「ちょっと安くしてよ。他はもっと安かったし」
初対面の打ち合わせ。まだ何も作っていないのに、開口一番この調子だと、もうぐったりしてしまいますよね。値段の話ばかりで、作るものの話が出てこない。デザイナーとして見られていない感じ。それでも、断る勇気は出ない。仕事は欲しいし、波風も立てたくないから。
——フリーランスなら、一度は通る道ではないでしょうか。
この記事は、そんな「しんどいお客様」と、感情ではなく契約書で線を引くための話です。これまでプラットフォームの中だけで活動してきた人が、外でも直接お客様とやり取りを始めるとき。どんな契約書を用意しておけば、自分を守れるのか。むずかしい言葉はなるべく使わず、お話しします。
我慢が、いつのまにか「ふつう」になっていく
フリーランスを続けていると、少しずつ、いろいろなことを飲み込むのが当たり前になります。
どこか見下したような態度。理由のない値下げ。少し意見すると返ってくる、感情的な言い方。終わりの見えない修正。そして、なぜか遅れがちな支払い。——“しんどい”の中身は人によって違いますが、思い当たる場面が、ひとつくらいはあるはずです。
一つひとつは小さくても、積み重なると確実にすり減ります。やっかいなのは、断りたいのに、断る理由が自分の中で言葉になっていないこと。「なんとなく嫌だ」では、相手にも自分にも説明がつかない。だから、また受けてしまう。そして、また消耗する。
この繰り返しから抜け出す、地味だけれど確かな方法が、契約書です。
契約書がなかった、あの仕事
少し、思い出してみてください。契約書を交わさずに受けた仕事で、もやもやした経験はありませんか。
口約束で気持ちよく始まった案件が、納品の直前から雲行きが変わる。「ここ、やっぱり違うかも」「もう一案見たい」。最初は快く応じていた修正が、五回、六回と続く。どこまでが“ご要望”で、どこからが“追加の仕事”なのか、線がない。気づけば、当初の何倍も時間をかけている。
そして、納品後。請求書を送っても、入金がない。催促のメッセージを打っては消し、打っては消し。その気まずさを引き受けているのは、いつも、こちら側です。
このとき足りなかったのは、いい人間関係ではありません。「何を、いくらで、いつまでに、どこまで」を、最初に決めた紙が一枚なかった。ただ、それだけのことです。契約書は、関係を疑うために結ぶのではなく、お互いが気持ちよく終わるために、最初に道筋を引いておく道具なのです。
「断れない」の、正体
そもそも、なぜ私たちは、しんどいお客様を断れないのでしょう。
たぶん、いちばんの理由は「次の仕事が来なかったら」という不安です。目の前の一件を失うのが怖くて、つい無理を飲んでしまう。気持ちは、痛いほど分かります。
でも、少し引いて考えると、しんどいお客様に時間と気力を吸い取られているあいだは、本当に大切にしたいお客様に、十分な力を注げていません。一件にしがみつくことで、もっといい出会いを逃しているかもしれない。
契約書は、その悪循環を、そっと断ち切る手助けをします。最初に線を引いておけば、合わない相手とは早めに距離を取れる。そのぶん、気持ちよく働けるお客様に、ちゃんと向き合える。断る力は、いいお客様に「はい」と言うための力でもあるのです。
「嫌だ」を、契約書のことばに変えられる
意外に思うかもしれませんが、「こういう前提で仕事をします」という線引きは、契約書に書き込めます。
たとえば、お互いを尊重して節度をもって接すること、専門家として敬意をもって接すること、理由のない値下げ交渉をしないこと、支払いを遅らせないこと——といった、本来は当たり前のことを、自分の仕事に合わせていくつか“ルール”として入れておく。何を入れるかは人それぞれ。あなたが「これは困る」と感じてきたことを、思い出して言葉にすればいいのです。
並べてみると気づきます。これはわがままではなく、気持ちよく、まっとうに働くための前提です。それを頭の中のモヤモヤではなく、契約書の文字にする。たったそれだけで、「失礼な態度をとられても、なんとなく我慢」が、「これは契約で決めたことなので」と、静かに、はっきり言えるようになります。
ただ「書く」だけでは効かない。大事なのは“その後”
