「文系人間がより良く生きていくためには⁈💜」🎾🚴‍♀️⚔️🏓🏸🤿⛳😎😍

記事
コラム

💎AI時代の文系人間の役割について!

①恋愛に代表されるような現実、
複雑で曖昧な人間の営みには、理系的な思考はなじみにくいものです!
②曖昧な現実を読み解くのは、文系人間の役割なのです!
③概念=言葉が社会を変える!


①恋愛に代表されるような現実、
複雑で曖昧な人間の営みには、理系的な思考はなじみにくいものです。

とはいえ、科学は、どんどん進歩しているということも忘れては
いけないことに、今の時代はなりました。
特に注目すべきは、近年のAIの進歩です。
おそらくAIは、やがて「人間の判断力」の多くの部分を肩代わりしていくことになるでしょう。

たとえば、自動運転用のAIは、画像認識によって得たデータから
複雑な状況を把握する能力を持っています。
歩行者の挙動を見て、「この人は今、道路に飛び出そうとしている」と
瞬時に判断したりできるのです。

AIの急速な進歩を可能にしているのは、「ディープラーニング」という技術です。
たとえば、仮想的に何台もの自動車が交差点に突っ込んでいく状況を作り、
AIをこの状況に放り込むと最初は当然他の車に激突してしまいます。
しかし、何度かこの「シミュレーション」を繰り返していくと
AIはやがてランダムにみえる車の動きの流れを理解し事故を起こさない動きを
学んでいくのです。
人間の学習速度など問題にならないのです。
しかも、一度ぶつからない動きを習得したAIは、二度とぶつかることはないのです。人間にありがちな、うっかりミスもないのです。

近年、AIが将棋や囲碁の世界でチャンピオンに勝つことが増えてきました。
予想されていたよりはるかに速くAIが人間のプロたちを超えたのも
「ディープランニング」というAIにしかできない学習方法のおかげなのです。
AIは、人間の脳とは、桁違いな演算速度をもっていますから
こうしたことも可能なわけです。
こうなると、いままで「グレーゾーン」だと思われていた領域でも
AIは、いずれ「人間の判断力」を超えるのではないかという予想が出てきています。

また、スパイク・ジョーンズ監督の「her」という映画があります。
この映画には、女性の人格をもったAIが登場します。
主人公の男性は、「彼女」と話すことでやすらぎを得て、
やがて「彼女」との間で満ち足りた恋愛関係を築くまでになります。
後半では、その「彼女」が実は他にも多くの男性とコミュニケーションを取っていたことがわかり、しかもそれは人間の浮気とはけた違いの数で....というお話です。
普通の女性なら、いかに恋愛の達人だとしても
同時につき合えるのはせいぜい10人くらいでしょう。
それでもびっくりするような数です。
ところがこの映画に登場するAIの「彼女」は万単位の相手と付き合っているのです。
しかも、その全員に対して、誠実かつセクシャルなコミュニケーションを
同時にできているのです。
むしろ相手の数が増えるほど「ディープランニング」の効率も上がって
ますますコミュニケーションは上手になるのです。
そう考えると、恋愛のようなグレーゾーンの典型に見えるものも
「パターン化」して、アルゴリズムで処理できる可能性は
充分あるのです。
ついでにいうと、恋愛をアルゴリズム的に処理するのは必ずしも
AIの専売特許ではありません。
キャバクラでナンバーワンになる女性は、
容姿の魅力もあるのでしょうが、それ以上にコミュニケーション能力が
優れているとよく言われます。
例えば、顧客である男性のストレスがどこにあり、
何を言ってあげると相手が喜ぶのかといった「パターン」をつかんでいるのです。
実際にこのように対応することで、男性顧客に対して、
魅力的な女性になれるという事は、おそらく
男性が女性に恋愛感情を抱くときの心理というものがかなりパターン化しているということなのでしょう。
このパターンを「恋愛AI」が「ディープランニング」で高速学習すれば
恋愛がグレーゾーンでなくなるのはそう遠いことではないのかもしれません。

これからの世の中では、文系の得意領域とみられていたグレーゾーン
恋愛や経済、政治といった領域も、
理系の技術が生み出したAIによって人間がとって代わられることがあり得る
と見ておいた方がいいでしょう。


