第49話
聞くなら、断られるところまで聞く
前話:美月がいつもより静かに見えた日、優作は「疲れているのかもしれない」と察し、本人に聞かないまま役割から外そうとした。けれど美月は、「私のことを分かったつもりで外しましたよね」と言った。気づくことは、相手の中身を当てることではない。気づいたことを、正解にしないこと。優作は、美月の沈黙に勝手な名前をつけないことを覚えた。
「佐伯、この確認役、お願いしてもいいですか」
午前中の打ち合わせで、優作はそう聞いた。
新しい提案資料の最終確認。
数字の参照元と、表記のズレを見る役割だった。
量は多くない。
ただ、細かい。
佐伯なら丁寧に見られる。
そう思った。
けれど、すぐに決めなかった。
昨日、美月に言われたばかりだった。
分かったつもりで、先に置かない。
だから、優作は続けた。
「無理なら言ってください」
言った瞬間、自分では少し丁寧に聞けた気がした。
決めつけていない。
押しつけてもいない。
断る余地も渡した。
そう思った。
佐伯は画面を見たまま、少し黙った。
その沈黙に、優作の胸が少しだけ動いた。
佐伯は、資料のページ数を確認する。
スケジュールを見る。
自分のタスクを見ている。
その時間は、たぶん数秒だった。
でも、優作には少し長く感じた。
やがて、佐伯が言った。
「今回は、外れたいです」
会議室の空気が、ほんの少し止まった。
優作も止まった。
聞いたのは自分だった。
無理なら言ってください、と言ったのも自分だった。
それなのに、本当に断られるとは思っていなかった。
いや、思っていなかったわけではない。
でも、心のどこかで、佐伯は引き受けてくれると思っていた。
困った。
予定が少しずれる。
別の人に頼まなければいけない。
確認の流れを組み直す必要がある。
その一瞬の困りが、顔に出た。
佐伯がそれを見た。
「すみません」
すぐに言った。
「やっぱり、やります」
優作の胸が、ひやりとした。
今の「やります」は、佐伯の言葉ではなかった。
優作の顔を見て、戻ってきた言葉だった。
「佐伯」
優作は言った。
佐伯が顔を上げる。
「今の“やります”は、僕の顔を見て言いましたよね」
佐伯は黙った。
真壁がペンを止める。
桐谷も椅子にもたれたまま、口を閉じた。
美月は静かにこちらを見ていた。
黒川は資料から目を上げた。
優作は続けた。
「聞いたのに、断りにくい顔をしました」
自分で言いながら、嫌な汗が出た。
「すみません」
佐伯は何も言わない。
優作は、もう一度息を吸った。
「今の返事は、一回なしにしてください」
会議室に、少しだけ沈黙が落ちた。
「無理なら言って」は、やさしい言葉に聞こえる。
でも、本当に無理と言われた時に困るなら、それは逃げ道ではなく試験になる。
桐谷が小さく言った。
「試験、やだな」
誰も笑わなかった。
桐谷も笑わせようとしていなかった。
ただ、自分の中に落ちた言葉を、そのまま出したようだった。
真壁が優作を見る。
「じゃあ、組み直すか」
「はい」
優作は頷いた。
それから、佐伯を見た。
「もう一度聞いてもいいですか」
佐伯は少し迷ったあと、小さく頷いた。
優作は、さっきよりゆっくり言った。
「この確認役、お願いしてもいいですか」
そして、言葉を足した。
「断られても、こちらで組み直します」
佐伯は、すぐには答えなかった。
今度の沈黙は、さっきより少し違った。
答えを探している沈黙だった。
顔色を見ている沈黙ではなかった。
佐伯は資料を見た。
スケジュールを見た。
そして言った。
「今回は、外れたいです」
優作は頷いた。
「分かりました」
短く返した。
困っていないふりはしなかった。
困っているのは事実だった。
でも、その困りを佐伯の答えに乗せないようにした。
真壁がホワイトボードを見る。
「じゃあ、数字の参照元は黒川。表記揺れは中村。佐伯は今回、別件優先」
黒川が頷く。
「可能です」
佐伯は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
優作は、すぐに「大丈夫です」と返しそうになった。
でも、やめた。
大丈夫にする話ではない。
佐伯が断った。
こちらが組み直した。
それだけでよかった。
打ち合わせが終わったあと、美月が資料をまとめながら言った。
「聞きましたね」
優作は苦笑した。
「一回、聞けていませんでした」
「はい」
美月は容赦なく頷いた。
「断られた瞬間、顔に出ていました」
「出ていましたか」
「出ていました」
桐谷が横から言う。
「中村、めちゃくちゃ“え、マジで?”って顔してた」
優作は目を伏せた。
「そんなにですか」
「まあまあ」
黒川が淡々と言う。
「表情変化は確認できました」
