『やさしさ迷惑50/100』

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学び
第50話
その優しさ、気持ち悪いです

前話:佐伯に確認役を頼む時、優作は「無理なら言ってください」と言った。けれど、実際に佐伯が「今回は外れたいです」と答えると、優作は一瞬、困った顔をしてしまった。その顔を見て、佐伯は「やっぱりやります」と戻りかける。優作はそこで、自分が“断れるように聞いたつもり”で、断られたくない質問をしていたことに気づいた。聞くなら、断られるところまで聞く。その先にしか、相手の本当の返事は来ないのかもしれないと思った。

九時五十八分。

会議室のドアが二回だけ叩かれた。

返事を待たずに、扉が開いた。

入ってきた女性は、会議室の空気を一度も読まなかった。

読めないのではなく、読まない。

そんな入り方だった。

黒いジャケット。

白いシャツ。

肩につかない長さの髪。

表情は薄い。

不機嫌ではない。

緊張しているようにも見えない。

ただ、そこにいる全員に合わせる気がない。

その感じだけが、妙にはっきりしていた。

真壁が立ち上がった。

「早坂さんですね。今日はよろしくお願いします」

女性は短く頭を下げた。

「早坂凪です。よろしくお願いします」

声は小さくない。

でも、場を和ませるための余白がなかった。

桐谷が椅子にもたれながら言った。

「堅いっすね」

早坂は桐谷を見た。

「初対面なので」

桐谷の笑顔が半分で止まった。

「あ、はい」

それだけだった。

ただそれだけなのに、会議室の温度が少し下がった。

誰かが怒ったわけではない。

失礼なことが起きたわけでもない。

ただ、いつもなら笑いで流れる場所に、言葉がそのまま落ちた。

優作は、資料をそろえる手を止めた。

美月も早坂を見ていた。

黒川は顔を上げた。

佐伯はペンを握り直した。

真壁だけが、何事もなかったように進行表を開いた。

「今回から、マーケティング部の早坂さんにも入ってもらいます」

早坂は席についた。

椅子を引く音が、少しだけ硬く響いた。

新人向けオンボーディング資料の全面見直し。

営業、管理、マーケティング、人事。

部署をまたいだ案件だった。

真壁が画面に資料を映す。

「目的は、部署ごとにバラバラになっている新人向け資料を統合して、現場で使いやすい形にすることです」

黒川が続けた。

「情報の重複整理と、表現の統一が必要です」

桐谷が軽く言う。

「あと、読んで眠くならない感じっすね」

小さな笑いが起きた。

早坂だけは笑わなかった。

代わりに、一ページ目を見たまま言った。

「これ、誰に読ませたいんですか」

真壁が答える。

「新入社員と、配属直後の若手です」

「なら、読ませたい人に向けた資料には見えません」

一瞬、誰も動かなかった。

早坂は続けた。

「作る側が、“説明しました”と言うための資料に見えます」

会議室の空気が変わった。

強い。

でも、雑ではない。

切りつけているのに、刃の向きはぶれていなかった。

美月が静かに言う。

「確かに、読む人の行動より、情報の網羅性に寄っているかもしれません」

早坂は、美月を見た。

「相沢さんは、そういう言い方をされるんですね」

美月の手が止まった。

「どういう意味ですか」

早坂は表情を変えなかった。

「傷つけないように、正しい場所へ置き直すのが上手いなと思いました」

褒め言葉の形をしていた。

でも、褒めてはいなかった。

美月も、それを受け取った。

「それが、何か問題ですか」

早坂は少し黙った。

それから、資料を閉じた。

「問題かどうかは分かりません」

一拍。

「ただ、少し気持ち悪いです」

会議室が止まった。

桐谷が、冗談を探す顔をした。

でも見つからなかった。

真壁が早坂を見た。

黒川も黙った。

佐伯は、ペンを持ったまま動かなかった。

美月だけが、早坂を見ていた。

顔色は変わっていない。

けれど、空気のどこかが薄く切れた。

早坂は続けた。

「みなさん、優しいですね」

誰も答えなかった。

「誰かが黙るたびに、全員で意味を探す」

早坂は、ゆっくり会議室を見た。

「傷ついたんじゃないか」

「無理してるんじゃないか」

「本当は言いたいことがあるんじゃないか」

「そうやって見られると、黙ることすら自由じゃなくなります」

その言葉は、優作だけでなく、この場全員の前に置かれた。

でも、刃先は美月の方を向いていた。

美月は静かに言った。

「相手の状態を見ようとすることは、必要だと思います」

早坂は頷いた。

「必要だと思います」

「なら」

