『普通』の境界線で立ち止まる――正論に自分を預けられない、あなたのための問い
「どうして普通にできないの?」「その道は、あなたのためにならない」周囲から向けられる正論や、社会的な「正しさ」。それらが相手の事を心から想っての言葉であり、時には合理的な助言であることも、私は分かっているつもりです。そして、周りに不都合をかけている自覚や、自分自身の「業」のようなものに、誰より自分自身が苦しんでいることも。それでも、正論だけではどうしても自分を止められない瞬間があります。パンスール(考える人)として、今日はそんな境界線に立つとき、自分を救うための思考についてお話しします。最近手にとった、梶谷真司氏の著書『問うとはどういうことか』の中に、一つの視点がありました。私たちは「常識」や「規範」があるからこそ、大きな衝突なく社会に順応していけます。けれど、ひとたびそこから外れると、本人は「生きづらさ」を感じ、周囲はそれを「問題」として扱わざるを得なくなります。 私自身、ADHDという特性を抱え、性や愛の形においても、世間の「常識」とは異なる激流の中にいた時期があります。それは決して手放しに肯定できることばかりではなく、自分を損ない、周りに心配や不利益をかける経験でもありました。この本は、単に「非常識が正しい」と説いているわけではありません。ただ、マジョリティ(多数派)が「正しい」とされている状況は、往々にして思考停止の結果である可能性を指摘しています。 障がいや、人には言えない性・愛の悩み。それらを無理に肯定して光を当てるのでもなく、かといって「正論」で断罪して終わらせるのでもない。まずは「本当にこの価値観だけが、私にとっての唯一の正解なのだろうか?」と、静かに問いを
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