💎理系に憧れてきた文系とは!
💎文系、理系などという区別はなかった!
💎理系的な「頭のよさ」とは何か!
💎文系的な「頭のよさ」とは何か!
💎ぼんやりとした共通理解としての「文系の知」とは!
💎時代を動かしていく「文系力」とは!
💎理系に憧れてきた文系とは!
厳密な科学を担う理系と、曖昧な思想を担当する文系。
両者のちょうど境界線にあるのが経済学です。
大学の経済学部は、文系の学部にぶんるいされていますが
今日の経済学の主流は、統計的なデータを活用して
数学を高度に駆使したものになっています。
いわゆる近代経済学の勉強は、数学ができないとなかなか厳しいと
言われていて、高校時代に数学を早々とあきらめた私立文系の学生などは、
経済学部に入ってから愕然とするというようなことがよくあります。
経済理論を科学的な理論にしたいという経済学者たちの思いが、
これまで経済学において数学的な要素を盛んに導入してきたと言えます。
しかし、経済という現象は、はたして科学の研究対象になり得るかといえば
難しい所です。
物理学については、ある理論を立て、実験をしてその理論が実際の
物理現象に即しているかどうかをチェックすることができます。
ですから、物理学は、完全な科学と言えます。
ところが、経済学の理論というのは、いくら理論をうちたてても
実際の経済現象を説明することに成功していません。
いつもどこかずれるのです。
経済学者の経済予測が当たらないというのは有名な話です。
「よくもまあ、この人は毎年毎年予測をはずしながら、また来年の予測を語るものだ」 そんなふうに感じる経済学の専門家は、たくさんいるのです。
そして、予測が当たらないことについてエコノミストたちは、
特に反省もしていない様子です。
物理学者なら自分の立てた理論通りの実験結果が出なかったら
理論の間違いを早々に認めて引っ込めるはずです。
それが科学的な態度というものです。
しかし、そのような経済学も科学になりたいと志向しているのは確かな事です。
心理学もそうですし、大学で研究しているような学問は、
基本的には論文を書くことを目的にしていますから、
その意味ですべての学問は、科学になりたがっていると言ってもいいと思います。
いわゆる文系学問が憧れる科学のモデル、理想型が物理学になります。
物理学は、学問の華ともいうべき存在です。
ガリレオ・ガリレイから始まって、ガリレオが死ぬのと入れ替わるように
生まれたニュートンが体系化した物理学は、
万物の法則を説明できる科学になりました。
これぞ人類の智の最高峰である、と知的な人であれば誰もが憧れてきました。
もちろん、ガリレオやニュートンと同じくらいシェイクスピア、ゲーテも
素晴らしいことをいっているではないかと指摘されれば
そのとおりだと思います。
しかし、シェイクスピア、ゲーテは、宇宙の普遍的な法則を解明したわけでは
ありません。
ニュートンの運動方式、F=ma(力=質量×加速度)のように
動かしようがない真理を打ち立てたわけではないのです。
文系の学者たちが、どこかで理系に憧れてしまうのはこういったところが
あるからでしょう。
しかし、興味深いのはこの先です。
近代科学を作った、いわば理系の祖といっていいニュートン
あるいはその同時代の科学者たちは、必ずしも理系的な発想に
たっていたわけではないという事です。
彼らを突き動かしていたのは、ある種の文系的な意図でもあったのです。
💎文系、理系などという区別はなかった!