「でも、見ようとする顔で、人の中に入ってこないでください」

美月の指が、資料の端で止まった。

人を傷つけないようにしているつもりで、相手の感情を先回りして管理していることがある。それはもう、優しさではない。やわらかい支配だ。

優作は口を開きかけた。

美月を守ろうとしたのか。

場を止めようとしたのか。

それとも、自分たちが積み重ねてきたものを守りたかったのか。

分からなかった。

「早坂さん」

優作が言った瞬間、早坂がこちらを見た。

「つもりの話ですか」

優作の喉が止まった。

早坂は淡々と言った。

「そういうつもりではなかった」

「傷つける意図はなかった」

「相手のためだった」

「前の職場で、何度も聞きました」

会議室の温度が、また少し下がった。

早坂は続けた。

「話していいよ、と言われました」

「本音でいいよ、と言われました」

「でも、話した後に“少し扱いが難しい人”になりました」

誰も動かなかった。

「無理しないで、と言われました」

「その後、重要な仕事から外されました」

「あなたのため、と言われました」

「でも、私には確認されませんでした」

美月の目が、ほんの少し揺れた。

早坂は、美月に視線を戻した。

「相沢さんみたいな人が、一番しんどいです」

美月の唇が少し開いた。

「私みたいな人、ですか」

「はい」

早坂は迷わなかった。

「分かる顔をする人です」

一拍。

「人の痛みに、先に名前をつける人です」

美月の顔から、少しずつ色が落ちていった。

「言葉にできていないものを、代わりに言葉にしてくれる人」

「一見、助かります」

「でも、その言葉が合っていなかった時、こちらが間違っているみたいになるんです」

美月は何も言わなかった。

早坂は続けた。

「“あなたは強い人扱いされてしんどいんですね”」

「“本当は無理しているんですね”」

「“言えないだけなんですね”」

「“大丈夫じゃないんですよね”」

「そうやって分かられると、もう否定するのも面倒なんです」

優作は、美月を見た。

これまで美月は、誰よりも気づく人だった。

優作が逃げたところを見逃さず、佐伯の背中に落ちた重さを見つけ、桐谷の笑いの裏も、真壁の沈黙も、黒川の正しさの冷たさも見ていた。

その美月が、今、何も言えない。

早坂はそんな美月を見ていた。

「私は、壊れ物として丁寧に扱われたいわけじゃありません」

美月の手が、机の下に落ちた。

優作は初めて、美月の沈黙が怖いと思った。

言葉を選んでいる沈黙ではない。

相手を見ている沈黙でもない。

何かを失った人の沈黙だった。

「分かります」と言う人ほど、相手の逃げ道を塞ぐことがある。
分かられたくない痛みまで、勝手に名前をつけられるからだ。

真壁が口を開いた。

「早坂さん、言いたいことは分かる。ただ」

「分かる、もやめてもらえますか」

早坂は真壁を見た。

真壁は黙った。

早坂は続けた。

「分からなくていいです」

その言葉が、一番冷たかった。

そして、一番まっすぐだった。

「分からないまま扱ってください」

誰かが息を飲んだ。

それが誰だったのか、優作には分からなかった。

早坂は資料を開き直した。

「このプロジェクトに参加すること自体は問題ありません」

「ただ、最初に言っておきます」

「私が黙っている時に、意味を探さないでください」

「私が強く言った時に、背景を探さないでください」

「私が笑わない時に、傷ついている前提で見ないでください」

「必要なら、こちらから言います」

会議室は、完全に止まっていた。

優作たちが、この何日もかけて覚えてきたこと。

見ること。

待つこと。

聞かないこと。

決めつけないこと。

断られるところまで聞くこと。

その全部が、早坂の言葉の前で急に別の顔を持ち始めた。

丁寧さ。

配慮。

優しさ。

そのはずだったものが、相手から見れば、管理や監視になることがある。

美月はまだ黙っていた。

優作は、美月に声をかけたかった。

大丈夫ですか。

今の、大丈夫ですか。

でも、その言葉を出した瞬間、美月は「傷ついた人」になる。

早坂の言葉どおりに。

美月の痛みを、こちらが確定してしまう。

だから言えなかった。

言えないまま、美月の横顔を見ていた。

桐谷が小さく言った。

「……気持ち悪い、はきついな」

早坂は桐谷を見た。

「きついと思います」

「分かってるんすね」

「はい」

「それでも言うんすね」

「はい」

桐谷は黙った。

早坂は資料を指で押さえた。

「資料の話に戻していいですか」

誰もすぐには返事をしなかった。

黒川が、静かに言った。

「戻しましょう」

