第5話:近づくほどに、壊したくないと思ってしまう
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任された案件が、動き出した。
これまでとは違う。
ただ言われたことをやるだけじゃない。
自分で考えて、
自分で判断して、
自分で進めていく。
その責任の重さに、少しだけ手が震えた。
「進捗、どうですか」
背後から聞こえる、落ち着いた声。
振り返らなくても分かる。
「…順調です。今、仮説の精度を上げているところです」
私は画面を見たまま答えた。
以前なら、振り返っていた。
でも今は、少しだけ余裕がある。
「そうですか」
それだけ言って、蒼さんは隣に立つ。
モニターを覗き込む距離。
近い。
(……近い)
一瞬、思考が止まる。
画面に集中しようとしているのに、
意識がそっちに持っていかれる。
「ここ、いいですね」
蒼さんが指を指した。
「この仮説の立て方、筋が通っています」
低く、静かな声。
でも、その距離で言われると、
なぜか言葉が強く響く。
「…ありがとうございます」
声が少しだけ揺れた。
「ただ」
その一言で、空気が締まる。
「この部分、まだ甘いです」
やっぱり、そう来る。
でも不思議と、前みたいに落ち込まなかった。
「…どの視点が足りないですか?」
自然と、そう聞いていた。
蒼さんは少しだけ間を置いて、
「ユーザーの“感情の動き”です」
と答えた。
「数字の裏にある行動までは見えていますが、
なぜその行動を取ったのか、までは届いていません」
(……感情)
私は一瞬、言葉を失った。
でもすぐに、腑に落ちる。
「…確かに」
「そこまで見えたら、この分析は一段上に行きます」
その瞬間。
なぜか、胸の奥が少しだけざわついた。
(……この人は)
ただ厳しいだけじゃない。
ちゃんと見ている。
ちゃんと引き上げようとしている。
「やってみます」
私は、はっきりと言った。
その声は、前よりも迷いがなかった。
その日の夜。
私はまた、カフェにいた。
資料を開いて、
ひたすら考える。
ユーザーの行動。
その裏にある感情。
なぜその選択をしたのか。
何を感じていたのか。
(……難しい)
でも同時に、
少しだけ楽しかった。
気づけば、
“認められたい”だけじゃなくなっていた。
(……もっと知りたい)
蒼さんが見ているもの。
蒼さんが考えている視点。
それを、自分も掴みたい。
翌日。
「…できました」
私は、資料を差し出した。
心臓が、少しだけ速い。
蒼さんは、いつも通り無言で目を通す。
ページをめくる音。
その静かな時間が、やけに長く感じる。
「……変わりましたね」
その一言が、落ちた。
顔を上げる。
「感情の流れまで見えています。いいですね」
その瞬間。
胸の奥が、強く打った。
「…ありがとうございます」
それだけしか言えなかった。
でも。
なぜか、その言葉を受け取ったあと、
少しだけ苦しくなった。
(……なんで)
嬉しいはずなのに。
ちゃんと評価されているのに。
その理由に、
気づいてしまったから。
(……この人に、もっと認められたい)
それは、ただの仕事の感情じゃなかった。
帰り道。
一人で歩きながら、
何度もその感情を否定しようとした。
でも、無理だった。
(……ダメだ)
こんなの、ただの仕事だ。
そう思うほど、
逆に意識してしまう。
距離は、確実に縮まっている。
でもそれは、
“踏み込んではいけない距離”でもあった。
(……壊したくない)
今の関係を。
この距離を。
だからこそ、
それ以上は、
踏み込めない。
気づいてしまったから。
私の中で、
はっきりと形になり始めたこの感情が、
ただの仕事じゃないことに。
続く。