惑星の運動が楕円軌道を描くことを発見したのは、ニュートンより少し前の
時代の科学者、ケプラーです。
それまでは、惑星は円形の軌道を描いて運動をすると信じられていました。
ところが、実際に惑星の運動を観察した結果がこの理論に合わない。
円運動だとすると説明がつかないわけです。
ケプラーは、あらためて観測数値を基に膨大な計算を繰り返しました。
その結果、惑星は楕円の軌道を描いて運動しているということに
気が付きました。
この仮説に観測数値を当てはめてみると、ピタリと計算が合ったのです。
わかってみると簡単なことなのですが
誰もが惑星は円運動をしていると信じている中で
楕円運動という発想をしたところがケプラーの偉大さです。
ケプラーが天体の運動を研究し、その謎を追求していった動機は、
実は「神の意志を証明したい」という思いだったそうです。
神はこの世界を不合理につくるはずがない。
この世界、宇宙は、必ず神の意志に基づく秩序、
すなわち法則に貫かれているはずである。
その法則を解き明かすのだ、というのがケプラーの動機でした。
これは、ニュートンにも共通する動機です。
神の意志としての整合的な自然法則を解き明かしたいと
近代科学の先駆者たちは考え、観察や実験、考察を繰り返しました。
その結果、惑星の楕円軌道やF=maという数式を見出したのです。
近代科学をつくった天才たちですが、実は彼らを動かしていたのは、
必ずしも理系的な思考だけでなく、宗教という文系的な思想でもあったのです。
皮肉なことに、ケプラーやニュートン以降、
科学と宗教は対立関係に入って行きます。
彼らが見つけた自然法則は、神の存在を証明することにはならず、
「神ではなく、自然法則が世界を支配している」と考えられるようになって行ったのです。
ケプラーは、神の意志を証明したいという動機で惑星の軌道を研究しましたが、その動機がどのようなものであったとしても
惑星の軌道を観測したとすればやはり楕円軌道を描いて運動をしているという結果にたどり着きます。
このように見る人の意見や立場によって結論が変わらない、
それが科学的という事です。
「三角形の内角の和は180度」ということも、見る人によって違うという事は
ありません。誰がどう計測しても三角形の内角の和は、180度です。
これまで作図されたあらゆる三角形の内角の和は180度ですし、
まだ描かれていない、未来において描かれる三角形もすべて内角の和は、
180度になります。
球体の表面に描かれた場合はともかく、平面の場合、計測の必要なく
180度なのです。これが科学的な証明の美しさです。
科学的証明の手続きは、エジプトの天文学を起源として、
ギリシャのピタゴラス学派が確立したものです。
ケプラーやニュートンからさらに科学の歴史を遡ると
その起源には「ピタゴラスの定理」で有名なピタゴラスがいるわけです。
このピタゴラス学派に非常に影響を受けたのが、プラトンでした。
プラトンと言えば「国家」で有名な古代ギリシャの哲学者です。
哲学者ですから、文系の大巨頭と言っていいでしょう。
プラトンは「イデア」という考え方を提唱しました。
たとえば、完全なる正三角形を人の手で描くのは不可能でしょう。
どうしてもかすかなズレが出ます。
しかし、ここが大事なところですが、
三つの角がそれぞれ60度の完全なる正三角形を”思い描く”ことはできます。
これが「イデア」というものだとプラトンは考えました。
数学の授業で先生がフリーハンドで黒板に「正三角形」を描く。
実際に分度器を当ててみたら、ちょうど60度の角はひとつもないでしょう。
しかし「これを60度とみなす」として幾何の問題を解いていくことはできます。
私たちがこのように思考できるのは、正三角形の「イデア」があるからです。
同様に、ちょっと曲がった線を直線とみなす、
ゆがんだマルを円とみなす、といったことは幾何学の世界では当たり前です。
ピタゴラスのこの思考法に影響を受けながら、プラトンは「イデア」という
考え方を作って行きました。
プラトンは、自分の学園(アカデメイア)の門のかたわらに
「幾何学を知らざる者は、この門から入るべからず」という看板を
掲げたと言います。
現在では、文系の大巨頭と思われている大哲学者は、
「幾何学を勉強していないような者には教えることはない」と、
今日の目でみると、まるで文系を排除するようなことを言っていたわけです。
もちろんプラトンは、文系を排除しようとしたのではありません。
そもそも当時、文系・理系などという分類はありませんでした。
古代ギリシャの学者は、理系、文系の区別なく広範囲に学んでいます。
「幾何学を知らざる者はこの門から入るべからず」というプラトンの言葉は、
「学問をやるのなら、ちゃんとしたものの考え方ができなくてはいけない」
という意味なのです。
文系・理系について考えるならば、両者が分かれていなかった時代が
長くあったことにも思いをはせるべきです。
もともとそれぞれ「学問」ということに変わりはなく大きな区別をする
必要はないのです。
現在でも欧米の学者を見ていると、文系の学部を出たあとに理系の学部に
行ったりということが珍しくないのです。
ニュートン以降、理科系の学問=科学が確立するにしたがって
文系・理系の区分けは、とりわけ日本では強調されるようになってきました。
大学では、座学だけで済むカリキュラムと実験室や農場が必要なカリキュラムは分けた方が便利なので、学部のみならずキャンパスまで文系キャンパスと
理系キャンパスというようにわけることもよくあります。
それに対応して、高校では受験戦略上の文系・理系という分けかたが行われ
高校生もそれに合わせて理系または文系と自己規定してきました。
しかし、文系と理系の区別というのは、必ずしも絶対的なものではないという
ことも知っておくべきでしょう。
💎理系的な「頭のよさ」とは何か!
