教育とは何か──その「常識」を問い直す
教育という言葉を聞いて、あなたは何を思い浮かべますでしょうか。教科書、黒板、宿題、試験、偏差値──そうした言葉が浮かぶとすれば、それは日本における「形式的な教育制度」が刷り込んできたイメージかもしれません。私は教育をこう定義したいと思っています。教育とは、経験値を高めるための機会を与えることだと。
知識を教え込むことでもなければ、点数を上げることでもない。もっと根源的に、「生きる世界を少しずつ広げていく」ためのきっかけを与えること。
その人の人生の中で、
「なかったはずの選択肢が見えるようになる」
「意味不明だった世界が、自分に関係あるものとしてつながる」
それが本来の教育の役割なのですが...
「教育」は価値観の再生産装置?
形式的にカリキュラムに沿って何かを教えましたよ、ということにすることが「教育」と呼ばれることもあれば、国家の方針に従って厳格に行われる「教育」もあります。各教育機関もその方針に従って計画書を作成し、教員はそれに従って粛々と執務します。
日本では、義務教育を経て、高校進学率が99%。その小・中・高校のほとんどが学校教育法第1条に定められた「一条校」として、国家の方針に従って教育を提供しています。
つまり──
国家の価値観を再生産する工場。それが学校ということになります。
だからこそ、「誰が、何の目的で、何を、どのように教えるのか」という視点を持つことが重要です。
国境を越えると、教育は変わる
留学すると、教育内容はガラッと変わることがあります。他国の政府の方針に従って教育が行われるからです。
「みんなそうしている」の「みんな」とは誰のことか。
「それが当たり前」という価値観は、世界にとっても当たり前なのか。
そうした疑問を、留学を通して体感することがあります。特定の価値観が「当たり前」として人を支配する。その構造に気づくと、「多数派=正義」という前提が揺らぎ始めるのです。
たとえば、日本の英語教育。多くの人が「成功している」とは言い難い現状があります。ほとんどの学習者が途中で挫折し、日常生活で英語を使える実感を持てていません。それにもかかわらず、今もなお「単語と文法の暗記」を主とする学習法が主流です。
work = 仕事、
labor = 労働、
job = 仕事。
──では使い分けは?と尋ねると、答えられません。
「run = 走る」ではない
run は走ると習いますが、本当にそうなのでしょうか。The water is running. は「その水が走っている」のでしょうか。runny nose は「走っている鼻」なのでしょうか。意味がわかりません。日本で英語を習うと、後でバグが大量に発生します。そのバグが何年にも渡り発生し続けるうちに、大半の英語学習者は英語学習をやめます。当たり前です。
run は「走る」だと習いますが、以下の例文を見てください:
The engine is running.
She’s running for office.
He runs a business.
The colors ran in the wash.
どれも「走る」では訳せません。
それでも、これらの意味をつなぐ共通の核(コアイメージ)があります。run のコアイメージ。それは「連続的な動き」「継続性」「進行性」です。このように、英単語の理解には「コアイメージ」や「文脈での意味の変化」を捉えることが必要です。
先ほど、
work は仕事、と書きましたが、芸術作品、文学作品、音楽作品などの「作品」という意味でも用いられる。これが work です。すると、小学生の「教科書ワーク」はあれは「教科書作品」なのでしょうか。空欄問題を解けば、それが「作品」になる。まあそう思おうと思えば思えなくもありません。
labor は労働、と書きましたが、医学の世界ですとこの単語が「陣痛」を表すことがあります。汗水垂らして働く労働をイメージさせる単語です。work であれば作品、labor であれば陣痛。どちらも大変なお仕事、またはお仕事から得られた産物なのですが、陣痛という大仕事から生まれた赤ちゃんはある意味作品かもしれません。
一方、job はどうでしょう?就職活動のことは job hunting と言いますが、社会で「これとこれを、このようにやって下さい」と定義されている仕事を狩る行為が就職活動です。この job は必ずしも芸術作品を作成するようなものには限られません。床を拭く。ゴミを除去する。芝を刈る。その一つ一つの行為が job になります。それを組み合わせて何かを達成することが君の使命だといえば、それは mission になり、その使命を支える現場の汗水垂らす行動が labor となり、その成果が立派な一つの形になって結実すればそれは work となるわけです。
それは学習を阻害している!
「run は走る」「work は仕事」──このような単語と意味の一対一対応的な暗記が、むしろ学習を阻害している。この現象は言語学では「語義の多義性を無視した機械的学習」と呼ばれ、意味の深層を無視した浅い理解を生みます。
こういう学習阻害行為が何年も繰り返されれば、大抵の人は英語学習をやめます。私はこれを変えたいのです。
そこで対案を出します!
