかった。
美月は、優作の席まで来た。
声は静かだった。
「中村さん」
「はい」
「私は、壊れているところを見せるために会社に来ているわけじゃありません」
優作は何も言えなかった。
「普通にしていたら、普通に扱ってください」
「はい」
「普通にできていなかったら、その時は仕事の話として言ってください」
「はい」
「心配そうに見ないでください」
優作の指が、机の下で握られた。
美月は続けた。
「それが一番、戻れなくなります」
その言葉は、怒りではなかった。
お願いでもなかった。
ただ、これ以上入ってくるなという線だった。
優作は頷いた。
「分かりました」
美月の眉が、ほんの少し動いた。
優作はすぐに言い直した。
「いえ」
美月は待った。
「そうします」
美月は、少しだけ頷いた。
「お願いします」
それだけ言って、歩き出した。
優作は、その背中を見ないようにした。
でも、見ないようにしている自分を、美月に見られている気がした。
美月は壊れていたのかもしれない。
でも、壊れていることを誰にも渡さなかった。
その強さに名前をつけそうになって、優作はやめた。
それでも、頭の中ではもう何度も名前を探していた。
強い。
痛い。
苦しい。
孤独。
どれも違う。
違うと分かっているのに、名前をつけないと落ち着かなかった。
優作は、自分がまだ美月を見に行っていることに気づいた。
その日の帰り道、美月の席には、きれいにそろえられた資料だけが残っていた。
誰も触らなかった。
誰も話題にしなかった。
でも、誰も見ないでいることもできなかった。
第53話へ続く。