キリスト教思想史:宗教史学のうち、宗教社会学に対応する教会史に対して、宗教哲学に対応するものです。パウロ、アウグスティヌス、ルター、キェルケゴールの4人がターニング・ポイントとされます。
(1)パウロ:イエス教→パウロ教→キリスト教
(2)アウグスティヌス:キリスト教神学の確立
(3)ルター:プロテスタンティズム
(4)キェルケゴール:実存主義
恩寵(おんちょう)説:原罪を背負った人間が救われるのは神の恩寵(無償の恵み)によってのみである、という考え。強靭な意志を持ち、人間の自由意志を肯定するブリタニア(イギリス)の修道士ペラギウスとの論争(ペラギウス論争)を通じて、アウグスティヌスは、人間は自由意志ゆえに罪や悪を犯してしまうのであり、そうした人間が救われるのは神の一方的な恩寵によるしかないと考えました(『自由意志論』)。ちなみに、意志強固なペラギウスよりも罪に苦しむアウグスティヌス、志操堅固な道元よりも自分の弱さをさらけ出す親鸞の方が、日本人は親近感を感じやすいようです。
予定説:救済は神の意志によって予定されているとする考え方。イエスの思想には見られず、キリスト教の教義が確立する中で、アウグスティヌスやカルヴァンによって唱えられました。
スコラ哲学(神学):哲学を「神学の侍女」と位置づけました。
トマス・アクィナス:ドミニコ会修道士、パリ大学教授、スコラ哲学(神学)最大の神学者、『神学大全』。アリストテレス哲学を取り入れて教義を体系化し、信仰と理性の調和を図ろうとしました。
マルティン・ルター:サン・ピエトロ大聖堂建設献金のために「贖宥状を購入して、コインが箱にチャリンと音を立てて入ると、霊魂が天国へ飛び上がる」と宣伝され、天国に入れないでいる煉獄の霊魂救済のための贖宥状販売に対して、その聖書的根拠に疑問を感じ、『95か条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、その賛同者がローマ・カトリック教会から分離し、プロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物。ルターは「雷雨の体験」を経て聖アウグスチノ修道会に入り、後にヴィッテンベルク大学教授として神学・哲学を担当している時にローマ人への手紙(パウロ書簡)を徹底的に研究し、「塔の体験」と呼ばれる第二の転機となる、信仰義認の思想に至ります。これがプロテスタンティズムの三原理の1つとなるわけですが、原点回帰と言われる宗教改革においても、ルターはイエスの原点に帰ったのではなく、パウロの原点に帰ったわけです。ちなみに、ルターの100年前にも、イギリスのウィクリフやベーメン(チェコ)のフスが同じような教会批判、改革を主張しましたが、コンスタンツ公会議で両者は異端とされ、既に無くなっていたウィクリフの墓は暴かれ、フスは火刑に処せられました。ところが、ルターまでの間にグーテンベルクが活版印刷術を実用化して、ヨーロッパ中に普及していたため、ルターの思想はまたたく間に広がり、ローマ教皇や神聖ローマ皇帝と対立する国王・諸侯がルターを保護して、100年前と明暗が分かれました。ルターはこの保護期間にそれまでラテン語で書かれていた聖書をドイツ語に翻訳し、これが近代ドイツ語の元となるわけですが、聖書の各国語訳や信仰の民主化に大きく貢献します。イギリスでも欽定訳聖書(ジェームズ王による英訳聖書)とシェークスピアが近代英語の元だとされています。近代国家は近代国民を必要とし、近代国民のアイデンティティとなる国民意識の形成には、共通の近代国語が欠かせなかったので、ルターの果たした歴史的役割は非常に大きかったと言えます。
「我、ここに立つ」:神聖ローマ皇帝カール5世はルターをヴォルムス帝国議会に召集し、自説撤回を求めますが、ルターは「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っている。それ以上のことはできない。神よ、助けたまえ」と述べたとされます。
プロテスタント:贖宥状(免罪符)批判をきっかけとしたルターの宗教改革に始まる新教諸派。それまでのローマ=カトリックを旧教と言います。聖書中心主義、信仰義認説、万人祭司説、天職思想(職業召命観)などを特色とし、近代民主主義、近代資本主義の思想的原点となりました。ルター、ツヴィングリ、カルヴァンが初期の指導者となり、ここから同じ神、イエス・キリスト、聖書を信じながら、400派以上に分かれていくことになります。
プロテスタンティズムの三原理:宗教改革の基本原理となった三原則。
(1)聖書中心主義:ローマ=カトリックの聖書+伝承主義を否定した形式原理。
(2)信仰義認説:ローマ=カトリックの信仰義認+行為義認(贖宥状もこれに含まれる)を否定した内容原理。「義認」とは神によって人が義と認められることで、救済を意味します。
(3)万人祭司説:ローマ=カトリックの教会中心主義を批判。「神の前の平等」が近代民主主義の原点となりました。
天職思想(職業召命観):聖職のみ尊いと考えるカトリックに対して、世俗的職業を「天職」(Beruf、べルーフ)と考え、神からの「召命」(calling)として、神の栄光を表す場と見なすこと。ルターに始まりますが、カルヴァンに至って予定説とドッキングし、自らの救いを確信する場となったため、禁欲的プロテスタンティズムの倫理が近代資本主義の精神となりました(マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』)。