💜ではとって代わられる側の文系人間は、どうAIとつき合っていけばいいのでしょうか?💜

AIの技術に関わる部分は、理系の独断場です。
ここには文系の出番はないはずです。

一方、AIをどう使うか、を考えるのは「文系の仕事」です。
たとえば現実の女性より魅力的に振舞える恋愛AIができたとして、
それを現実の男性が心魅かれるような商品にできるのか?
それとも「AIとなんか恋愛できるか、モテない男をバカにしやがって!」
と批判される代物にしてしまうのか?
このマーケティングのさじ加減は、まさに人間の複雑な心理と
向き合わなくてはいけない「グレーゾーン」なのです。

あるいは、AIの判断力が人間を超えたからといって
「人の命や安全、尊厳に関わる領域」での判断を任せてよいのか?
たとえば「医療上の判断」をAIにさせたとしてその責任は誰がとるのか?
こうした問題は、「倫理や道徳」といった「グレーゾーン」の判断にならざる負えません。

「科学技術」の進歩によって、
「グレーゾーン」が白黒のはっきりした世界に変わってしまうことはあり得る
事です。

同時に科学技術をいかに使うか?という場面で新しい「グレーゾーン」が
生れることも多いはずです。
その時に、「複雑で曖昧な現実」に対して、
💜「言葉を武器にして立ち向かっていくこと」💜が、AI時代の文系の役割な
のです。
②曖昧な現実を読み解くのは、文系人間の役割なのです!

社会は、個人が集まってできています。
しかし、社会全体がどう動くか、ということと、
個人の心の動きとは次元の違う問題です。とはいえ、
両者は無関係というわけでもなく、やはり繋がってもいます。
たとえば、日本が対米戦争に突入しようとしていた時、
国民一人一人の心はどうだったでしょう!
当然戦争に反対の人もいました。
戦争が終わるまで反戦を叫び続け、投獄された人もいます。
それでも「もう戦争しかない。やるならやってやる」という気分が
国民の間に広がった時実際に戦争は起きてしまいます。
一人一人の心の中の動きと社会全体の大きな流れは、
はっきりとどのようにつながっているかは、わかりづらいですが
かならずどこかで影響し合っています。

それは、会社の動きと社員一人一人の心理との関係でも同じのはずです。
全体と個人とは別々に動いているけれども常に連動してもいるのです。
実は、このはっきりしない連動のしかたを把握することが、
人文科学や社会科学といった文系の学問の目的なのです。

💜理系的な学問であれば、数値化して、データを採って、
さまざまな観点から実験をして、仮説を検証しながら真理に近づいていきます。💜

しかし、たとえば文系の学問である経済学や政治学などは
公式があって数値として割り出せるものではなく
「なんとなく動いているもの」です。

💜(文系人間の特技)💜
経済学がいくら科学になろうと頑張っても、いまだに
現実の経済を的確に予測することに成功はしていません。
実際の世の中は、
(少しの科学的知見)
(自分の経験)
(なんとなくといった勘)
(読書)      といったものまで動員して、多様な見方を総合した上で
「どうやら妥当な結論はこのあたりだな”という総合的な曖昧な判断で
動いているといえるのです。」
この曖昧な判断で動いていく、曖昧な現実をどうとらえるか?
その点を探ってきたのが文系の学問であり、同時に
文系の人達の得意な点とも言えるのです。


社会学者のマックス・ヴェーバーは、曖昧な現実をとらえるための道具として
「イデアルティプス」というものを考え出しました。
イデアルティプスは、理念型や理想型と訳されます。
簡単に言うと「典型」という事です。

例えば、上司には「カリスマ型上司」と「官僚型上司」というタイプがある
と考えてみましょう。

カリスマ型上司は、人間的魅力によって部下を率いていく上司。
官僚型上司は、会社のルールと権限によって部下を規律によって統率する上司です。この場合、
カリスマ型上司、官僚型上司というのがそれぞれイデアルティプス(典型)です。
一方、現実の上司はというと100%人間的な魅力だけで部下を率いている
上司はいないでしょう。
逆に完全に人格的な要素を排除して会社のルールだけで支配している
上司もいないはずです。
完全なカリスマ型上司、完全な官僚型上司というのは、現実には
存在しません。
イデアルティプスは、あくまでも頭の中で考えたわかりやすい概念なのです。

