2つの中国語を楽しむということ

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「Q」の正体——台湾の食感と、中国の「正しさ」

台北の街を歩けば、必ず目にするアルファベットがあります。それは、タピオカミルクティーや麺料理の看板に躍る「Q」という一文字。
「この麺、すごくQだね!」
「ここのタピオカはQQしてて最高!」
台湾で「Q」は、弾力がある、モチモチしている、といった食感を指す立派な形容詞です。その語源は、台湾語(ホーロー語)で餅のような食感を指す「k'iu(キウ)」という音にあります。これに似た音の漢字が存在しなかったため、台湾の人々は「Q」という外来の器をそのまま借りて、自分たちの感覚を表現する言葉として定着させました。
ところで、約20年前、中国は北京の洗練されたレストランで、私は中国人に対しあえてこの表現を使用したことがありました。
「この水餃子の皮、すごくQですね。」
すると、北京出身の知人は一瞬きょとんとしてから、苦笑い混じりにこう言いました。
「それは『弾牙(タン・ヤー)』、あるいは『筋道(ジン・ダオ)』と言うべきだよ。アルファベットを混ぜるのは、本来の中国語の美しさを損なうし、表記としても美しくないからね。」
中国の中国語において、こうした「外来の記号」が日常語に混ざることは、近年ますます厳しく制限される傾向にあります。特に公的なメディアや教育の場では、英語交じりの表現は「言語の純血性」を脅かすものとして忌避されているのです。
台湾では、台湾語という土着の響きとアルファベットが軽やかに溶け合い、独自の食文化の彩りとなっている。
対して中国では、豊かな食感を表現する際も、あくまでも四千年の歴史を持つ「漢字の論理」の中に着地させようとする。
ひとつの「モチモチ」という感覚さえ、政治的な「正しさ」のフィルターを通り、異なる言葉へと姿を変えるのです。

「P図」と「迷因」のあいだ

SNSの世界に目を向けると、この二つの社会の「外来語に対する胃袋の大きさ」の違いはさらに鮮明になります。
中国の若者たちが、写真を加工することを「P図(ピートゥー)」と呼んでいます。しかし、近年のナショナリズムの高まりと共に、「不必要な外来語を排除せよ」という号令がかかると、こうした表現もまた、どこか「不純なもの」として冷ややかな視線を浴びるようになってきています。
中国のSNS用語は、非常に攻撃的でスピード感に溢れていますが、その多くは「自国内の隠語」です。検閲を逃れるための同音異義語や、国内限定のミームが内向きに深化していく。それは、外の世界を遮断した「巨大な実験室」で培養された、純粋で鋭利な刃物のようです。
一方で、台湾のSNSは、まるで雑多な港町のようです。
「今の『迷因(ミーム)』、マジでウケるんだけど!」
「あの投稿、完全に『草生える』だよね」
台湾では、「Meme」を音訳した「迷因」という言葉が定着し、さらには日本語のネットスラングである「(笑)」から派生した「草」や、注音符号を絵文字のように使う「www(ㄨㄨㄨ)」が、ごく自然に共存しています。
台湾のネット空間には、日本語、英語、そして注音符号が、整理されることなく、しかし不思議な調和を持って溢れています。そこには「言葉の純度を守らなければならない」という悲壮感はなく、むしろ「面白いものは全部飲み込んでしまえ」という、圧倒的な寛容さと好奇心が息づいているのです。

「不好意思」と「服務員」

最後は、店員さんとのやり取りに潜む、言葉の「温度差」についてです。
台湾の生活で、最も耳にする言葉は「不好意思(ブー・ハオ・イー・スー)」でしょう。これは「すみません」や「恐縮です」にあたりますが、日本語の「申し訳ありません」に近い繊細なニュアンスを含んでいます。
台湾の中国語は、日本語の敬語感覚や、相手を立てる「人情味」を吸収してきました。店で注文をするとき、会計をするとき、台湾の人々は「不好意思」というクッションを必ず挟みます。それは、言葉の隙間に相手を思いやる「余白」を作る作業のようでもあります。
一方、中国のサービス現場は、かつての「同志」という呼びかけから「服務員(フーフーユエン)」へと変わり、今では「美眉(メイメイ)」や「帥哥(シュアイゴー)」といった親愛の情を込めた呼びかけが主流になりました。
しかし、そこでのコミュニケーションは、極めて直線的で効率重視です。
「你要什麼?(何が欲しい?)」
中国の言葉には、無駄を削ぎ落とした力強さがあります。自国の経済発展と民族的なプライドを背景に、彼らの言葉は「伝えるべきことを、最短距離で伝える」という機能美を追求しているようにも見えます。
台湾の言葉が、日本語的な「察し」や「謙譲」を内包し、時には曖昧さを楽しむ「円環」の形をしているのに対し、中国の言葉は、自己主張を明確にし、目的を達成するための「矢」のような形をしている。
台北のカフェで、「不好意思」と繰り返しながら注文を受ける店員の柔らかな物腰。
北京の食堂で、QRコードを指差し「掃碼!(コードをスキャンしろ!)」と端的に言い放つ店員の合理性。
どちらが良い、ということではありません。
ただ、それぞれの中国語が、その土地の歴史と政治の重力に引かれ、全く異なる「おもてなしの形」を作り上げているのです。

境界を漂う通訳翻訳者の視座

私が北京で学んだのは、力強く、揺るぎない、自国文化への誇りに満ちた「完成された中国語」でした。
そして私が台北で愛したのは、異文化の断片を拾い集め、いびつながらも温かく人々を繋ぐ「開かれた中国語」でした。
通訳翻訳とは、ただの置き換えではなく、こうした「言葉の向こう側にある意志」を汲み取ることです。外来語を拒み、自国の論理で世界を再定義しようとする中国の孤独。外来語を愛し、混ざり合うことで自らの輪郭を広げようとする台湾のしなやかさ。
この二つの中国語の境界線に立ち続けることは、時に引き裂かれるような痛みも伴いますが、それ以上に、人間が言葉というツールを使って、いかに多様に「世界」を構築できるかを教えてくれます。
同じ「餃子」を食べても、北京ではその歴史を噛み締め、台北ではその変化を慈しむ。
通訳翻訳者の醍醐味とはそんな二つの視点を持ち続けながら、言葉の散歩を楽しむことではないでしょうか。

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