ここでひとつ、コツがあります。ルールは、並べて書くだけでは半分しか効きません。「やってはいけません」と書いても、破られたときにどうするかが決まっていなければ、ただのお願いと同じだからです。
だから、後の流れまでセットにしておきます。ルールに反する行為があったら、いきなり関係を切るのではなく、まず「これは約束に反するので、やめてください」と伝える。それでも変わらなければ、契約を解除できる。そして、そこまでに進めた分の報酬は請求できるし、損害があればその賠償も求められる。
この「一度伝えて、それでもダメなら解除」という順番が、堂々と線を引くための土台になります。感情的に投げ出すのではなく、筋を通して離れられる。契約書があると、それができます。
お金の催促を、後ろめたく思わなくていい
しんどい場面で、いちばん多いのがお金です。値下げ、ついでの“タダ働き”、そして支払いの遅れ。請求書を送ったあと、入金を待つあの落ち着かなさ。「催促したら感じが悪いかな」と気を遣って、言い出せないまま日が過ぎていく——。約束どおり払ってもらうだけなのに、なぜか頼む側が小さくなっている。おかしな話です。
契約書は、ここをはっきりさせてくれます。報酬はいくらか。いつ払うのか(たとえば「翌月末日までに振り込む」)。振込手数料はどちらが持つのか。そして、支払いが遅れたら、その翌日から年14.6%といった割合で遅延損害金が発生する、と書いておく。
実際に請求するかは別として、その一文があるだけで、「契約にこう書いてありますので」と言えます。催促のハードルが、ぐっと下がる。お金を求めるのはわがままではありません。約束を守ってもらうだけのことです。
なお、案件ごとに金額が変わる仕事なら、報酬の額はその都度書き換える前提にしておけば大丈夫。金額の欄だけ直して、同じ契約書を使い回せます。
細かな実費は、どちらが持つ?
デザインの仕事には、地味な出費がついて回ります。有料のフォント、素材サイトの利用料、印刷の試し刷り、ときには撮影の費用。こうした実費を、報酬に含むのか、それとも別にお客様が持つのか。ここを決めていないと、「これも込みだと思っていた」「いや、それは別では」と、あとで小さな摩擦になります。
契約書では、「業務に必要な◯◯費はお客様の負担」「通常発生する実費はこちらの負担」というように、あらかじめ線を引いておきます。とくに金額の大きいものほど、先に決めておくと安心です。地味ですが、気持ちよく取引を続けるために、じわじわ効いてくる一手です。
打ち合わせは、対面かオンラインか
「ちょっと顔合わせだけ」と言われて、片道二時間かけて出向く。その移動時間は、もちろん無給です。対面の打ち合わせは、相手にとっては気軽でも、こちらには思いのほか大きな負担になることがあります。
だから、打ち合わせの方法も、先に決めておきましょう。基本はオンラインで行う、対面が必要なときは事前に相談する、というふうに。どこで、どう働くかを自分で選べるのは、フリーランスのいちばんの強みです。その自由を、契約書でそっと守っておく。「事前の取り決めなく、対面を強制しない」——この一文が、あなたの時間を守ってくれます。
途中でやめることに、なったとき
どれだけ気をつけても、途中で「やっぱり、この話はなかったことに」となる可能性は、ゼロではありません。お客様の事情が変わることもあれば、こちらが続けられなくなることもある。
そのときに困らないよう、「契約が途中で終わったら、そこまで進めた分の報酬を、割合に応じて支払う」と決めておきます。デザインを半分まで仕上げたのに、一円ももらえない——そんな理不尽を防ぐためです。やめ方まで決めておくのは、後ろ向きなことではありません。安心して前に踏み出すための、備えです。
「あと一回だけ」の修正が、止まらないとき
デザインの仕事で、いちばん体力を削られるのが修正かもしれません。「ここ、もう少しだけ」「やっぱり最初の案も見たい」。一回ずつは小さくても、終わりが見えないと、心がすり減ります。時間というコストはかかっているのに、料金には反映されない。気づけば、時給に直すとため息が出る働き方に——。
