「著作権の「法律ルール」に関する議論」上智大学法学部法律学科推薦入試2009年

記事
学び

(1)問題


① 様々な法律について,「この法律は改正すべきだ」「いや,今のままでいい」といった議論が行われているが,ほとんどの法律についてはこのように,「良い」という意見と「良くない」という意見の対立が見られる。ところが著作権法の場合は,関係者全員が「良くない」と言うのが「普通の状態」――と言っても過言ではないのである。なぜそうなるのかと言うと,人びとの「欲求」(もっとはっきり言えば「欲望」)に限りがないからだ。利用者側は,著作権法を廃止して「何でもコピー自由」とするまで完全には満足しない。逆に権利者側は,権利が強まって印税が三倍になれば四倍,四倍になれば八倍ほしいと思いがちだ。つまり,「欲求と欲求のぶつかり合い」が常に存在しているのである。

② また,この「欲求」は,単に「金がほしい」ということだけではない。「社会全体や他人のために尽くしたい」という善意のものも当然含まれている(いわゆるボランティア精神も,「欲求」のひとつだ)。特に,コンテンツの創作・利用については,権利者側も利用者側も,それぞれ大なり小なり社会全体の文化・産業・教育などに貢献している。このため権利者・利用者の双方が,「自分はこんなに社会に貢献しているのだから,著作権についてもっと優遇されてしかるべきだ」と常に思っている。その「優遇」が,権利者側にとっては「コピーされないこと」であり,利用者側にとっては「コピーできること」なのである。

③ 日本国憲法のもとではすべての人びとに「思想・信条・良心の自由」や「幸福追求権」が保障されているので,自分の思想や利害に基づいて自らの欲求を追求することは悪ではない。問題は,そうした欲求が人びとの間で相互に対立するということだが,そのために「法律ルール」を作る必要があるのである。そのような「法律ルール」の作り方も憲法という基本ルールに定められており,憲法前文に明記されているように「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」する日本国民自身が,最終的には国会での多数決によって法律を作るのだ。

④ このように,多様性と対立が存在する民主的な社会の中で,建設的な話し合いによって「法律ルール」を作り,それを守っていくことが「ルール感覚」であるが,著作権に関する議論に関わる日本人の中には,それが不足している人が少なくないという指摘もある。ルールを作るときに「違う思想や利害を持つ人」を敵視して建設的な話し合いをしないとか,自分に有利なルール作りを「全体の奉仕者」であるべき役人にやらせようとするとか,既存のルールに違反しても「ルールの方が悪い」などと言う――といったことがそれを示している。

「自分にとって不満」を「不公正」と呼ぶ不思議

⑤ このように,著作権に関する「法律ルール」は,「常に全員が不満」という宿命的対立構造を背負っているが,「自分にとって不満」という状況(単に,自分にとって有利な法律ルールが,自分自身の力不足のために多数の支持を得られておらず,憲法のもとで採用されていないという状況)のことを,「不公正だ」などと言う人が多い。こうしたことが,「多様性の中における民主的なルールづくり」に大きな問題をもたらしている。「ルールを超えた公正さ」というおかしなものを振りかざす人びとの「公正」とは,実は「自分の思想・利害」にすぎない。ところが,異質な人びとと建設的な話し合いをしていくことができない人は,思想や利害を異にする人と出会うとまず「なぜ私のすばらしい考えに賛同できないのだろう?」と「驚き」,どうしていいか分からず「戸惑い」,最後にはこれが「怒り」になっていくようだ。相手を「悪」と呼ぶかわりに自分を安易に「弱者」と呼ぶ人も同様だが,著作権の「法律ルール」に関する議論においては,対立する当事者の双方が「自分たちは『弱者』であって,『不当』で『不公正』なルールを押し付けられている」などとお互いに言い合うことが多い。

⑥ また,「我々が言っていることは,『業界エゴ』ではない。日本の(産業の)将来のためだ」などと言う人もよくいる。実は,「業界エゴではない」と言う人ほどエゴイストなのだが,ここで言うエゴイストとは,「我々の主張は我々の利益のためのものではなく,みんなにとっていいことなのだ」という「自分の意見の絶対化」や,日本の(産業の)将来の在り方についての「独善的な判断」をしている人である。そんなことは国民の意思にしたがって決められるべきことであり,「ウチの業界が伸びることが日本のためだ」などと言うのは,民主主義を否定した独善だろう。まず,「相手もエゴだが,自分もエゴ」「どっちもどっち」――という相対化が必要であり,それが「ルール感覚」の基本なのである。

「ルール」に対する「醒さめた目」が必要

⑦ そうした「相対化」により,憲法に定められた民主的な手続きにしたがって「法律ルール」を作っていくには,まず,「これは人工的に作る『ルール』にすぎず,哲学的な善悪やモラルとは関係ない」という基本的な認識と「醒めた目」を持つべきである。そのようなルール作りに,相対的なものである「善悪」や「モラル」などというものを持ち込んでも,対立が深まるだけだ。著作権は,国際人権規約にも定められた「人権」という側面を持っているが,人権というもの自体が,実は人間が人工的に作ってきたルールである。「人権は神から与えられたもの」という考え方もあるが,キリスト教とイスラム教では神様の意思も違うようであり,少なくとも日本では,「憲法に書く」という「人間によるルール作り」によって,人権の内容が特定されているのだ。