しかし、このようにイデアルティプスを設定することによって、
ぼやっとした現実が具体的に見えてくることも確かなのです。
実際の自分の上司を「カリスマ型40%、官僚型60%」という形で分析することができるからです。
ヴェーバーの狙いはまさにそこにありました。
イデアルティプスという典型を決め、それとの距離によって
現実の現象を計測しようと考えたわけです。
ヴェーバーが提唱したイデアルティプスは、現在でも私たちの現実把握に活用されています。

例えば、少し前に流行してその後すっかり定着した感のある
「肉食系」「草食系」という分類。
肉食系男子にせよ、草食系男子にせよ、現実には100%の肉食系、草食系で
あったりするわけではありません。
しかし、イデアルディプスがあると、
現実の男性を「肉食が三、草食が七の草食男子だ」
「自分の感覚としては以前は肉食系だったけれど、年をとってきて半分くらいは草食系になってきたね」というように把握することができるわけです。

男性は、チャンスがあれば女性との距離を積極的に縮めようとするのが当たり前」だとこれまでは思われていました。
それがなんとなく常識として共有されていたのです。
しかし、なかには女性と二人きりになっても別に何もしない
したいとも思わない男性もいる。
ではこれを「草食系」と名付けようという事になる。
ここで「草食系」という、
(言葉=概念)が生まれ、
反対概念の「肉食系」も生まれることに....!

言葉が生まれると、便利だから使おうという人が出てきます。
「最近多いよね、草食系男子」
「自分は草食系です」
「こう見えて肉食系ですよ、僕は」という具合に言葉が世の中に広がって行きます。

ある程度概念(言葉)が社会に浸透すると、アンケートをとることも可能に
なります。
草食系、肉食系という概念を手掛かりにして、新しい発見をして
科学的に分析することも可能になるはずです。
これが概念=言葉による現実把握の力というものなのです。


③概念=言葉が社会を変える!

現実とは曖昧なものです。
分子の中に原子があり、原子の中には原子核があってというように
理系的に分析しつくせるものではありません。
人間を細胞まで分解したところで、社会の仕組みがわかるわけではないのです。
観察や実験といった理系的方法が通用しないのが現実です。
経済学や心理学がどうしても科学になりきれない理由は、
こういったところにあると思います。
しかし、「カリスマ的」とか「官僚的」といった概念を使ってある
政治家の人気の秘密を説明することはできます。
「イノベーション」という概念を使って、成功する企業の特徴を導きだすこともできるでしょう。
フロイトの心理学は科学にはなれなかったとしても、
「無意識」という概念を使って人間の心理についてそれなりに説得力のある
思想を生み出したと言えます。
文系的な知にとっては、概念=言葉が現実をとらえるための最大の武器です。
これまで意識されてこれなかった曖昧な現実に名前をつけることによって
現実を可視化するというのが文系の知の力です。

たとえば、アニメやアイドル、コンピュータといった新しい文化に非常に詳しい人達、特に普通の人には理解できないような濃密なコミュニケーションを
行っている人達が「オタク」と名づけられたのは1980年(昭和55)代のこととされています。
オタクという概念が生まれたことによって、
ビジネスの世界ではオタクをターゲットにした商品開発や
オタクを活用したマーケティングが可能になりました。
オタクという切り口で社会問題やコミュニケーション論を語ることも
一般化していきました。
いままで気づかれていなかった現象に名前をつけることによって
見えるようにすること。
これができるのが文系の強みなのです。
理系でももちろん現象に名前をつけることはあります。
ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士が「中間子」の発見を予言したというような例です。
ただ、理系の場合に難しいのは、新しい概念を生み出すにあたって、
「科学的根拠はどこにあるのか」と問われることです。
その点が曖昧だとその概念は、受け入れてもらえません。

一方、文系の考え出す概念は、根拠が曖昧でも許されます。
オタクというものの科学的定義や観察データを提示しなくても
「オタク?ああ、言われてみれば自分の周りにもそんな人がいるなあ」と感じる人がある程度いれば概念として受け入れられます。
ですから、概念=言葉をつくることこそが”文系の知の中心”なのです。

