キャンパスライフ充実編⑬:「勉強」ではなく「学問」に触れましょう。

記事
学び
Arts is long, life is short.(学芸は長く、人生は短し。)
Never too old to learn.(年をとりすぎて学べないということはない。)
There is no royal road to learning.(学問に王道なし。)
「学びてやまず、棺をおおいて、すなわち止む。」(韓嬰『韓詩外伝』)
「玉琢(みが)かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず。」(『礼記』)
「人間の真の学問、真の研究は人間である。」(シャロン『知恵について』)

 大学はそれまでの小学校・中学校・高校のような「勉強」をする所ではありません。教わりに行く所ではなく、学びに行く所であり、「学問」に触れる所です。そこで保障されているのは「自由」であり、4年間という「場」です。これをどう活用するかは各自に任されていることであり、「大学のレジャーランド化」が嘆かれたのは、ある意味では起こるべくして起こったとも言えるでしょう。それまでと同じ感覚でいたら、ヒマを持て余してすることが無いからです。「~からの自由」(liberty)から「~への自由」(freedom)へとギアチェンジしなければならないのに、「やっと受験勉強が終わったから、これから遊ぶぞう」と言っているようでは先は見えています。大学という「場」は、目的・志を持った人には限りない可能性をもたらしてくれますが、それを持っていない人にとっては逆に自分をダメにしかねない要素すら持っているのです。
 さて、「学問の本質とは何か」ということに関して、社会科学の大家マックス・ヴェーバーは「それは驚きである」としました。何かに気づき、発見し、論証し、その成果に「おお、これは!」という「驚き」の声を上げること、これが大切だということなのでしょう。実際に「学問」に開眼するきっかけとなることは、いわゆる「本物」に触れ、「驚き」の声を上げることであることが少なくありません。少なくともこうした「驚き」体験(「あッ」体験、「分かった」体験と読んでもいいでしょう)が、学問の本質にはなければならず、それがないものはただの知的体系、ただの知識の集積でしかないのです。もう一歩踏み込んで、「学問とは衝撃である」と言いたいところですが、いずれにせよ、こうした驚き・衝撃を1度も感ずることなしに、学問の世界を知ることは不可能でしょう。
 きれいな夕日など、何かに心から感動した時には「ちょっと、ちょっと、こっちに来て、これを見て!」と、頼まれもしないのにその感動を人に伝えようとするものです。同じように学問に触れて、驚き体験・衝撃体験をしている場合には、その感動を人に伝えずにはいられなくなるのです。したがって、教育の本質は「感動」体験にあると言ってもいいかもしれません(「教育」はよくロウソクの火を移す作業にたとえられます)。

【ポイント】
①「学問」には「良師」と「良書」が必要です。
 武道の世界では、「3年かかって良師を探せ」と言われます。これは良師につけるかどうかで修行の半分は決まるも同然だからです。学問の世界でもまず情報を集め、第一人者を探し、その伝統・遺産を相続しなければなりません(でなければ乗り越えることもできません)。これは私淑の場合も同様です(この場合、「良書」の存在が媒介となります)。多分野に目が利く人は、それぞれの分野において指針とすべき「識見の主」を持っているものです。全ての分野で第一人者になることはできない以上、これは必然的と言えるでしょう。

②「学問」の「空気」に触れることです。
 どの大学にも学風・校風・気風といったものがありますが、どこであっても「学問」の「空気」というものに触れるべきでしょう。学生時代にあまり学ばなかった人も、社会に出てからしばらくすると、「あー、もっと学んでおけばよかった」と言うものです。これは「勉め強いられる」とやる気は出てきませんが、実際にある分野で仕事に携わり、その分野での知識も広がってきて、問題意識が深まったり、貪欲さが出てきたりして、「学び問う」必要性、必然性が出てくるからです。向上心が啓発されてくるのです。ですから、学生時代には「学問そのもの」に深く首を突っ込まないまでも、せめて「学問の空気」ぐらいは吸っておきましょう。
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