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『普通』の境界線で立ち止まる――正論に自分を預けられない、あなたのための問い

「どうして普通にできないの?」「その道は、あなたのためにならない」周囲から向けられる正論や、社会的な「正しさ」。それらが相手の事を心から想っての言葉であり、時には合理的な助言であることも、私は分かっているつもりです。そして、周りに不都合をかけている自覚や、自分自身の「業」のようなものに、誰より自分自身が苦しんでいることも。それでも、正論だけではどうしても自分を止められない瞬間があります。パンスール(考える人)として、今日はそんな境界線に立つとき、自分を救うための思考についてお話しします。最近手にとった、梶谷真司氏の著書『問うとはどういうことか』の中に、一つの視点がありました。私たちは「常識」や「規範」があるからこそ、大きな衝突なく社会に順応していけます。けれど、ひとたびそこから外れると、本人は「生きづらさ」を感じ、周囲はそれを「問題」として扱わざるを得なくなります。  私自身、ADHDという特性を抱え、性や愛の形においても、世間の「常識」とは異なる激流の中にいた時期があります。それは決して手放しに肯定できることばかりではなく、自分を損ない、周りに心配や不利益をかける経験でもありました。この本は、単に「非常識が正しい」と説いているわけではありません。ただ、マジョリティ(多数派)が「正しい」とされている状況は、往々にして思考停止の結果である可能性を指摘しています。  障がいや、人には言えない性・愛の悩み。それらを無理に肯定して光を当てるのでもなく、かといって「正論」で断罪して終わらせるのでもない。まずは「本当にこの価値観だけが、私にとっての唯一の正解なのだろうか?」と、静かに問いを
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【哲学すること】それは、知識を蓄えることではなく「自分の足」で歩くこと

こんにちは、Ryokoです。ふと書店で目が合い、2月のNHKテキスト『100分de名著』を手に取りました。今月のテーマは、ヤスパーズの『哲学入門』。パラパラとページをめくっていると、解説の戸谷洋志先生が紹介していた「ある言葉」に、目が釘付けになりました。それは、近代ドイツの哲学者・カントのこんな考え方です。「そもそも哲学とは、哲学者の名前や専門用語に詳しくなることではなく、それらを通じて『自分の力』で考えることである」この一文を読んだ瞬間、思わず「本当に、そうだよね!」と、深く頷いてしまいました。■ 学ぶことは、知識を「鎧」にすることじゃない私たちはつい、何かを学ぼうとすると「正しい答え」や「立派な専門用語」をたくさん覚えなきゃ、と思ってしまいがちです。でも、知識をただ詰め込むだけでは、それは自分を大きく見せるための「鎧(よろい)」にはなっても、自分を支える「力」にはなりません。本当の意味で「学ぶ」ということは、誰かの言葉を借りて自分を飾ることではなく、その知恵をヒントにして「私自身はどう感じるのか?」「私の人生をどう生きるのか?」と、自分の心に問い直すことだと思うのです。■ 「当たり前」を脱ぎ捨てて、自分と対話するテキストの表紙には、「主役は、あなただ」という言葉が添えられています。どれほど偉大な哲学者の言葉であっても、あなたの人生という物語の前では、ただの「お手伝い」に過ぎません。難しい用語なんて知らなくてもいい。今、あなたが自分の心に誠実に向き合い、答えのない問いを一生懸命に考えているなら、それはもう立派な「哲学」です。誰かの正論ではなく、あなたの納得感を大切に。私もま
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