たとえば、哲学者のハイデッカーはたくさんの概念をつくった人です。
人間を「時間的な存在」と規定したのがそうですし
おしゃべりばかりしている人を「頽落(たいらく)している」と呼んだり
死を覚悟して生きる生き方を「本来的な生き方」
そうでない生き方を「非本来的な生き方」と呼ぶなどして、
思索を展開しました。
この世界を「道具連関」として捉えています。

やはり哲学者の「ニーチェ」なら「超人」という概念が有名です。
「人間とは、動物と超人との間に張られた一本の綱である」と
ニーチェは言います。
人間は、最終地点ではなく超人に至る途中の過程だというのです。

ニーチェの言う人間とは、どちらかというと
ひがみっぽく、嫉妬深く、お互いに引きずり下ろし合うような情けない存在です。
そういう人間の在り方を常に乗り越えていく存在をドイツ語で
「ユーバーメンシュ(超人)」と名付けたのです。
ちなみに、ニーチェの思想に刺激を受けて「人と超人」という戯曲を
書いたのがアイルランド人の劇作家、バーナード・ショーです。
ドイツ語のユーバーメンシュはここで「スーパーマン」と英訳されます。
ニーチェの考え出した概念だと難しい感じがしますが
しかし、ひがんだり、嫉妬したり、人の足を引っ張ったりという情けない部分は、「そういえば自分のなかにもあるなあ」と誰もが実感できるものです。
ニーチェはこうした人間の心理を「ルサンチマン」と名付けました。
ルサンチマンを超えて、超人を目指せというのがニーチェの思想です。
こう考えると難解に見えるニーチェの思想も
「たしかにそういうことはある」と感じられます。
現実に対する新しい見方を提示する概念としての力を持っているのです。

「実存主義」には、「被投的投企(ひとうてきとうき)」という言葉があります。
被投的とはこの世に投げ出されているということ。
人間とは、この不条理な世界に投げ出された存在。しかし、
自ら選択し、投企することもできるというのです。
こういわれると、たしかに人は運命に支配されています。
この時代、この国に、こういう親のもとで、こういう顔に生まれて
結局いま自分に至ったというのはどうしようもない。
だからといってすべてが運命で決まっているわけではなく
私たちは、自分で選んで行動することができるのです。
被投的投企という言葉によって、人間とは何かが見えてきます。

もっと古い例では、「論語」も概念の宝庫です!
よほど変わった人でない限り、日本人は、「礼儀が大事だ」と思っています。
これは、「論語」の中で「孔子」が唱えている「礼」という概念に起源をもちます。
孔子がもっとも大切にしたのは、「仁」(誠実さ)という心の中身です。
それだけではなく孔子は、社会の仕組み、決められたしきたりを正しく執り行うという外面的な行動が社会に秩序をもたらすとして重視しました。
これが「礼」です。

確かに礼儀がとても整っている人は、とりあえず人間性も備わっているように見えますし、安心してつき合う事ができます。
心根は、非常によいのに挨拶ができない人と、
心根は微妙だけれど挨拶がきちんとできる人だと、
社会性があると評価されるのは後者です。

形あるしきたりや振る舞いを重視するという孔子の「礼」という概念は、
日本社会に深く根付きました。
その結果、今でも挨拶ができない人は、ダメだと言われますし、
「礼に始まり礼に終わる」というのが人としてのあるべき姿だとされているわけです。
「礼」という漢字一字が日本社会に与えた影響はとても大きいのです!
孔子たちがある行為や段取りを「礼」と名づけて概念化しました。
その影響は、2500年後の現在にも続き、日本文化を形づくっているわけです。
曖昧で複雑な現実を言葉にし、概念を作るという文系力は、
時には、ここまでの力を発揮することがあるのです。
「言葉の力」が、社会全体に影響を与えるのです。



💎文系人間が身につけた方がよいこととは!!!

①文系人間は、「段取り力」を磨くことで「理系の知」を手に入れることが
できます!
②「文系的判断力」が科学力を司(つかさど)っているという現実!
③文系人間が「総合的判断力」を養うためにまず学ぶべきは!
④文系人間が使える”理系的思考法”とは!


