『やさしさ迷惑47/100』

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学び
第47話
優しさの答え合わせをしない

前話:黒川は珍しく、資料レビューに「いけません」と答えた。理由を聞こうとした優作に、黒川は「説明する必要がありますか」と返した。疲れている人は、休みたいだけではない。もう誰にも説明したくないところまで来ていることがある。優作たちは黒川に理由を求めず、仕事を分けた。翌朝、黒川から届いたレビューの最後には、「昨日は、理由を聞かれなかったことが助かりました」とだけ添えられていた。

黒川からの一文を見た時、優作は少し安心した。

昨日は、理由を聞かれなかったことが助かりました。

その短い文章を、何度か読み返した。

助かった。

黒川がそう書いてくれた。

昨日、自分が聞かなかったことは間違いではなかった。

理由を掘らなかったこと。

励まさなかったこと。

余計な言葉を足さなかったこと。

それが、黒川にとっては助けになった。

優作は、画面の前で小さく息を吐いた。

よかった。

そう思った。

でも、その「よかった」は、少し危うかった。

黒川が助かったことに安心したのか。

それとも、自分の対応が正しかったと確認できたことに安心したのか。

その境目が、少し曖昧だった。

午前九時半。

黒川はいつも通り席にいた。

画面に向かい、淡々と資料を開いている。

昨日より少し顔色は戻っているように見えた。

でも、それも優作の勝手な見立てだった。

黒川は、いつもの黒川に近かった。

だからこそ、優作は声をかけたくなった。

昨日は休めましたか。

少しは楽になりましたか。

昨日の対応、あれでよかったですか。

そのどれも、優しい言葉に見えた。

でも、口に出す前に、優作は止まった。

聞いた瞬間、黒川は答えることになる。

また、自分の状態を説明することになる。

昨日は理由を聞かなかった。

でも今日、安心したい自分のために聞くなら、結局同じことかもしれない。

黒川が席を立ち、プリンターの方へ歩いた。

優作も、つい顔を上げる。

美月がそれに気づいた。

「聞きたそうですね」

優作は少し驚いて、美月を見た。

「分かりますか」

「分かります」

美月は画面から目を離さずに言った。

「何を聞きたいんですか」

優作は、すぐには答えられなかった。

「昨日のことが」

「はい」

「あれでよかったのか」

美月は、そこで初めて優作を見た。

「それ、黒川さんに答えさせることですか」

短い言葉だった。

でも、優作の胸に残った。

黒川のために聞きたいと思っていた。

でも本当は、自分が安心したかっただけなのかもしれない。

自分は間違っていなかった。

ちゃんとできた。

前より少し変われた。

その証拠を、黒川から受け取りたかった。

人を助けたあと、人は少しだけ答え合わせをしたくなる。
でも、その答えを相手に求めた瞬間、相手はまた返事をする側に戻される。

午前中の会議で、黒川はいつも通り発言した。

「この表現は、読み手によって解釈が分かれます」

桐谷が言う。

「黒川さん、今日も黒川さんですね」

黒川は資料を見たまま答えた。

「私は黒川です」

桐谷が少し笑う。

「そういう意味じゃないっす」

会議室に、小さな笑いが起きた。

黒川の表情は変わらなかった。

でも、それでよかった。

いつものやり取りに戻ったように見える。

けれど、優作は昨日の一文をまだ持っていた。

助かりました。

その言葉を、心のどこかで大事に握っている自分がいた。

握っているというより、証拠のように持っていた。

自分が少しだけ変われた証拠。

間違えなかった証拠。

誰かを助けられた証拠。

それに気づいた時、少し恥ずかしくなった。

会議が終わり、黒川が資料をまとめる。

優作は立ち上がりかけた。

昨日は、と言いかけそうになった。

黒川が先にこちらを見た。

「昨日の件は、昨日の件として処理済みです」

優作は動きを止めた。

黒川は淡々と続けた。

「追加で説明が必要であれば言います」

少し間があった。

「不要であれば、通常業務に戻りたいです」

冷たい言い方ではなかった。

ただ、線が引かれていた。

黒川らしい線だった。

優作は頷いた。

「分かりました」

それだけ返した。

黒川も頷き、資料を持って会議室を出ていった。

桐谷が小さく言った。

「黒川さん、境界線に定規使ってますよね」

真壁が苦笑する。

「お前はすぐそういうこと言う」

「いや、でも分かりやすいっす」

美月が言った。

「分かりやすい線を引いてくれたんだと思います」

