福沢諭吉:渡米欧経験の後、慶應義塾を創立。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』『福翁自伝』。日本の独立のためには、まず一人一人が独立自尊の精神(独立心)を育てることが必要であり、そのためには実学としての西洋の学問、特に数理学(近代諸科学)を学ばなければならないと考えました。すなわち、神仏などへの「信」によって形成される依存的な体質が真理を見失わせ、文明への進歩を妨げるとし、封建社会を支えた儒教に対しても批判的で、独立心の涵養と数理学の導入による文明化こそが近代日本の歩むべき道であると考えたのです。また、後年には官民調和論を唱え、人権論に基づく自由民権運動を批判しました。
天賦人権論:全ての人間は平等であるとする考え方。
実学:日用の役に立つ技術の他、地理・物理・歴史・経済・倫理といった学問を指します。福澤は個人が実学を修めることで、精神的にも経済的にも自立し、その結果として一国の独立が維持できると考えました。
独立自尊:幕末から明治初期にかけて、アメリカに2回、ヨーロッパに1回派遣された福澤は、西洋文明を野蛮・半開・文明の3段階でとらえたため、日本を半開の国として「一身独立して、一国独立す」という主張や、「脱亜入欧」と呼ばれる主張が出てきたとされます。しかし、特に脱亜論は福澤が創刊した「時事新報」の社説であり、福澤の論とは限らず、福澤自身は弟子井上角五郎を送って韓国で初めてのハングル新聞「漢城周報」を創刊したり、たくさんの韓国人留学生を慶應義塾に迎えたり、韓国の近代化を目指す金玉均ら開化派を支援しているので、むしろ西郷隆盛のような大アジア主義(アジア諸国が結束して西洋列強の帝国主義的侵略に対抗すべきとする思想)にも通じる立場であったと思われます。
「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」(『福翁自伝』)
「天は人の上に人造らず人の下に人を造らずといえり。」(『学問のすゝめ』、天賦人権論に立つ言葉です。)
明六社:森有礼の呼びかけによって明治6年(1873年)に設立された啓蒙思想団体。機関誌『明六雑誌』を発行して西洋思想・文化を紹介し、国民の啓蒙に大きな役割を果たしました。明六社の活動を通して多くの人が天賦人権論などの西洋思想に触れ、演説会を熱心に聴聞した植木枝盛(うえきえもり)のように自由民権運動を担う思想家を育て、日本の近代化の原動力となりました。
森有礼(もりありのり):第1次伊藤博文内閣で初代文部大臣、学校令を制定しました。明六社、商法講習所(一橋大学の前身)の創設者。人倫関係の中でも夫婦のあり方(一夫一婦制)に注目し、相互的な権利と義務に基づいた婚姻形態を提唱して、自らも実践しました(日本で最初の契約結婚)。
西周(にしあまね):日本哲学の父。「哲学」や「理性」などの訳語を案出し、西洋の哲学や倫理学などを日本に移入する基礎を作り上げました。
津田真道(つだまみち):西周と共にオランダに留学し、西洋法学を日本で初めて紹介しています。
西村茂樹:『日本道徳論』。伝統的な儒学を批判的に継承しつつ、西洋哲学を選択的に受容することで、新たな国民道徳の樹立を唱えました。
加藤弘之:東京大学初代総理。はじめ天賦人権説に拠った啓蒙思想の傾向が強く、明六社を結成して啓蒙活動を展開しましたが、後には社会進化論の立場から民権思想を批判するようになり、国家利益を優先する国権論に転じます。
中村正直(まさなお):『西国立志編』『自由之理』。サミュエル・スマイルズの『自助論(Self Help)』を『西国立志編』として出版し、100万部以上を売り上げ、最終的に300万部以上売れたとされる福澤諭吉『学問のすゝめ』と並ぶ大ベスト・ロングセラーとなりました。また、ジョン・スチュアート・ミル『自由論(On Liberty)』を、『自由之理』として訳し、功利主義を紹介しています。
中江兆民:『民約訳解』『三酔人経綸問答』。フランス留学から帰国して、ルソーの『社会契約論』を翻訳し、『民約訳解』として刊行して、「東洋のルソー」と呼ばれました。唯物論の立場に立ち、弟子に大逆事件で刑死した社会主義者幸徳秋水がいます。
植木枝盛(うえきえもり):板垣退助の立志社に参加し、天賦人権や主権在民を平易に解説した『民権自由論』で民権思想の普及に貢献しました。また、圧政への人民の抵抗と革命権を唱える急進的な私擬憲法(憲法案)である『東洋大日本国国憲按』を起草しました。
田中正造:明治期に自由民権運動に参加し、後に衆議院議員を務めました。明治時代後半に足尾鉱毒事件が起こった時、農民の側に立って反対運動を行い、足尾銅山の鉱毒が渡良瀬川流域を汚染した被害の深刻さを訴え続けました。鉱毒が川に流れ込むことによって、魚が死に、田畑が荒れていく中で、人々の生活と自然との強い結びつきを見出し、「民を殺すは国家を殺すなり」と訴えました。