ココナラ電話相談サービスを出品している、たっくんです。
私は大阪府在住の鉄道・地理マニアで、普段から鉄道路線に乗って、様々な駅や街を訪れています。
この記事では、久宝寺駅(大阪府八尾市)を紹介します。
久宝寺駅に乗り入れる鉄道路線は以下の通りです。
・JR大和路線(関西本線)
・JRおおさか東線
※写真や文章は準備でき次第、更新します!
【久宝寺駅の概要】大和路線とおおさか東線の乗り換え駅!大和路快速も停車。
久宝寺駅は大阪府八尾市に位置する駅です。
以下の鉄道路線が乗り入れます。
・JR大和路線(関西本線)
・JRおおさか東線
大和路快速・区間快速・快速・直通快速が停車し、基本的に大和路線は久宝寺で大和路快速と普通が接続します。
2008年におおさか東線の久宝寺~放出間が開業すると、久宝寺駅は乗り換え駅としての役割を持つようになります。おおさか東線は2019年に新大阪、2023年に大阪に延伸。おおさか東線の行き先は「久宝寺」行きのため、近年の久宝寺駅は重要性と知名度が高まっています。
久宝寺駅から北に約600mの場所に位置する「久宝寺寺内町」は浄土真宗本願寺派の顕証寺を中心とする環濠集落・寺内町で、江戸時代の町家が多く残されており昔ながらの街並みです。
【駅構内】2面4線。ホームは乗り換え客で賑わう。
南口と北口が設置されています。
改札近くにセブンイレブンあり。
ホームは2面2線の構造。基本的に3番のりばは、大和路線の大和路快速・快速(天王寺・大阪環状線方面)とおおさか東線の普通・直通快速(新大阪・大阪方面)が発着するため、方面別に整列位置をホームにペイントしていることが特徴的です。
大和路線とおおさか東線の使用車両は221系で同じ車両。また車両に表示される行き先は、大和路線の大和路快速は「大阪環状線」、おおさか東線は「大阪」表示し、行き先が似ていることも注意が必要です。
駅名標。
【龍華・久宝寺駅の歴史】竜華操車場跡地を再開発。一部の普通が通過していた駅から快速停車駅・乗り換え駅へ変化!
↑現在の久宝寺駅周辺の標準地図(出典:国土地理院ウェブサイト)
↑1940年代の久宝寺駅周辺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)
久宝寺駅の北東に久宝寺寺内町、南の龍田越奈良街道沿いに亀井・太子堂など古くからの集落が形成されている。
現在の久宝寺駅周辺は、かつては中河内郡龍華(りゅうげ)村という地域です。久宝寺駅から南に進んだ竜田越奈良街道沿いに、亀井・太子堂など龍華村の集落が古くから形成されていました。龍華寺がこの辺りにあったとされていることが村名の由来で、1927年(昭和2年)に町制施行。1948年(昭和23年)に八尾町・龍華町・久宝寺村などが合併し、八尾市となります。
1889年(明治22年)に大阪鉄道(現在のJR大和路線)の湊町(現在のJR難波)~柏原間が開業。1910年(明治43年)に久宝寺駅が開業しました。
湊町駅にあった機関区が手狭になったため、1938年(昭和13年)に竜華操車場が開業。操車場は貨物列車の入れ替えや組成を行う施設です。その後、機関区が湊町から竜華に移転しました。
↑1960年代の久宝寺駅周辺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)
竜華操車場の広大な敷地が目立つ。1960年代の久宝寺駅周辺は田畑が多かった様子。
久宝寺駅の上りホームと下りホームに挟まれる形で竜華操車場が設置されたため、上りホームと下りホームは約200m離れていました。また非電化時代の久宝寺駅は普通列車の一部が通過していたなど、数十年前の久宝寺駅は現在とは大きく役割や雰囲気が異なっていたようです。
↑1970年代の久宝寺駅周辺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)
久宝寺緑地と大阪中央環状線が完成。
↑1980年代の久宝寺駅周辺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)
久宝寺駅周辺は市街化が進み、田畑はほとんど見られなくなっている。
↑2017年の久宝寺駅周辺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)
竜華操車場跡地は再開発され、建物が並んでいる。
1986年(昭和61年)に竜華操車場が廃止された後、1997年(平成9年)に下り線を北に約150m移設して現在の駅舎が完成。久宝寺駅南側、竜華操車場の広大な跡地は再開発により複合施設・高層マンション・八尾市立病院が建設され、久宝寺駅南口は大きく風景が変化しました。
2001年(平成13年)に大和路快速の停車駅になったほか、2008年(平成30年)にはおおさか東線の久宝寺~放出間が開通すると、久宝寺駅は大和路線の大和路快速⇔普通の乗り換え、大和路線⇔おおさか東線の乗り換えができる駅となりました。
