『普通』の境界線で立ち止まる――正論に自分を預けられない、あなたのための問い

記事
コラム
「どうして普通にできないの?」
「その道は、あなたのためにならない」
周囲から向けられる正論や、
社会的な「正しさ」。
それらが相手の事を
心から想っての言葉であり、
時には合理的な助言であることも、
私は分かっているつもりです。

そして、
周りに不都合をかけている自覚や、
自分自身の「業」のようなものに、
誰より自分自身が苦しんでいることも。

それでも、
正論だけではどうしても
自分を止められない瞬間があります。

パンスール(考える人)として、
今日はそんな境界線に立つとき、
自分を救うための思考についてお話しします。

最近手にとった、
梶谷真司氏の著書
『問うとはどういうことか』の中に、
一つの視点がありました。

私たちは「常識」や「規範」があるからこそ、
大きな衝突なく社会に順応していけます。
けれど、ひとたびそこから外れると、
本人は「生きづらさ」を感じ、
周囲はそれを「問題」として
扱わざるを得なくなります。 

 私自身、ADHDという特性を抱え、
性や愛の形においても、
世間の「常識」とは異なる
激流の中にいた時期があります。

それは決して手放しに肯定できる
ことばかりではなく、
自分を損ない、
周りに心配や不利益をかける経験
でもありました。

この本は、単に「非常識が正しい」と
説いているわけではありません。
ただ、マジョリティ(多数派)が
「正しい」とされている状況は、
往々にして思考停止の結果である
可能性を指摘しています。  

障がいや、人には言えない性・愛の悩み。
それらを無理に肯定して
光を当てるのでもなく、
かといって「正論」で断罪して
終わらせるのでもない。

まずは「本当にこの価値観だけが、
私にとっての唯一の正解なのだろうか?」と、
静かに問いを立ててみること。  

周りの言い分もわかる。
けれど、
自分の中に消せない違和感がある。
その板挟みの苦しさの中で、
安易な答えに逃げずに「問い」を続けること。
それが、不自由な状況から自分を取り戻し、
自分の足で歩き出すための第一歩になると
考えます。  

私の活動は、
あなたの秘密や生きづらさを
無条件に全肯定する
ためのものではありません。

なぜ苦しいのか。なぜ止められないのか。
社会の視線も、
あなた自身の割り切れなさも、
すべてをテーブルの上に置いて、
一緒に見つめるための場所です。

一人で抱えきれない「問い」があるとき、
夜のカフェを訪れるような気持ちで、
お話しにいらしてください。

Ryoko


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