荀子:斉王の優遇策で学者が集まり、「百家争鳴」の中心となった「稷下(しょくか)の学士」の祭酒(学長)で、諸子百家の説を批判的に吸収して古代思想を集大成しました。「中国のアリストテレス」的存在です。性悪説に立ち、人間の本性は欲望に傾きやすく、悪に陥ってしまうので、礼による後天的な矯正によって、人間の行動を規制していく必要があると考え、礼の実践によって人民を治める礼治主義を唱えました。天性という点では聖人も凡人も変わらないという「聖凡一如」という立場から、凡人でも努力によって聖人になれるとして、後天的努力を評価しました。
礼治主義:社会規範としての礼によって人々の行為を規制する立場。
「出藍(しゅつらん)の誉(ほま)れ」「青は藍より出でて藍よりも青し。」(『荀子』):弟子が努力を続けて学問に励み、その結果、師よりも優れること。
韓非子(かんぴし):荀子の弟子。礼治主義から法治主義へと進んで法家思想を完成させ、それを採用した秦王政は辺境の地にあった秦を戦国七雄(西方の大国秦、北方の大国燕、東方の大国斉、南方の大国楚、周王朝由来の中原の晋から分かれた韓・魏・趙)の最強国にして中国統一を成し遂げ、始皇帝となりました。この中国統一はEUに先立つこと二千二百年の超国家中央集権帝国実現の大事業であったと言えます。始皇帝は儒家思想に対して否定的で、焚書坑儒で思想統制を行いました。
陽儒陰法:孟子以降の儒家思想(儒教)は前漢時代に国教となりましたが、実際には理想主義的儒家思想(儒教)によって中央集権帝国を統治することは難しく、現実主義的法家思想(法教)に依らざるを得ませんでした。これを「陽儒陰法」と言い、中華帝国2000年の基本統治原則となりました。例えば、前漢の武帝時代に財政政策として採用された、塩・鉄・酒の専売と国家が商業経営に乗り出した均輸・平準の法をめぐって、官吏候補生である賢良・文学60余人と御史大夫(副首相)桑弘羊(そうこうよう)が白熱した議論を展開していますが(『塩鉄論』)、儒家思想に立つ賢良・文学は道徳、仁義を説き、国家は利益を目的とする事業に手を染めてはならないとする原則論に立って、これらの制度の廃止を主張したのに対し、法家思想に立つ桑弘羊はこれらの制度は国家財政の安定に寄与しており、人民の生活安定にも貢献しているとして、その存続を主張して譲りませんでした。結局、酒の専売制が廃止されただけで、その他は継続されています。また、前漢の「中興の治」と言われた宣帝においても、「漢の統治法は表向き儒教だが、本当は法家思想によって治めていたのだ」と述べて、儒教に傾倒する皇太子(後の元帝)を戒めています。そして、儒家思想そのものの「聖諭六言(せいゆりくごん)」を作って津々浦々に普及させるなど、表向きは儒教を掲げた明の太祖朱元璋(洪武帝)も、世界最高レベルの体系的な大法典である大明律令に代表される法体系を完備し、官僚システムを能率化して統治組織を精巧にして法教皇帝と言われるほど法家思想による統治を完成させており、フランスを代表する啓蒙思想家ヴォルテールも宋代に完成した科挙制に基づくこの統治モデルを羨望し、理想的な官僚制度であるとするほどでした。現代においても、林彪(りんぴょう)の毛沢東批判において、「彼は真のマルクス・レーニン主義者ではなく、孔孟の道を行い、マルクス・レーニン主義の皮を借りて、秦の始皇帝の法を実施する中国歴史上最大の封建的暴君である」としています。