私たちはよく「頭がいい」という言葉を使いますが、
そもそも「頭がいい」とはどのような事をいうのでしょうか?
また、文系と理系で「頭のよさ」に違いはあるのでしょうか?
たとえば、数学が抜群にできる人がいると
「あの人は頭がいい」と感じると思います。
数学が苦手な人ならなおさら、数学ができる人の頭脳を優秀に感じると
思います。
数学の得意な人、つまり理系的能力の高い人の、どういった点に
私たち周りの人たちは「頭がいい」と感じるのでしょうか!
センター試験を受けるような高校生の場合、
文系の人は理科の科目として、暗記で対応できる生物を主に選択しますが
理系の人の場合、その中でも特に理系的センスを持っている人は、
物理を選択することが多いものです。
これは、物理はほぼ数学だと言ってもいいからです。
現代物理学の体系は、ニュートンが作りだしたものです。
そして物理現象を解明するために、ニュートンは微分積分を発明しています。
高校数学の到達点は、数Ⅱ・Ⅲで学ぶ微分積分ですから
少なくとも高校レベルまでは、物理と数学は同じものと言っていいのです。
数学と物理の基礎を一人でつくりあげてしまったニュートンは
とんでもない天才だとあらためて驚かされます。
科目としての数学と物理に共通するのは、どちらも記憶することが少ないという事です。
基本的な考え方がわかっていれば、世界史や英語のようにたくさんの事を
記憶しなくても問題が解けるのです。
これは、理系的な頭のよさをもった人にとっては非常に楽な事です。
たとえば数学の問題なら、公式さえ覚えていれば、あとはその場で考えることで解くことができます。
それどころか公式を忘れてしまってもその場で公式を導くことさえ可能です。
たとえば、2次方程式の解の公式は中学校で習って高校数学でも使います。
数学ができるという人というのは、解の公式をもし忘れても問題ありません。
「平方完成」という原理がわかっていれば、解の公式はその場で導けるからです。
もちろんここまでわかったうえで解の公式を何度も導き、使っていれば
自然に覚えてしまうでしょうが、数学が苦手な人の様に苦労して丸暗記する
必要はないのです。
このように「原理がわかっているとその場で何とかできる」という能力は
頭の良さを感じさせます。
これは「原理を理解していて、原理を自在に応用できる」とも
言い換えられます。
例題が解ければ応用問題も解けるという頭のよさです。
勉強に限らず、仕事でも私生活でも、応用のきく人
マニュアルに頼らず自分で答えを出せる人というのは
頭がいい、有能だと評価されるでしょう。
原理がわかっていて、それを個々の問題で使うというのは具体化の能力であり、逆に個々の問題を見て、
それを解くための原理がわかるというのは抽象化の能力と言えます。
つまり、理系人間の頭の良さとは、抽象化と具体化を自在に行き来できるところにあると言えます。
覚えることはできるだけ少なく、シンプルにすることが気持ちがいい。
原理を具体化して、個別の問題に適用したり、
個別のいくつかの問題を抽象化して原理を導いたりすることが快感です。
そのような感性を持っているのが、理系人間と言えます。
また、その部分を周囲の人たちも理系的な頭の良さと認識しているのです。
💎文系的な「頭のよさ」とは何か!