⑧ 「著作権を保護する」ということ自体も,それ自身が「目的」であるはずはなく,「人びとが幸福になる」ための「手段」にすぎないのであって,著作権保護自体に価値がある」などということはあり得ない。著作権に関する「法律ルール」というものは,「アメリカでは,車は右側」というここと同じ(善悪とは関係ない)社会のルールであり,別の例を出せば「ボール4つで一塁」というのと同じなのである。ピッチャーの側は「できればフォアボールという制度は廃止してほしい」と思っているが,逆にバッターは,「空振り三回でアウトなのだから,ボール三つで一塁というのが『公正』だ」などと理屈をこねるかもしれない。著作権に関する利害対立も本質はこれと同じであり,そうした「どっちもどっち」という状況において「ルール感覚」を持った建設的な話し合いと,「多数決」によるルール作り」が必要なのである。

(岡本薫『著作枠の考え方』(岩波新書・新赤版2003年)

設問1 筆者のいう「ルール感覚」とは何か。簡潔に記せ。

設問2 このルール感覚は,なぜ著作権に関する議論で必
要となるのか。筆者の考えを簡潔にまとめよ。

設問3 下線部について,著作権にかぎらず,ほかの具体的な「人権」に関するルール作りにも同じことが言えるか。筆者の見解を踏まえながら,あなたの意見を述べよ。

著作権.png


(2)解答例


設問1
著作権法の例では,利用者側は,著作権法を廃止する,権利者側は,権利の強化を図るように改正するという対立が存在し,その理由も金銭的な欲求だけでなく社会や他人に対する善意も含まれているように,多様性と対立が存在する民主的な社会の中で,建設的な話し合いによって「法律ルール」を作り,それを守っていくこと。

設問2 

著作権に関する「法律ルール」について,「不公正だ」などと言う人が多いことが,「多様性の中における民主的なルールづくり」に大きな問題をもたらしている。こうした人びとの「公正」とは,実は「自分の思想・利害」にすぎず「自分の意見の絶対化」や,「民主主義を否定した独善的な判断」をしている人である。思想・利害の相対化が「ルール感覚」の基本になるから。

設問3

 筆者によれば,著作権については自分が「弱者」と考えて「自分の思想・利害」をゴリ押しする人々がいる。金銭的な利害関係がからむ著作権などの経済的自由については思想・利害の相対化が確かに必要となる場合がある。
 しかし、社会権については、生活困窮者,身寄りのない老人・児童、身体障害者など,社会的弱者が現実に存在する。社会保障の「人権」に関するルール作りにおいては、こうしたマイノリティに属する人々が「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことができるようにするために、マジョリティの欲求をある程度抑えてでも公私にわたる弱者保護と援助を促進する施策が求められると考える。

 アメリカの哲学者ロールズは『正議論』のなかで以下のように述べている。自分が裕福な家庭に生まれるか貧困家庭に生まれるかわからない。こうした原初状態において人々はマジョリティに属し,マイノリティを排除して得られる利益の大きさを想像するより貧困家庭のようなマイノリティにとって住みやすい社会を作ろうとするはずである。したがって、自由主義社会に生きる私たちは、自由な権利を平等に持つべきである原理を保持しながら、不平等は、最も不利な立場の人々にとって有利な形で調整されるべきであるとし、政府が社会福祉をすることは正義であると主張した。

 このようなロールズの正議論は、格差が進展する現代の日本社会において現実性を持って受け取られる。2023年の日本の相対的貧困率は15.4%であり、先進国でも高い数値である。6~7世帯につき1世帯が貧困のただなかに置かれている。このような状況を背景に子どもの貧困も進んでいる。3食満足に摂ることができず、学校給食でかろうじて栄養価を補っている子ども、病気になっても病院に行けない子ども、一週間同じ服しか着ることができずいじめの標的になっている子ども。「親ガチャ」という言葉に象徴されるように、こうした状況にある子ども自身に責任はない。自分がこうした貧困下にないのは、自身の努力などに原因はなく、子どもに一切の責任はない。相対的貧困家庭に生まれた子どもの多くは学習機会に恵まれず、ひいては就職機会も奪われて、おとなになっても満足な仕事に就くことができずにいる。彼ら彼女らが結婚して子どもを産んでも、そうした子どももまた相対的貧困に直面することになり、貧困の再生産が繰り返される。

 福祉政策の関するルール作りについては、生存権を根拠としてマイノリティの人たるに値する生活を営めるように国は最大限の配慮をするべきである。私が貴学に入学した暁には、ロールズの哲学や弱者尊重のモラルに改めて目を向けて法学の学びを進めてゆきたい。

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