①文系人間は、「段取り力」を磨くことで「理系の知」を手に入れることが
できます!

数学も、もとを正せば言語でした。
今でこそ、数学と言えば数式を並べるものというイメージがありますが、
現在のような数学的な表記法を確立したのは、17世紀の思想家デカルトです。
それ以前は、式もかなり言語で表していました。
今ある数式というのは、文章を記号化・簡略化したものなのです。
ですからテストの答案などでも数式だけの解答というのはあまり
評価がよくありません。
東大の先生たちが受験生の入試答案を採点するときによく言うのが、
「もっと数学の答案に日本語をたくさん書いて下さい」という注文です。
「式と式がどうつながっているのかということを日本語でちゃんと説明してほしい」という要望です。
論理の展開を言葉で説明することは、数学においても求められている能力なのです。こうなるとますます文系・理系の両者に決定的な差があるわけではないと思えてくるのではないでしょうか?

文系と理系の間には、普通に思われているほどの決定的な断絶はないのです。
お互いに、どちらも言語活動が根底にあるのです。
そして、言語運用能力についていえば、それは文系の強みでもあるのです。
この部分に磨きをかけることによって、文系の人も
理系の知の果実、理系的な学問の成果を活用できるようになれるはずです。
言語運用能力というのは、言葉を使って理解をして説明する能力ぐらいに
考えて下さい。
たとえば、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」は、
新潮文庫版で上中下巻の大長編小説です。
これを「読んできなさい」と渡されて、次の週の授業で適切な感想を述べられる学生は、言語運用能力が高いといえると思います。
数学において求められる言語運用能力とは問題を把握して、
解くための段取りを理解して、それを言語で説明する能力の事です。

よく算数の問題で「10%の食塩水Aが100g、5%の食塩水Bが200gある。
両者を合わせた食塩水の濃度は何%か」という問題があります。
いわゆる文章題です。
こうした文章題を苦手とする子供は、計算が苦手なのではありません。
それよりも言語の運用能力の問題が大きいのです。
事態を把握し、それを言語化できないのです。
つまり、算数ではなく国語が苦手という事になります。
文章題というのは、文章の意味を理解して、解く段取りを説明できない人には、解けません。
具体的に言うとまずは、「今求められていることは何か」を理解できなくては
なりません。

この問題では、「濃度は何%」と問われているのですから、
求められている答えは濃度です。
これは、当たり前の国語力があれば判断できます。
次に「濃度を求めるにはどうしたらいいか」を判断しなくてはなりません。
濃度とは、ここでは、「食塩を食塩水全体で割ったもの」です。
これは濃度の定義です。
つまり、定義を知らなければ濃度の求め方は判断できません。
言葉の定義を知っているかどうかというのも国語力の問題です。
いよいよ食塩水の濃度を求めるとなると
食塩の量と食塩水の量がわからなくてはいけません。

食塩の量については、「食塩を食塩水全体で割ったものを濃度という」という
定義から逆に食塩水全体の量に濃度をかければ導けるとわかります。
食塩水の量は、問題文に書いてあります。
こうしてAとB、それぞれの食塩は、すぐに求められます。
あとは、Aの食塩とBの食塩を足したものを
Aの食塩水とBの食塩水を足したもので割れば、食塩水の濃度は求められます。これがこの問題を解くための一連の段取りになります。

このように文章から事態を理解して、段取りを説明する能力が言語運用能力で
この段取りを説明することができないと
実際に解を導く作業は行えないはずです。

もちろん答えを出すためには、計算能力も必要ですが
その手前で求められるのは、計算能力という算数の力ではなく
国語の力です。
設問の文章から何が問われているかを把握して、
言葉の定義を正しく理解して、
段取りを説明するという言語運用能力なのです。