「複雑なものをすっきりさせたい」というのが理系の感性です。
これに対して文系の感性の特徴は、すっきりと整理するより、むしろ
「ごちゃごちゃさせたい」という点にあります。
たとえば、「百年の孤独」という小説があります。
1960年代の世界的なラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした
ガルシア=マルケスの代表作で
20世紀文学を語るうえでは絶対にはずすことができない作品です。
「百年の孤独」という小説は、とにかくごちゃごちゃした小説です。
七世代にわたる長大な物語で登場人物も当然ながら多いのです。
読んでいるうちに誰が何をしたのだかわからなくなってきます。
しかし、そのごちゃごちゃ感がなんともいえない幻想的な面白さを
生んでいるのです。
あるいは、村上春樹の小説もなかなか面白い特徴を持っています。
村上氏の文章は、一文一文は明瞭な翻訳文体でわかりやすい。
けれども、物語の流れは複雑な謎をはらんでごちゃごちゃとしている。
その謎、複雑さに惹きつけれるようにして長編を最後まで読まされてしまう。
やはり、”ごちゃごちゃしたカオス的な魅力”を持っています。
ちなみに、カオスとは、天地創造以前の世界の状態という意味で
つまり、混沌とか混乱という意味合いを示します。
ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は19世紀の作品ですが、
ものすごい数の研究、評論が出てもいまだにその解釈には決着がつきません。
現在でも、研究者たちが新解釈や新発見を提示しています。
文学用語では、このように多義的でたくさんの発見がある作品のことを
「テキスト性が高い」と言います。
やはりカオス的でごちゃごちゃしているところに魅力があるわけです。
こうしたごちゃごちゃした作品が文学史上の傑作、名作とされているのは、
やはり文系がごちゃごちゃした混乱を好む、
カオスが好きということなのでしょう。
特に文学は、「人間というのはよくわからないものだ」という複雑さを
描かなくては面白くないものです。
「人間の性質はこうである。だからこのように行動をする。
人間と人間が関わるとこのような作用が起きる」と
化学式のように割り切った小説は面白くもなんともないですし、
小説好きな人からは
「登場人物に厚みがない」「ステレオタイプな駄作」と酷評されるでしょう。
人間の奥深さ、よくわからないごちゃごちゃした部分が、
読むほどに増していくような作品が、いい小説と言われているのです!
小説に限らず、文系の感性(フィーリング)は、具体性のある複雑さを
好みます。
恋愛という現象を抽象化してしまえば
「好きな人に思いが届くかどうか」ということにつきます。
だとすれば、百人一首の恋の歌から現代のラブソングまで
伝えようとしているメッセージは同じのはずです。
しかし、その同じバリエーションをどんどん豊富にしていくことが
面白いと感じるのが文系の感性(フィーリング)なのです。
この感性(フィーリング)は、実は現代の社会でも価値を生む力を
持っているのです。
アップル社が1977年に発売したAppleⅡは大ヒットし
個人用のコンピュータ=パーソナルコンピュータというコンセプトを
世界中に広げました。
しかし、AppleⅡは世界初のパーソナルコンピュータというわけではありませんし、同時期にパーソナルコンピュータを商品化した企業は他にもありました。
デザインや宣伝方法まで含めた、スティーブ・ジョブスの”センス”によって
ヒット商品となり、コンピュータの歴史に名を残すことになったのです。
同じようなことは、ビジネスの世界ではよくあります。
既存商品のパッケージやネーミングを変えただけで売れてしまう。
同じ機能をもつ商品なのに見せ方によってベストセラーになったり、あるいは
売れなかったりします。
情報化した現代においては、こうした部分での”工夫”は大きな力を持ちます。
具体性、複雑性、カオスをそのままに残しておきたいという
文系的な感性(フィーリング)が
生かされるのはこうした価値を生み出す場面でしょう。
”整理するのが理系的な頭の良さ”だとすれば
「同じような現象のなかでも具体的な複雑さを残し、生かしていくのが
文系の頭のよさです。」
これはごちゃごちゃしたもの、カオスのなかに価値の源があることに
気づける頭の良さともいえると思います。
💎ぼんやりとした共通理解としての「文系の知」とは!