その声で、会議は動き出した。

でも、美月はその後ほとんど発言しなかった。

メモは取っていた。

資料も見ていた。

質問されれば答えた。

ただ、いつものように誰かの言葉の奥を拾わなかった。

拾おうとしていないのか。

拾えなくなったのか。

優作には分からなかった。

分からないままにするしかなかった。

三十分後、早坂が一箇所を指した。

「このページ、誰が確認しますか」

真壁が答える前に、美月が資料を見た。

いつもの美月なら、そこで言ったはずだった。

「読み手の不安がここで置き去りになります」

「この言い方だと、現場側の責任に寄ります」

「ここは、受け取る側の立場を下げています」

その一言で、場の輪郭を変えたはずだった。

でも、美月は何も言わなかった。

目だけが、資料の上を動いている。

早坂が言った。

「相沢さんは、何かありますか」

美月の指が止まった。

会議室の全員が、一瞬だけ美月を見た。

それがもう、間違いだった。

美月は小さく息を吸った。

「今は」

そこで止まった。

少しだけ間があった。

「ありません」

その声は、仕事の声だった。

でも、美月の声ではなかった。

優作は、胸の奥を握られたような気がした。

早坂は頷いた。

「分かりました」

それだけだった。

責めなかった。

追わなかった。

慰めなかった。

だから余計に、美月の言葉のなさだけが残った。

会議が終わった。

早坂は短く頭を下げて、会議室を出ていった。

ドアが閉まる。

その音のあと、誰もすぐには動かなかった。

真壁が深く息を吐いた。

「強烈だな」

桐谷が小さく笑った。

でも、笑いにならなかった。

「今の、笑うとこじゃないっすね」

黒川は資料をそろえていた。

佐伯は、ずっと美月を見ないようにしていた。

美月は立ち上がった。

「すみません。少し席を外します」

声はいつも通りだった。

いつも通りすぎた。

優作は立ち上がりかけた。

「相沢さん」

美月が振り返った。

目は合った。

でも、その目には何も置かれていなかった。

「来ないでください」

優作の足が止まった。

美月は続けた。

「今来られると、私は“傷ついた人”になります」

その言葉は、優作の胸を刺した。

美月は少しだけ笑ったように見えた。

でも、それを笑顔と呼ぶのは、あまりにも雑だった。

「それは、今は嫌です」

美月はそう言って、会議室を出ていった。

優作は追えなかった。

追わなかったのではない。

追えば、自分がまた優しい人の場所に戻れる気がしたからだ。

廊下の向こうで、美月の足音が遠ざかる。

誰も動かなかった。

誰も、美月を助けられなかった。

助けようとすれば、また美月を傷ついた人にしてしまう。

助けなければ、ただ見送るだけになる。

そのどちらも、優しくなかった。

優しい人たちの中でいちばん苦しいのは、誰も悪意を持っていないことだ。
だから、苦しいと言った人だけが、空気を壊した人になる。

優作は机の上に残された資料を見た。

早坂の発言メモが残っている。

人の内側を勝手に触っている感じがします。

壊れ物として丁寧に扱われたいわけじゃありません。

分からないまま扱ってください。

その文字を見ているうちに、優作は吐き気に似たものを感じた。

自分たちは、少し変わったと思っていた。

人を傷つけないように。

黙らせないように。

押しつけないように。

決めつけないように。

丁寧に。

丁寧に。

丁寧に。

その丁寧さが、誰かにとっては息苦しかった。

そして一番痛かったのは、早坂に刺されたのが自分ではなく、美月だったことだ。

美月は、強い人扱いされることに苦しんでいた。

分かったことにされることに苦しんでいた。

それなのに、誰かから見れば、美月自身が“分かる側”に立っていた。

誰かの痛みを見つける人。

誰かの沈黙を読める人。

誰かの言葉にならないものを、言葉にできる人。

その椅子が、今、壊れた。

美月はたぶん、自分がそこに座っていたことにも気づいていなかった。

優作は、もう一度ドアの方を見た。

追いたいと思った。

でも追えなかった。

何を言っても、今は自分が気持ちよくなるための言葉になる気がした。

大丈夫ですか。

ひどかったですね。

相沢さんは悪くないです。

そのどれも、美月を救う顔をして、美月を傷ついた人の席に座らせる。

優作は、何も言えなかった。

その日の午後、優作は誰にも優しくしたくなかった。

優しくすることが、少し気持ち悪くなっていた。

第51話へ続く。
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