若い方々には甚だ読みづらい文章であるかもしれませんが、今回も幸田露伴の文章を読んでみます。
努力は一である。併し之を察すれば、おのづからにして二種あるを觀る。一は直接の努力で、他の一は間接の努力である。間接の努力は準備の努力で、基礎となり源泉となるものである。直接の努力は當面の努力で、盡心竭力の時のそれである。人はやゝもすれば努力の無效に終ることを訴へて嗟歎するもある。然れど努力は功の有と無とによつて、之を敢てすべきや否やを判ずべきでは無い。努力といふことが人の進んで止むことを知らぬ性の本然であるから努力す可きなのである。そして若干の努力が若干の果を生ずべき理は、おのづからにして存して居るのである。ただ時あつて努力の生ずる果が佳良ならざることもある。それは努力の方向が惡いからであるか、然らざれば間接の努力が缺けて、直接の努力のみが用ひらるゝ爲である。無理な願望に努力するのは努力の方向の惡いので、無理ならぬ願望に努力して、そして甲斐の無いのは、間接の努力が缺けて居るからだらう。瓜の蔓に茄子を求むるが如きは、努力の方向が誤つて居るので、詩歌の美妙なものを得んとして、徒らに篇を連ね句を累ぬるが如きは、間接の努力が缺けて居るのである。誤つた方向の努力を爲すことは寧ろ少いが、間接の努力を缺くことは多い。詩歌の如きは當面の努力のみで佳なるものを得べくは無い。不勉強が佳なる詩歌を得る因《ちなみ》にはならぬが、たゞ當面の勉強のみに因つて佳なる詩歌が得らるゝものでは無い。朝より暮に至るまで、紙に臨み筆を執つたからとて、字や句の百千萬をば連ね得はするだらうが、それで詩歌の逸品は出來ぬ。此意に於て勉強努力は甚だ價が低い。
ここで「直接の努力」と「間接の努力」という言葉が出てきます。「誤つた方向の努力をなすことはむしろ少いが、間接の努力を欠くことは多い」という部分は、明治末年に書かれた書物とは思えない鋭さで、我々に迫ってきます。大学合格だけではなく、何か一つのことを成就させようと思うのなら、この「間接の努力」が本当に必要なのです。しかし、皆さんも実感しているように「間接の努力」は、成果が実感しづらいという特徴があります。ここを我慢(忍耐)して努力を継続できるかどうかに全てがかかっていると言っても過言ではありません。皆さんの悩みも明治時代・大正時代の若者の悩みも、あまり変わっていないのかもしれません。この『努力論』は、当時本当に多くの若者に読まれたからです。
岩波書店から文庫本(原文)で出版されていますので、「我は」と思う方は是非読んでみて下さい。