『正しさの檻』第八章:崩れゆく軸

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梅雨が明け、じりじりと肌を焼く夏の陽射しが街を包み込んでいた。

MARIの世代の内定者たちは、すでに千人近くに達していた。
だが、それはゴールではない。むしろ、ここからが始まりだった。

学生たちは「どこで、誰と、何をして生きるか」を決める、最後の意思決定のフェーズへと突入する。
彼は部下たちに、静かに、しかし確かに言った。

「入社目標は300人。死ぬ気でやろう。」

もともと200人だった採用目標は、経営判断で100人増となった。
それだけではない。すでに、次の代の早期インターンシップも動き始めていた。
目標人数は…1000人。

その数字を目にしたとき、MARIは息を飲んだ。
だが、彼とSHIHOはその先を見据えていた。
目の前のKPIなど、彼らにとってはただの通過点なのだ。

一方で、現場は常に余裕がなかった。
ギリギリの戦い。限界寸前のスタッフたち。

そのとき、ふとMARIの中にひとつの疑問が浮かんだ。

(私、どっち側なんだろう?)

成果を出している側なのか。
それとも、息切れしかかっている側なのか。

自分でも分からなくなっていた。

ある日、ずっと胸にくすぶっていた疑問を、MARIは彼にぶつけた。

「成果を出せない部下は、どうするんですか?」

彼は少しも迷わずに、答えた。

「興味ないよ。無能は罪じゃん。」

言葉は淡々としていたが、鋭く冷たかった。
その場の空気が、ピンと張り詰める。

彼は構わず続ける。

「同じ条件でやってるんだから、差が出るのは努力の差だよ。」

「命懸けでやってるやつは、ちゃんと成果を出してる。」

「頑張ったやつが報われるのは当然。足を引っ張るやつは、やるか、去るか。それだけじゃん?」

MARIの心に、ざわりと波が立った。
冷たい。でも、理屈は通っている。
彼の目には、一点の迷いもなかった。

「フォローされるべきは、頑張ってる人でしょ?」

彼は真っすぐMARIを見た。

「君は、どう思う?」

問いかけられた瞬間、MARIの喉が乾いた。

「弱い者を守るのも、大事じゃないですか?」

そう絞り出すように答えた。

彼は、ふっと笑った。

「生まれつき弱いなら守るよ。でも、自分に甘いだけで弱さを武器にされたら、迷惑じゃん?」

その言葉が、胸に突き刺さった。

「ちょっと上手くいかないと、誰かのせいにして妬んで、悲劇のヒロインぶる。そんなやつ、価値ある?」

MARIは、言葉を失った。

(…私のこと?)

違う。
そう思いたかった。
でも、自分の心の奥にある感情を振り返ると、完全には否定できなかった。

最近の自分は、成果が出ない苛立ちを、誰かへの不満に変換していた。
分かってくれそうな人にだけ弱さを見せ、安心を得ていた。
知らず知らずのうちに、被害者でいることで、心を守っていたのかもしれない。

(私…そんなつもりじゃなかったのに)

そう思いながらも、MARIの心は、少しずつ傾いていった。

成果が出ないスタッフと話すと、なぜかほっとする自分がいる。
「私だけじゃない」と思える安心。
「頑張ってるのに報われない」と言い合うことで、居場所を確認している自分。

(でも、それって本当に“正しさ”なの?)

MARIは、逃げ場所を探しながら、かろうじてプライドで踏みとどまっていた。
けれど、そのプライドが何に支えられているのか、もう自分でも分からなかった。

その頃、彼とSHIHOは新しいインターンシップの設計を進めていた。

「このスピーカー、誰がやるんだ?」

彼が尋ねる。

SHIHOは笑って答えた。

「あなたしかいないじゃん!」

彼は真顔で返す。

「これは命懸けだ。」

また、命懸けだ。

その言葉に、MARIの心が揺れる。

その時、彼がAYUMIに電話をかけているのが見えた。

「新型のインターンやるから、見に来い。」

「お前のために、俺の本気を見せるよ。」

まるでラブコールだった。

嫉妬なのか、悔しさなのか――自分でもわからない感情が、MARIの中で渦巻いた。

ふと目に入ったのは、彼の部下である主任の姿だった。
長年会社にいるが、特別優秀というわけではない。
けれど、最近ではお洒落に気を使い、彼の近くに自然と居場所を得ている。

主任はぽつりと呟いた。

「あの人、自分が気に入った学生だけは、自分でフォローするんだよ。」

その言葉に、MARIの心はふたたびざわめく。

主任は、特段何かに秀でているわけではない。
それでも、彼に選ばれている。

それだけで、勝ちなのだろうか?

MARIは、主任の横顔を、ぼんやりと眺めていた。

(この人と話してたら、気が楽かもしれない)

そんな考えが、一瞬だけよぎる。

その“よぎり”が、これから形になっていくことを、MARIはまだ知らなかった。
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