孟子:孔子の孫の子思の門人の下で学び、聖人とされる孔子に次ぐ「亜聖」と称されます。孔子の仁の思想を発展させ、「仁は人の心なり、義は人の路なり」として、仁義を特に重視しました。性善説→良知良能→四端・四徳説→五倫の道→浩然の気→王道政治→天人相関説・易姓革命。「中国のプラトン」的存在です。孟子が一生の間、行った遊説や論争、弟子達との問答、および語録の集成が『孟子』です。
性善説:人間の本性を善とする考え。
良知良能:人間に生まれながらに備わっている道徳的判断能力(良知)と行為能力(良能)。良知は四端説へ、良能は四徳説へと連結され、孟子心理学が体系化されますが、後に王陽明が良知(良心)説を引き継ぎ発展させ、心即理に基づく致良知の理論(陽明学)を完成させます。これらは後のカントの「実践理性」に通じます。
四端説:四徳(仁・義・礼・智)の端緒となる心を四端としました。なお、四徳に信を加えて五常の道としたのは、五経博士を置くなどして儒教を官学化した前漢の董仲舒によります。五倫の道と共に「五倫・五常」として、儒教の重要な徳目となりました。
(1)惻隠の心:他人の苦しみや悲しみ、不幸を見過ごせない心。仁(思いやり)の徳の芽生え。
(2)羞悪の心:自分や他人の正しくない点(悪)を恥じて憎む心。義(正義の心)の徳の芽生え。
(3)辞譲の心:自らへりくだり、他人に譲る心。互いに譲り合い、他人を尊重する心。礼(礼儀作法)の徳の芽生え。
(4)是非の心:善悪を見分ける心。智(道徳的判断力)の徳の芽生え。
五倫の道:人間関係において守るべき5つの道徳。孟子は、愛は人間関係に応じて示されるべきであると考え、墨子の兼愛を親疎の区別をしない禽獣の愛だとして非難しました。
(1)親:父子間の親愛。親子関係は根本規範であり、父子関係を基にした父系集団を宗族と言い、中国や韓国では強力な共同体を形成するに至りました。
(2)義:君臣間の道義・礼儀。劉備が孔明を「三顧の礼」で迎え、「君臣水魚の交わり」を結んだことや、「士は己を知る者の為に死す」といったことわざが思い出されます。
(3)別:夫婦間の男女の区別。
(4)序:長幼間の順序。
(5)信:朋友間の信義。春秋五覇の第一となった斉の桓公を支え、孔明が「理想の政治家」とした管仲(かんちゅう)が「我を生んだのは父母、我を知るは鮑叔」と呼んだ無二の親友鮑叔(ほうしゅく)との「管鮑(かんぽう)の交わり」が有名です。伝統的な中国の共同体では、知り合い(友人)→「関係(クアンシー)」→「情誼(チンイー)」→「幇(ほう、パン)」「幇会(パンフェ)」という結合の強さの段階があり、関係(クアンシー)は日本の恩や義理に似ており、「管鮑の交わり」は情誼(チンイー)の理想とされ、劉備・関羽・張飛による「桃園の誓い」などは幇(パン)のレベルとされます。
浩然の気:仁義に代表される徳目は人間の内部に根源的に備わっているものとし、四徳を身につける中で養われる(「浩然の気を養う」)強い精神力。天地に満ちている、大らかで力強い気のことでもあります。
大丈夫(だいじょうぶ):浩然の気を備え、四徳を実践する理想的人物。
王道政治:仁義に基づく理想的な政治、善政主義。⇔武力に基づく覇道政治。
天人相関説:自然現象と君主の政治には関係があり、悪政が行われると地震、日食、洪水などが起こるとする考え方。
易姓革命:天命を受けた者が天子となりますが、仁政を施す者のみが君主であり、無道な悪政を行う者に対しては天命が革(あらた)まり、王朝が交替します(易姓=王姓がかわる)。このため、天皇の万世一系思想を持つ日本はこれを恐れ、「『孟子』を乗せた船は日本に着く前に沈没する」とまで言われていました。幕末の志士吉田松陰も『孟子』を愛読しており、『孟子』を講義して『講孟箚記(こうもうさっき)』を著しています。
湯武放伐(とうぶほうばつ)論:夏王朝の最後の桀王(けつおう)は暴虐無道の悪王で、殷王朝を創始した湯王に放伐され、殷王朝の最後の紂王(ちゅうおう)も酒池肉林にふけった悪王で、周王朝を創始した武王に放伐されました。これに対して、武王を諌めた伯夷と叔斉の例(二人は周の天下で生きることを恥じ、首陽山にこもってわらびを摂ってしのいでいましたが、やがて餓死しました)があるように「悪王といえども家臣が王を放伐して良いのか」という倫理的問題があったのですが、孟子は「仁を失った者は賊であり、義を失った者は残であり、仁義を失った者は君主である資格がなく、残賊、つまり、ただの男である。ただの男の紂を殺したとは言えても、君主である王を殺したとは言えない」として、これを正当化しました。これは西洋では、千三百年後のイギリスで、国王を追放して新たな王を国外から迎えた名誉革命を正当化したロックの「抵抗権・革命権」に通じる考え方ですが、東西を問わず、「悪王」と「義」(君臣の徳)の対立が難問であったことがうかがえます。儒家の伝統では、古代の聖天子堯が有徳の賢人舜に「禅譲」したことを理想としてきましたが、禅譲しようとしない悪王の場合は打つ手がなく、結局、湯武放伐論によってこれを討ちながら、形式的には禅譲という建前を取ってきたのです。あるいは、東洋における「帝王学」の教科書として著名な『貞観政要』に出てくる名君、唐の第二代太宗李世民ですら、玄武門の変で皇太子である兄李建成と弟李元吉を殺害して即位していますが、「悪王」と言わないまでも、より有能な王位候補者が他にいた場合の問題は深刻でした。これに対する1つの答えが、朝鮮王朝第4代王となるはずだった譲寧大君のケースです。譲寧大君は自分よりも三男の忠寧大君の方が王にふさわしいと考え、わざと酒色にふけって、世子(王太子)の資格を父王が剥奪するように仕向け、忠寧大君が第4代世宗大王となり、朝鮮王朝史上最大の名君となる道を開いたとされます。
「五十歩百歩」(『孟子』):戦場で五十歩逃げた人が百歩逃げた人を臆病だと笑うこと、本質的には同じであること。梁の恵王の「隣国よりも善政を行っているのに国民が増加しないのはなぜか」という問いに、この例えを出し、どちらも善政とは程遠いことには変わりないとしました。
「恒産なければ恒心なし。」(『孟子』):安定した生業(恒産)を保障していれば、民心は安定し(恒心)、行いは自ずから善に向かうという考え。民衆を尊ぶ善政主義・王道政治を説くものです。孔子の生まれる百年前の大政治家管仲の「倉稟(そうりん、米などの穀物を蓄えておく倉)満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る」(『管子』)に通じます。
孟母三遷:子供の教育には良い環境が大切だということ。孟子は母の手一つで育てられました。最初、墓の近くに住んでいましたが、息子が葬式の真似ばかりするので、市場の近くに引っ越したところ、今度は商人の真似ばかりして遊んでいます。そこで、学校の近くに引っ越すと、息子は礼儀の真似事をして遊ぶようになったと言います。
孟母断機:物事を途中でやめてしまったり、諦めてしまってはいけないという戒め。学業の途中で帰って来た孟子に、孟子の母は機(はた)で織りかけていた糸を断ち切って、学問を途中でやめることはこのようなものだと戒めました。