おおさか東線は2019年に新大阪へ、2023年に大阪へ延伸開業。おおさか東線の多くは「久宝寺行き」のため、近年の久宝寺は重要性や知名度が高まっています。
【久宝寺の歴史】蓮如により建立された顕証寺を中心とした寺内町
↑1940年代の久宝寺の航空写真(出典:国土地理院ウェブサイト)
久宝寺・八尾と長瀬川(旧大和川)沿いが古くからの集落。
久宝寺駅周辺は「龍華」という地域であり、古くから「久宝寺」と呼ばれている地域は久宝寺駅から北に約600mの場所に位置。顕証寺を中心とした寺内町が形成されており、古い町並みが残っています。
飛鳥時代に聖徳太子が久宝寺を建立したことが地名の由来ですが、久宝寺は詳細不明です。お寺の久宝寺は残っていないものの、地名はそのまま残る状態となりました。
1470年頃に浄土真宗本願寺派の蓮如はこの地で布教活動を行い始め、当初は慈願寺を拠点としていましたが、1500年頃に西証寺(現在の顕証寺)を建立。西証寺の建立は久宝寺城主であった安井氏の協力もあったようです。
顕証寺は何度か戦乱に巻き込まれたため、戦乱から寺を守ろうと1540年頃に寺の周囲に二重の堀や土塀を巡らして、環濠集落の寺内町を形成。久宝寺寺内町の支配権は顕証寺と安井氏が持ちました。久宝寺寺内町は大坂から奈良街道へ至る八尾街道が通っていたことや、大和川沿いに位置し水運が便利だったことから、久宝寺寺内町は交通の拠点や中河内の中心地として発展しました。
1600年代の本願寺東西分裂の際、顕証寺は西本願寺、慈願寺は東本願寺に属することになり、顕証寺と慈願寺はたびたび対立。顕証寺の支配に反対する町民や慈願寺は、久宝寺を出て八尾に新たな拠点を構えました。
1600年代以降の久宝寺は、八尾街道や旧大和川が近くにあり交通の要所だったことから、在郷町としての役割が強くなります。1704年に大和川が付け替えられると、旧大和川は久宝寺川となります。大和川跡地の一部は新田開発が行われ、綿や菜種の生産が盛んになりました。久宝寺で生産された綿を利用して生産された「久宝寺木綿」は河内の特産品でした。明治時代以降は交情での機械生産が進み、久宝寺木綿の生産は終わりを告げます。
現在も久宝寺寺内町は江戸時代の町家が残り、古い町並みが残っています。
【駅周辺/南口】竜華操車場を再開発!高層マンションが建つ
現在の久宝寺駅は南口が表玄関という雰囲気です。久宝寺駅南口と複合施設との間はペデストリアンデッキで接続しています。
近鉄八尾駅・アリオ八尾方面の近鉄バスが発着。
南口ロータリー。
久宝寺駅の南東にライフやクリニックがあります。
久宝寺駅の南西に万代(スーパー)・スーパースポーツゼビオなどなど。
ソフトバンク、ウエルシア。
鍼灸整骨院・薬局・内科・産婦人科などが入居するクリニックビル。
龍華町交差点。
八尾市立病院
※編集中
【駅周辺/北口】工場と住宅が建ち並び、落ち着いた雰囲気。
北口は広々としたロータリーはなく、工場や住宅が建ち並びます。
大きなマンションがいくつか建っています。
線路沿いにファミリーマートがひそっりとあります。
【久宝寺寺内町にある神社】許麻神社
久宝寺寺内町の南端に位置する許麻(こま)神社です。
牛頭天王などを祀っています。
【江戸時代の町家が残る環濠集落】久宝寺寺内町
久宝寺駅から北に約600mの場所に久宝寺寺内町が形成されており、江戸時代の町家が現在も多く残っています。
久宝寺寺内町は二重の堀や土塀で周囲を囲まれた環濠集落となっていることが特徴です。
飛鳥時代に聖徳太子が久宝寺を建立したことが地名の由来ですが、久宝寺は詳細不明。お寺の久宝寺は残っていないものの、地名はそのまま残る状態となりました。
1470年頃に浄土真宗本願寺派の蓮如はこの地で布教活動を行い始め、当初は慈願寺を拠点としていましたが、1500年頃に西証寺(現在の顕証寺)を建立。現在の顕証寺を中心に久宝寺寺内町が形成されました。
久宝寺寺内町は何度か戦乱に巻き込まれたことから、町を守るために周囲に堀や土塀を張り巡らせて環濠集落となったそうです。
久宝寺寺内町は八尾街道や旧大和川などが近くを通っていたことから交通の便が良いことから在郷町としても栄え、中河内地域の中心地だったようです。
1704年に大和川が付け替えられると旧大和川は長瀬川となります。旧大和川の一部は新田開発が行われて綿・菜種の栽培が行われ、久宝寺木綿の生産が盛んになります。
現在の久宝寺寺内町は江戸時代の町家が多く残り、昔ながらの街並みとなっています。
【久宝寺寺内町に関する情報展示】寺内町ふれあい館(八尾市まちなみセンター)
久宝寺寺内町に関する情報展示が行われているほか、八尾市のまちづくりに関する拠点となっています。
【浄土真宗本願寺派】顕証寺(久宝寺御坊)
顕証寺(けんしょうじ)は浄土真宗本願寺派の寺院で、蓮如により建立されました。「久宝寺御坊」とも呼ばれています。
顕証寺を中心に久宝寺寺内町が形成され、安井氏により久宝寺寺内町の支配が行われていました。
【大阪四大緑地の1つ】久宝寺緑地
※編集中