第48話
気づいたことを、正解にしない
前話:黒川に理由を聞かなかったことで、優作は「聞かない優しさ」を知った。けれど翌日、黒川に「昨日の対応は正しかったのか」と答え合わせをしたくなる自分にも気づく。助けた相手から、安心まで受け取ろうとしてはいけない。優しさは、感謝された時に完成するのではなく、相手が何も返さなくても置いておける時、ようやく相手のためのものになるのかもしれないと思った。
美月が、いつもより静かだった。
朝からずっと、資料を見ている。
発言が少ない。
表情も、少し硬い。
具合が悪いのかもしれない。
疲れているのかもしれない。
何か抱えているのかもしれない。
優作は、そう思った。
けれど、すぐには声をかけなかった。
聞けば、答えさせてしまうかもしれない。
心配のつもりで聞いた言葉が、相手に説明の仕事を増やすこともある。
黒川の件で、それを知ったばかりだった。
だから、今日は踏み込まない方がいい。
そう判断した。
午前中の打ち合わせで、新しい資料の分担を決めることになった。
真壁がホワイトボードに項目を書く。
「構成案、本文整理、表現チェック、先方提出前の確認」
いつもなら、美月が表現チェックに入る。
細かい違和感に気づくのは、美月が一番早い。
けれど、優作は少し迷った。
今日の美月には、これ以上乗せない方がいい。
そう思った。
「表現チェックは、僕と佐伯で見ます」
優作が言った瞬間、美月が顔を上げた。
「私、外れますか」
声は静かだった。
怒っているわけではない。
でも、何かを確認する声だった。
優作は少し言葉に詰まった。
「今日は、相沢さんが少し」
そこで止まる。
何を言おうとしているのか、自分でも分かった。
少し疲れていそうだから。
無理しない方がよさそうだから。
今日は外した方がいいと思ったから。
全部、自分が勝手に見たものだった。
美月は優作を見た。
「私が、少し?」
会議室が静かになった。
桐谷がペンを回す手を止めた。
佐伯も画面から目を上げる。
黒川は資料に視線を落としたまま、こちらを聞いていた。
優作は、言い直そうとした。
「負担が重いかなと」
美月はすぐには答えなかった。
その沈黙に、優作の胸が少し詰まった。
やってしまった。
そう思った。
美月は静かに言った。
「中村さん」
「はい」
「今、私のことを分かったつもりで外しましたよね」
その言葉は、大きな声ではなかった。
でも、逃げ場がなかった。
気づけるようになると、人は少しだけ優しくなる。
でも、気づいたことを正解にした瞬間、相手の気持ちはこちらの物語に変わってしまう。
優作は何も言えなかった。
美月は続けた。
「気づこうとしてくれるのは、嫌ではありません」
「はい」
「でも、気づいたことをそのまま答えにされると、少し苦しいです」
優作は、自分の手元を見た。
ホワイトボードには、表現チェックの欄がある。
そこに美月の名前はなかった。
自分が消した。
美月に聞かずに。
美月のためだと思って。
「疲れていないわけではありません」
美月が言った。
優作は顔を上げた。
「でも、疲れているから何もできない人にされるのは、違います」
その言葉に、優作は胸の奥を押された。
疲れている人に説明を求めないこと。
それは大事だった。
でも、疲れているかもしれないと察して、勝手に役割を奪うことは違う。
聞かない優しさと、聞かずに決めることは違う。
真壁が静かに言った。
「相沢、どうしたい」
美月は少しだけ資料を見た。
「表現チェックには入ります」
優作は美月を見る。
美月は続けた。
「ただ、全部は持ちません」
真壁が頷く。
「範囲を切るか」
「はい。冒頭と締めだけ見ます」
黒川が言った。
「本文中盤の整合性は私が見ます」
佐伯が手を挙げる。
「参照元の確認は僕がやります」
桐谷が言う。
「営業っぽさは俺が見ます。営業っぽさって何かは、黒川さんに詰められる前に逃げます」
黒川が淡々と返す。
「逃げる前に定義してください」
桐谷が笑う。
「ほら来た」
会議室に少しだけ笑いが戻った。
でも、美月は笑わなかった。
優作も、無理に笑わなかった。
美月の名前は、表現チェックの欄に戻った。
ただし、範囲つきで。
それが、今日の答えだった。
午後、優作は美月に声をかけた。
「さっきは、すみませんでした」
美月は画面を見たまま言った。
「謝罪は受け取ります」
「はい」
「でも、次からは先に聞いてください」
優作は頷いた。
「はい」
美月は少しだけ手を止めた。
「聞かれるのが嫌な時もあります」
「はい」
「でも、聞かれないまま決められるのも嫌です」
優作は、言葉に詰まった。
そのどちらもあり得る。
聞くことが負担になる時もある。
聞かないことが助けになる時もある。
でも、聞かないまま決めると、相手はただ置かれる。
優作は、ようやく分かった気がした。
気づくことは、相手の中身を当てることではない。
気づいたあと、どう扱うかを丁寧にすることだ。
「相沢さん」
「はい」
「今日は、表現チェックをお願いしてもいいですか」
美月は少しだけ優作を見た。
「範囲は?」
「冒頭と締めをお願いします」
「分かりました」
美月は資料を受け取った。
それだけだった。
でも、さっきより少しだけ、空気が整った気がした。
察することは、近づく力にもなる。
でも、聞かずに決めた察しは、相手を静かに閉じ込める。
夕方、美月から修正が返ってきた。
冒頭には、赤字が三つ。
締めには、コメントが二つ。
どれも鋭かった。
でも、量は多くなかった。
頼まれた範囲だけを、きちんと見ていた。
優作はその資料を見て、思った。
美月は弱っていたのではない。
強がっていたのでもない。
ただ、自分で範囲を決めたかっただけなのかもしれない。
それを自分が、先に決めようとした。
やさしさの顔をして。
優作は返信欄を開いた。
修正、確認しました。
冒頭と締め、反映します。
ありがとうございます。
送信する。
少しして、美月から返事が来た。
お願いします。
それだけだった。
優作は、その短い返事を見て、余計な意味を探さないようにした。
怒っているのか。
許しているのか。
まだ疲れているのか。
少しは楽になったのか。
考えようと思えば、いくらでも考えられた。
でも、そのどれも、今は優作の想像だった。
帰り際、美月が鞄を持って席を立った。
優作は顔を上げた。
「相沢さん」
「はい」
「分かろうとすることと、分かったことにすることは違うんですね」
美月は少しだけ目を細めた。
「今さらですか」
「はい」
「でも、分かったことにしないなら、今さらでもいいです」
優作は小さく頷いた。
「気をつけます」
美月は、少し間を置いた。
「分かろうとしてくれるのは、嫌じゃありません」
優作は顔を上げた。
美月は続けた。
「でも、分かったことにされるのは、少し苦手です」
その言い方が、美月らしかった。
優作は静かに答えた。
「はい。気づいたことを、答えにしないようにします」
美月は、ほんの少しだけ息を吐いた。
笑ったようにも見えた。
でも、優作はそれを笑ったことにはしなかった。
「それくらいでお願いします」
美月はそう言って、先に歩き出した。
優作は、その背中を見送った。
美月の沈黙に、今日は名前をつけない。
疲れているとも。
怒っているとも。
許しているとも。
強いとも。
弱いとも。
決めない。
気づくことは、相手の中に入ることではない。
入り口の前で、勝手に部屋の中を決めないこと。
たぶん、それもまた距離なのだと思った。
第49話へ続く。