ここも、先に決めておけます。「修正は◯回まで」「それを超える場合は別途お見積もり」。回数を決めるのはケチだからではなく、「この範囲で、しっかり仕上げます」という、お客様への約束でもあります。線があると、その中では気持ちよく頑張れる。終わりが見えているからこそ、ていねいに向き合えるのです。
納期も、ふたりの約束
納期も、行き違いになりやすいポイントです。とくに多いのが、急な前倒し。「やっぱり来週までに、お願いできない?」と、あとから予定を動かされる。こちらにも、ほかのお客様との約束があるのに——と、のどまで出かかった言葉を、飲み込んだことはないでしょうか。
だからこそ、いつまでに、何を納めるのかを、最初に文字で決めておきます。変更が必要になったら、一方的にではなく、ふたりで相談して決め直す。その前提も書いておく。
忘れてはいけないのは、納期はこちらだけが背負うものではないということ。お客様からの素材やフィードバックが遅れれば、当然、その分は後ろにずれます。「お互いが約束を守って、はじめて間に合う」。その対等な前提を共有しておくと、無理なスケジュールに、ひとりで振り回されずにすみます。どうしても急ぎなら、特急料金という形にしてもいい。早く仕上げることには、それだけの価値があるのですから。
値段は、自分の仕事への評価
「もう少し安くならない?」。この一言に、多くのフリーランスが心を揺らしてきました。一度下げると、その金額が次の基準になり、じわじわと、自分の仕事の値打ちまで下がっていくように感じてしまう。
「契約のあとに、理由のない値下げ交渉をしない」という一文を入れておくと、ここにも線が引けます。正当な相談まで拒むものではありません。ただ、「決めた値段には理由がある」という前提を共有しておく。それだけで、交渉のたびに揺れる気持ちが落ち着きます。値段は、あなたの技術と時間への評価。安売りを断ることは、自分の仕事を大切にすることです。
あなたの作品を、あなたの手から守る
デザイナーにとって、絶対に外せないのが著作権です。納品したデザインが、勝手に色を変えられて使い回される。まだ支払いが終わっていないのに、もう世に出てしまっている。自分が形にしたものが、知らないところで歩き出す感覚は、つらいものです。
作ったものの著作権は、最初は「作ったあなた」のもの。お客様に渡すなら、「報酬の全額が支払われたと同時に、著作権が移る」という形にしておきます。お金を払い終えて、はじめて権利が移る。この順番が、未払いへの備えにもなります。あわせて、「著作者人格権を行使しない」という一文も。お客様が安心して使えるようにするための約束です。どこまで渡し、どこから残すか。そこに、あなたの仕事への考えが出ます。
もうひとつ。納品したデザインを、勝手に色や形を変えられて、別の用途に使い回されるのが心配なら、「事前の同意なく改変・転用しない」と一文を足しておくこともできます。あなたが心を込めて形にしたものが、意図しないかたちでひとり歩きしないように。どこまで自由に使ってよくて、どこからは一声かけてほしいのか。その線を引いておくと、納品したあとも、安心していられます。
見せてもらった秘密を、守るということ
デザインの仕事では、お客様の大切な情報に触れます。まだ世に出していない新商品、社内だけの企画。信頼して見せてもらったものばかりです。
これを「仕事が終わったら自由」にしては、お客様も安心して任せられません。だから契約書には、知り得た情報を外に漏らさない、目的以外に使わない、という約束を入れておく。しかも、契約が終わったあとも続くように。情報は、関係が終わってからのほうが、むしろ危ういからです。守秘の約束は、「この人になら任せられる」という信頼を積み上げることでもあります。
一度きりの相手でも、いつもの相手でも
「いつものお客様だから、契約書はもういいかな」。その気持ちは分かりますが、トラブルは、たいてい慣れてきた頃に起きます。リピーターのお客様とも、案件ごとに契約書を交わす。といっても、業務内容と金額のところだけ書き換えて結び直せばいい。ほんのひと手間が、曖昧になりがちな関係を、かえって長持ちさせます。
細かいところも、ひとつだけ。雛形の最後に「東京地方裁判所を管轄とする」と残っていたら、忘れず直しましょう。東京以外に住んでいるなら、「自分の住所地を管轄する裁判所」に。もしものとき、近くで対応できます。署名も、いまはほとんど電子で完結します。電子契約用の形にしておけば、印鑑もいりません。