文系の知とは、ぼんやりと
「こんな感じじゃないか」
「およそこうではないか」という
なんとなくの共通理解を積み重ねていくものです。
たとえば、「論語」には、
「人間には三徳が大事である」と書いてあります。
智仁勇といって、知性、思いやり、勇気が大事であり
勇気には、行動もともわなくてはいけないと解釈されています。
知性に基づく判断力があり、
他人に対する思いやりがあって、そして
勇気をもって行動する人なら、
立派な経営者にもなれるでしょうし
立派な教師にもなれるでしょう。
りっぱなお医者さんにも
政治家にもなれそうです。
だから「論語」のこの主張は
「まあそうだろうな」
「いいことをいっているな」と思えます。
しかし、この主張は科学的とは言えないのです。
「人間には三徳が大事である」という命題の意味は、
どうとでもとれますし反証のしようがありません。
同様に仏教で「慈悲の心が大事である」というのも
たしかにそんな気はするけれども、反証可能性がありません。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教の思想は
神が万物を創造したと主張します。
たしかに、自然界の絶妙な摂理を目のあたりにすると
そうなのかもしれないと思えることもあります。
しかし、これも反証可能な主張ではないので、科学的とは言えません。
では、反証可能性のない文系の知識は無意味なものでしょうか?
そんなことはありません。
「論語」をはじめとする
儒教思想も、仏教思想も
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教思想も
古代から現在に至るまで強い力をもって社会に影響を与えています。
文系の知識というものは、
「これはだいたいのところ、こうなんじゃないか」ということを言って
しばらくすると別の人がまた「いや、これはこうだろう」という。
また別の人は別の事をやはりぼんやりという。
こうしていろいろな人が色々な事を百科繚乱(ひゃっかりょうらん)のように
いって「およそ、こんなことだろう」と共通理解しているのが
文系の知識なのです。
たしかにぼんやりとしたなんとなく共通理解ではあるけれど
そのなかでも大多数の支持を受けたものは現実を大きく動かしています。
こうしたぼんやりとした共通理解のことを”思想”と言います。
文系の知識の多くは、”思想”なのです。
💎時代を動かしていく「文系力」とは!
今の日本は、文系力ともいうべ総合的な判断力の積み重ねの果てに
ここにあるということができます。
「理科系的な技術者を育てれば国が栄える」とは、一概に言えないのが明らかです。
もちろん、理系的な力、理系力が必要不可欠なことは間違いありません。
ただ、すぐれた理系の人材さえいればいいとは言えないのです。
確立した専門分野をもたない、モヤッとした文系の人々。
その人たちが、総合的な判断力を発揮して、大きく時代を動かし
社会を担ってきたのです。
文系の人達の中には、
「文系とは、ただ理系ではない人の事である」
「数学や物理に挫折した人が文系である」と認識している人もいますが
それでは自分の存在価値を胸を張って主張することはできないでしょう。
これまでの歴史が教えてくれる文系力の意味とは、
総合的な判断力を持ち、言語の運用能力をもってまわりと強調して
全体の意思決定を進めていく力の事です。
社会に大きな影響を与え、物事を進めていく推進役が文系なのです。
こういった視点に立ち、文系の人達も自らの存在価値を再認識してほしいと
思います。
転職活動、転社活動、再就職活動に臨んだビジネスマンが
あなたはどんな仕事ができますか?と聞かれて
「課長ができます」「部長ができます」などのアピールしかできない!
マジ!こんな日本人がいること自体が?
何が自分の存在価値や強みであるかを考えずに生きてきた文系の人が
陥りがちな悲喜劇ではないでしょうか!
そうかと思えば、優秀な経営者は業界を越えて「異動」することがあります。
IT企業の社長だった人が、まったく畑違いの飲食チェーンのCEOに迎えられるといったようなことはよくあります。
優れた経営者というのは、ある業界だからうまくいくのではなく
他の業界でも通用することが多いのです。
このことは、物事を進め、変革を起こしていく文系力は、
「特定分野の専門知識とは別の次元で、普遍的な力を発揮するという事を
物語っています。」
これは経営者だけの話ではありません。
文系力に優れた営業マンは、化粧品だろうと石油プラントだろうと売ることができます。
文系力のある企画マンは、文房具の商品開発でも、過疎地域の活性化でも
切れ味のある企画を生み出せるはずです。
特定の専門分野を極めたわけではない、しかし、
広い視野をもった文系人間の力が必要とされることは、
どんな組織にもあるといえると思っている次第です。