教養としての儒教②:孔門十哲と七十子

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孔門十哲:「四科十哲」とも言われ、門徒三千人と言われた孔子の弟子の中でも最も優れた10人の弟子を指します。

顔淵(顔回): 徳行科。孔子が「顔回ほど学を好む者を聞いたことがない」(雍也第六、先進第十一)と述べ、子貢が「私は一を聞いて二を知る者、顔回は一を聞きて十を知る者」(公冶長第五)、と述べており、孔子から後継者として見なされていましたが、早世したため、孔子の落胆は激しく、「ああ、天われをほろぼせり」(先進第十一)と慨嘆しています。

閔子騫(びんしけん):徳行科。孔子からも孝行者であると賞賛されています(『論語』先進第十一)。閔子騫の子孫だと自称する驪興閔氏(れいこうびんし)から朝鮮王朝最後の王である高宗の妃が選ばれ、閔妃(明成皇后)となっています。

冉伯牛(ぜんはくぎゅう):徳行科。ライ病にかかった冉伯牛を見舞った孔子は、窓からそっと伯牛の手を取って、「このような人物を失うのも運命なのか。よりによってこの人にこの病気とは。よりによってこの人にこの病気とは」と言って大いに嘆いたと言われます。下村湖人の『論語物語』中の「伯牛疾あり」はこの箇所を描いた作品です。

仲弓(ちゅうきゅう):徳行科。その人格の高さから「南面すべし」(君主は南を向いて座ることから、君主たる器量があるという意味)と孔子が称えました。

宰我(さいが):言語科。弁論の達人で、孔門の中では最も実利主義的な人物で道徳を軽視したため、礼とともに道徳を重んじる孔子からよく叱責を受けていました。

子貢(しこう):言語科。弁舌に優れ、衛や魯でその外交手腕を発揮し、たびたび「子貢は孔子を超えている」と言われたほどで、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし」という言葉も子貢と孔子との会話から生まれたものです。『史記』(司馬遷)によれば子貢は魯や斉の宰相を歴任したとされ、『墨子』『韓非子』『荘子』など、多くの戦国時代の書物に子貢が登場していることから、当時の人々にとって非常に有名な人物であったことが分かります。孔子死後の弟子達の実質的な取りまとめ役を担い、弟子達は孔子の墓の近くで3年間服喪しましたが、子貢はさらに3年間、合計6年間、喪に服したとされます。さらに『史記』「貨殖列伝」にその名を連ねるほど商才に恵まれており、後世、財界に大成のあった者に贈る言葉として、子貢の姓である端木(たんぼく)にちなんだ「端木遺風」が使われるほどで、財神として尊崇されることもあったようです。

冉有(ぜんゆう):政事科。孔子から政治の才能を認められ、大きな町や卿の家の長官として取り仕切ることができると評されています。

季路(子路):政事科。孔子門下でも武勇を好み、軽率な所がある反面、質実剛健たる人物でありました。孔子は子路の軽率さをとがめつつも、その率直さを愛しており、「我とともにするは、それ由なるか」と述べています。衛の高官に取り立てられるも、衛に乱があったことを聞いた段階で孔子は「由(子路の名)は死ぬだろう」と述べており、死の直前、冠の紐を切られた子路は、「君子は冠を正しくして死ぬものだ」と言って結びなおしたと言います。子路の遺体は「醢(かい、ししびしお)」(死体を塩漬けにして、長期間、晒しものにする刑罰)にされますが、これを聞いた孔子は悲しみにより、家にあった全ての醢(食用の塩漬け肉)を捨てさせたとされます。弟子の中で『論語』に出てくる回数が最も多い人物です。

子游(しゆう):文学科。文学(学問の才能)に優れ、呉の人で、孔門七十子の中では唯一南方の出身。後に帰郷して江南に儒学を広めたとされ、「南方夫子」と呼ばれています。

子夏(しか):文学科。六経や古典に長けており、魏での弟子が兵家の呉起で、さらに子夏の学統から性悪説の荀子も出ています。

七十子(しちじっし):孔子の門人のうち才能の突出した70余人の学生を言います。『史記』孔子世家には孔子に弟子が3000人いたとあり、そのうち「身の六芸に通じる者、七十有二人」、仲尼弟子列伝には「子曰く、業を受けて身の通ずる者は七十有七人、皆な異能の士なり」とあります。
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