あなたを守る仕組みも、できてきた
少し、心強い話も。個人で仕事を受ける人を守るための法律やルールも、近ごろ整いはじめています。仕事を頼む側には、業務の内容や報酬、支払いの時期をはっきり示すこと、報酬を遅らせずに払うことが、あらためて求められるようになりました。
「フリーランスは立場が弱いから、我慢するしかない」——そういう時代では、もうありません。契約書を整えるのは、その流れに、自分でもう一歩踏み出すこと。あなたには、まっとうに守られながら働く権利があります。
「契約書をお願いします」が、言いにくいあなたへ
お客様に「契約書を交わしましょう」と切り出すこと自体が、こわい——そう感じる人もいるかもしれません。でも、きちんとした取引で契約書を交わすのは、ごく当たり前のこと。むしろ「契約書もなしで」のほうが、相手を不安にさせることもあります。
切り出し方は、難しく考えなくて大丈夫。「トラブルを防いで、お互い安心してお仕事するために、簡単な契約書を交わさせてくださいね」。相手を疑うためではなく、お互いのためのものとして差し出せばいい。たいていのお客様は、いやな顔などしません。もし「契約書なんていらない」と渋る相手がいたら、それは、ひとつのサインかもしれません。
では、何から始めればいい?
身構えなくて大丈夫です。最初の一歩は、立派な条文を書くことではありません。まずは、スマホのメモにでも、「これまで困ったこと」を書き出してみる。支払いが遅れた、修正が止まらなかった、敬意を感じなかった——その一つひとつが、あなたの契約書に入れたい項目のヒントです。自分の現場から出てきた言葉ほど、強い。
そのメモができたら、あとは、それを契約のことばに整えていくだけ。最初から完璧でなくて構いません。使いながら、気づいたところを足していけばいい。契約書は、一度作って終わりではなく、あなたと一緒に育っていくものです。
線を引くと、いい関係だけが残る
契約書で線を引くと、冷たい人になってしまうのでは——そう心配する人もいます。でも実際には、逆のことが起きます。
きちんと前提を共有できる相手は、たいてい、こちらの線引きを嫌がりません。むしろ「ちゃんとした人だな」と信頼してくれます。ルールを示したとたんに不機嫌になって離れていくのは、もともと、こちらを大切にする気のなかった相手であることが多い。つまり契約書は、付き合うべきお客様と、そうでないお客様を、静かにふるい分けてくれます。
線を引いたあとに残るのは、お互いを尊重し合える関係だけ。そういうお客様との仕事では、不思議と、無理な修正も、支払いの遅れも起きにくいものです。よい契約書は、めぐりめぐって、よいお客様を連れてきてくれます。
契約書は、あなたの味方でいるための道具
契約書は、相手を縛るためのものではありません。敬意をもって接してもらうため。きちんと払ってもらうため。自分の作品と時間を守るため。つまり、あなたが気持ちよく、まっとうに働き続けるための道具です。
しんどいお客様に出会ったとき、「またこの感じか」と一人で飲み込まなくていい。「これは最初に決めたことなので」と、静かに線を引ける。その一本の線が、あなたの仕事と気持ちを守ってくれます。
直接取引を始める、その前に。一度、自分のための契約書を整えてみてください。完璧でなくて構いません。これまで「しんどいな」と感じてきたことを、ひとつずつ言葉にしていく。それだけで、これからの仕事は、きっと少しだけ軽く、そして気持ちのいいものになります。あなたの仕事は、ちゃんと大切に扱われていい。契約書は、それを当たり前にするための、最初の一歩です。
ー この記事について ー
私たちアトラス行政書士法人には、行政書士法にもとづく守秘義務があり、実際のご相談・ご依頼の内容を公開することはありません。本記事は、業務委託契約書の作成でよく扱う論点を組み合わせた一般的な解説であり、特定の案件や依頼者を描いたものではありません。契約書の書き方や最適な進め方は、事業の内容や個別の事情によって変わります。実際の作成にあたっては、個別の確認をおすすめします。