以下、ご紹介いたします。
(1) The engine is running.
(2) She’s running for office.
(3) He runs a business.
(4) The colors ran in the wash.
すべて「走る」では訳せませんが、「継続的に動いている」「運営されている」という共通概念が根底にあります。これが「コアイメージ」と呼ばれる理解法です。4つの英文を挙げましたが、それぞれの意味を確認していきましょう。
(1)
The engine is running.
「エンジンがかかっている」
または
「エンジンが作動している」
この場合の run は、「走る」ではなく、「機械などが動作する・作動する」という意味です。
Don’t leave the car while the engine is running.
→ エンジンをかけたまま車を離れないで。
The engine is running smoothly.
→ エンジンは順調に作動している。
(2)
She’s running for office.
「彼女は公職に立候補している」
run for office は「選挙に出る」「政治的な役職に立候補する」 ことを意味します。office は「事務所」ではなく、ここでは「公職(政治的ポジション)」を意味します。政治的なポジションに四角形や三角形等、具体的な形はありません。その職という概念を表しますので、不可算名詞として扱います。特定であれば the をつけますが、不特定であれば the をつけません。また、 不可算名詞として扱っていますので複数形にもしません。
office の代わりに mayor(市長)や、president(大統領)等、具体的な職名を無冠詞で置くことができます。この「市長」や「大統領」も、具体的な人物としてではなく、その職という概念を表しますから、不可算名詞として扱います。
She’s running for mayor.
→ 彼女は市長選に立候補している。
He ran for president last year.
→ 彼は昨年、大統領選に立候補した。
(3)
He runs a business.
「彼はビジネスを経営している」
または
「彼は会社(事業)を運営している」
run a business は、「ビジネスを走らせる」ではなく、「ビジネスを管理・運営・経営する」 という意味を表します。この run も「走る」ということを意味しません。「を運営する」「を切り盛りする」という意味を表します。
例文:
He runs a small coffee shop in town.
→ 彼は街で小さなカフェを経営している。
They run a successful online business.
→ 彼らは成功したオンラインビジネスを運営している。
(4)
The colors ran in the wash.
「洗濯で色がにじんだ(色落ちした)」
colors ran = 色がにじんだ/色落ちした
in the wash = 洗濯中に
つまり、「洗濯したら、服の色が落ちて他のものに移ってしまった」ような状況を表します。
I accidentally washed my red shirt with my white clothes, and the colors ran in the wash.
(赤いシャツを白い服と一緒に洗ったら、色がにじんじゃった。)
というように使います。同じ "run" でも、文脈によって意味が大きく変わるのが英語の面白いところですね。
まとめます。
The engine is running.
エンジンがかかっている
He runs a business.
ビジネスを経営している
She’s running for office.
公職に立候補している
The colors ran in the wash.
色が洗濯でにじんだ
全て正解できましたか?
一番いいのは
(1) 多感な時期に、
(2) 実際の人生経験の中で、
(3) 目の前の出来事と同時に英語を聞く
このような条件で英語に触れることで、記憶に定着しやすくなります。
言語は「生きた経験」の中で覚えるのが一番。本物の現場を経験することが一番なんですね。
一度本物の現場を経験すると、本や記事で読んだり、動画で見たりした時に、「ああ、あのあれか」というのが体感できるようになります。
じゃあ英語圏に行かないとダメ?
行った方がいいです。が、それを代替する手段があります。「ドラマ・映画・ドキュメンタリー」など本物に近い英語に触れられるメディアを活用することです。
そこから、
「ああ、あのときの表現か」
と体感で結びつく瞬間が訪れます。
「教育」は、常識を疑うための訓練である
教育は、本来「従わせる」ための装置ではなく、自分の頭で考え、「常識を問い直す力」を育てるための営みです。英語学習の話を通して見えてきたのは、
「みんながそうしている」ことに無自覚なまま乗っかるのではなく、自分なりの視点で価値を再定義していく姿勢の重要性でした。
あなたは、どんな「当たり前」に縛られていますか?
自由を享受するあなたにとって、自分を教育するのは自分です。あなたが主体的にカリキュラムを設計し、あなたがそれを改良しながら一生続けていきます。これがうまくいくと、最後は充実感に包まれます。
「当たり前」を疑うこと。大学院時代、私はこれをたたき込まれました。「常識」とは誰にとっての常識なのか。誰にとって都合のいいものなのか。そういうことを考えるようになってから、幸福実感がぐんと上がりました。
一度お試しを!