「黒川さんまで」
桐谷が少し笑った。
でも、その笑いは軽すぎなかった。
美月が続けた。
「聞くなら、困る準備も必要です」
優作は、その言葉を聞いた。
困る準備。
聞く準備ではなく。
断られる準備。
予定が崩れる準備。
自分の期待と違う答えが返ってくる準備。
それがなければ、質問は形だけになる。
「断られたくない質問は」
美月は資料を鞄にしまいながら言った。
「質問の形をしたお願いです」
その言葉は、優作の中に重く残った。
聞くとは、相手に選ばせることではない。
自分にとって都合の悪い答えを、受け取る場所を空けておくことだ。
午後、佐伯が優作の席に来た。
「さっきは、すみませんでした」
優作は顔を上げた。
「謝らなくていいです」
言ってから、少し止まる。
また、相手の言葉を閉じようとしていないか。
そう思った。
「いや」
優作は言い直した。
「謝りたくなったことは、受け取ります」
佐伯は少し驚いた顔をした。
優作は続けた。
「でも、断ったことは悪いことではないと思います」
佐伯は、手に持っていた資料を軽く握った。
「断ったあと、中村さんが止まったので」
「はい」
「やっぱり、困らせたと思いました」
優作は頷いた。
「困りました」
佐伯の表情が少し固まる。
優作は、すぐに続けた。
「でも、困ることと、佐伯が悪いことは別です」
佐伯は黙った。
「僕が、“無理なら言ってください”と言ったのに、無理と言われた時に困った顔をしました」
優作は、まっすぐ佐伯を見た。
「あれは、僕の問題です」
佐伯は少し視線を落とした。
「断っていいって言われても、本当に断っていいのか分からない時があります」
「はい」
「言ったあと、相手が困った顔をすると、やっぱり言わなきゃよかったと思います」
優作は、その言葉を聞いていた。
佐伯が昔から「大丈夫です」と言っていた理由が、少しだけ見えた気がした。
大丈夫だったからではない。
大丈夫ではないと言ったあとの顔を、何度も見てきたのかもしれない。
「次から」
優作は言った。
「断られて困るなら、最初からそう言います」
佐伯が顔を上げる。
「どういうことですか」
「“できればお願いしたい。ただ、断られたら組み直します”とか」
優作は少し考えながら続けた。
「“今断られると少し困る。でも、本当に無理なら言ってほしい”とか」
佐伯は少し黙った。
「困るって、言ってもいいんですか」
「たぶん」
優作は苦笑した。
「困っていないふりをするより、いい気がします」
佐伯は、少しだけ息を吐いた。
「その方が、分かりやすいです」
「はい」
「困らせたら終わり、じゃない感じがします」
その言葉は、優作の胸に残った。
困らせたら終わり。
佐伯は、そんな場所でずっと返事をしてきたのかもしれない。
夕方、優作は組み直した確認表を見ていた。
佐伯の名前は、今回の確認役から外れている。
その代わり、別件の欄に入っている。
逃げたわけではない。
外されたわけでもない。
断っただけ。
それを、ただの事実として表に置くことが、こんなに難しいとは思わなかった。
真壁が通りがかりに言った。
「組み直し、問題なさそうだな」
「はい」
「佐伯に聞けたか」
優作は少し考えた。
「聞いたというより、聞き直しました」
真壁は少し笑った。
「それでいいんじゃないか」
「はい」
「一回目からうまく聞けるやつなんて、そんなにいない」
優作は頷いた。
「でも、一回目で相手に戻させるところでした」
「戻さなかったんだろ」
真壁は短く言った。
「なら、次だな」
それだけ言って、真壁は自分の席に戻った。
帰り際、佐伯が荷物を持って立ち上がった。
優作は声をかけた。
「佐伯」
「はい」
「今日は、断ってくれてありがとうございます」
言ってから、少し違う気もした。
断ったことに感謝すると、また次も断れと言っているみたいになる。
優作はすぐに言い直した。
「いや」
佐伯が少し待つ。
「答えてくれて、ありがとうございます」
佐伯は少しだけ目を伏せた。
「はい」
それだけだった。
でも、その「はい」は、いつもの「大丈夫です」より、ずっと本人のものに聞こえた。
優作は、佐伯の背中を見送った。
聞くことは、簡単ではない。
相手に選ばせる言葉を出すことではない。
選ばれた答えで、自分の予定が崩れることを受け取ること。
困ること。
組み直すこと。
それでも、相手の答えを変えようとしないこと。
優作は、今日一度失敗した。
断られる顔を、まだうまく持てなかった。
でも、佐伯の「やります」を一回なしにできた。
そこから、もう一度聞き直せた。
聞くなら、断られるところまで聞く。
その先にしか、相手の本当の返事は来ないのかもしれない。
第50話へ続く。