桐谷は少し黙った。

優作も、黒川が出ていった扉を見ていた。

あの線は、拒絶ではなかった。

説明しないままでいるための線だった。

通常業務に戻るための線だった。

昨日の自分を、今日もう一度差し出さないための線だった。

優作は、その線の前で立ち止まれた。

踏み込まなかった。

でも、踏み込みたい自分がいたことも分かっていた。

「中村さん」

美月が声をかけた。

「はい」

「聞かなかったですね」

「はい」

「聞かない方を選んだ、というより」

美月は少しだけ言葉を選んだ。

「聞きたい自分を見た、という感じでしたね」

優作は苦笑した。

「見られてましたか」

「見えました」

美月はそれ以上、責めなかった。

ただ、静かに言った。

「優しさをした後って、少し報酬が欲しくなるんだと思います」

優作は黙っていた。

「感謝とか、安心とか、正解だったという確認とか」

その言葉は、痛かった。

でも、ひどい言葉ではなかった。

美月は続けた。

「でも、それを相手に返させると、また相手の仕事になります」

優作は、黒川の一文を思い出した。

昨日は、理由を聞かれなかったことが助かりました。

その一文だけで、十分だったはずだ。

それ以上を欲しがる必要はなかった。

「助かった」と言われたい優しさは、まだ少し自分のために残っている。
本当に相手のためなら、感謝の言葉まで回収しに行かなくていい。

昼過ぎ、佐伯が確認資料を持ってきた。

「中村さん、ここだけ見てもらってもいいですか」

「はい」

優作は資料を見る。

表現の修正は小さい。

すぐに終わる内容だった。

佐伯が横で待っている。

優作は修正箇所を指で示した。

「ここは、この言い方の方が伝わりやすいと思います」

「分かりました」

佐伯はメモを取る。

少しして、佐伯が言った。

「昨日の黒川さんの件」

優作は顔を上げた。

「はい」

佐伯は資料を見たまま言った。

「僕だったら、たぶん聞いてほしくないです」

優作は黙って聞いた。

「でも、何も聞かれないと、それはそれで少し不安かもしれません」

佐伯は少し困ったように笑った。

「面倒ですね」

優作は首を振った。

「面倒じゃないです」

言ってから、少し考えた。

「いや、面倒なのかもしれません」

佐伯が顔を上げる。

優作は続けた。

「でも、人はたぶん、それくらい面倒なんだと思います」

佐伯は少しだけ笑った。

「そうかもしれません」

その会話はそこで終わった。

答えは出なかった。

聞くのがいい時もある。

聞かないのがいい時もある。

ただ普通にしてほしい時もある。

少しだけ気づいてほしい時もある。

人の状態は、ひとつの正解にできない。

だから、優しさにも答え合わせはできない。

夕方、黒川から追加の修正コメントが届いた。

内容はいつも通りだった。

簡潔で、正確で、無駄がない。

優作は返信欄を開いた。

昨日はありがとうございました。

そう打ちかけて、手を止めた。

それも違う気がした。

昨日のことをまた黒川の前に置く言葉だった。

少し考えて、短く打った。

確認しました。
修正します。

送信する。

すぐに黒川から返事が来た。

お願いします。

それだけだった。

優作は、その一言を見た。

そこに、昨日の意味を探さなかった。

助かったかどうか。

楽になったかどうか。

自分の対応が正しかったかどうか。

そのどれも、もう聞かなかった。

聞けば、黒川は答えてくれたかもしれない。

でも、それではまた、黒川に言葉を使わせることになる。

助けたつもりの相手から、安心まで受け取ろうとしてはいけない。

優作はパソコンを閉じた。

誰かに何かをした時、返事がほしくなる。

ありがとうと言ってほしくなる。

助かったと言ってほしくなる。

あれでよかったと、言ってほしくなる。

でも、その言葉を相手から引き出した瞬間、優しさは少しだけ重くなる。

優しさは、感謝された時に完成するのではない。

相手が何も返さなくても、そこに置いておける時。

自分の不安を、自分で持てる時。

ようやく、相手のためのものになるのかもしれない。

帰り際、黒川がいつも通り会釈した。

「お先に失礼します」

「お疲れさまでした」

優作はそれだけ返した。

昨日のことは聞かなかった。

今日の黒川を、昨日の黒川に戻さなかった。

それでいいのかどうかは、分からない。

でも、答え合わせをしないまま置いておくことを、今日は選んだ。

第48話へ続く。
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