この問題は、実は、大学受験レベルの数学までは、同じパターンが
通用するのです。
ですから、練習をしておくといいということになります。
このタイプの問題では、何が問われているのか、
どのような段取りで解くのかを言葉で説明できるようにしておく。
解き方の段取りを何度も言葉で説明する練習をしておく。
すると、実際の問題を見た瞬間に
「これはあのタイプの問題だ。こういう段取りで解ける」と
判断できるようになるのです。
あとは、その問題の数値を当てはめれば答えを出せます。
あるいは「この問題の解き方の段取りはわからないから捨てよう」という
判断もできるわけです。
この文系的な対策でたいていの入試では合格点を取れます。
こういった段取りを理解して、説明できる力は、
社会に出てからの仕事でも活用できるはずです。

文系で技術自体に精通していなくても、
解決しなければならない課題を把握して、
どのような段取りでその解を導くのかを整理して示せば、
実際の技術的な場面については、「あとはよろしく」と専門の技術者に
任せてしまえばいいのです。
文系人間にとって、この段取り力を磨き上げることによって
理系の人とも相乗効果をもった関係を築くことが可能になって行くはずです。


②「文系的判断力」が科学力を司(つかさど)っているという現実!

E=mc² というアインシュタインの有名な式があります。
cとは、光の速度の事です。
エネルギーは、質量×光の速度の二乗という意味です。
光の速度は、乗数ですから、この数式は要するに
エネルギーは、質量であるという事を示した画期的なものでした。
アインシュタインのこの理論は、太陽がなぜあれほどのエネルギーを
生み続けられるのかを説明してくれます。
また、原子爆弾の発想にもつながっています。
科学者、技術者たちが集まって、本当に原子爆弾を作ってしまいました。
ここまでが理系の仕事です。

しかし、「それをどう使うのか?」あるいは、
「そもそも使うべきなのか?使うべきでないのか?」を判断するのは、
科学や技術とはまったく別の問題なのです。

原子爆弾を作った理系の人達は、
作れと言われたから、作っただけのはずです。
理論的に可能なものなら、実際にできるかどうか試したいと思うのも
研究者なら当然かもしれません。
あるいは、ナチスや日本が脅威だから、何とかしなければいけないというくらいのことは考えていたかもしれません。
しかし、非戦闘員を大量に殺傷する兵器を実際に使っていいのか
これまでにない破壊力を持つ兵器が生れて、
それが使用されることで人類にどんな結果をもたらすことになるのかを
判断することは、理系の科学者や技術者の本業ではありません。
それを判断するためには、しっかりとした歴史観をもち
総合的な判断を下す能力が必要です。

このように、作る能力とそれを使うかどうかを判断する能力は、
別問題なのです。
いくら作る能力が、つまり技術があっても
文系的な総合的な判断力が、その技術力、科学力の運用を左右している場合は
多くあります。

身近な例を挙げると
アサヒビールの「スーパードライ」が発売されたのは、1987年です。
キリンビールが圧倒的トップだったビール市場は、
スーパードライの大ヒットによって大きく様変わりしました。
開発にあたったアサヒビールの技術者たちは、
「とにかく切れ味のいいビールをつくれ」というミッションを与えられて、
最初は反発したそうです。
切れ味のよさを追求すると、コクや苦みといった味わいが希薄になります。
これではビール本来のよさがなくなってしまうと考えたのです。
しかし、「切れ味のいいビールをつくれ」というミッションは、
技術者たちのビールに対してこれまで抱いていた
固定観念を覆し(くつがえし)、
大ヒット商品「スーパードライ」の開発をもたらしたのです。
この大ヒットを契機にして、アサヒビールは10年を待たずに
市場シェアナンバーワンになりました。
当時の社長や技術開発部長の
「日本の消費者がビールに求めているのは、ビールらしい味わいよりも
スッキリとした爽快感だ」という判断が的を射てたのです。

社会の動向や人々の嗜好の変化などを幅広く検討する視点を持ち、
「今時代は新しい味を求めている」と感知する能力が
「とにかく切れ味のいいビールを作れ」という方針を生み出しました。
そして、それを実現させたのが科学技術です。
そもそもの「切れ味のいいビールをつくれ」というミッションを生む際には、
実は、科学技術は必要ないのです。
文系人間の持っている総合的な判断力で、
時代が求めているものを読み、その判断に基づいて新製品を構想して、
「なんとか実現しろ」と理系の技術者たちにミッションを与える。
このパターンは、スーパードライ以外にも時代を変えた大ヒット商品には
よく見られます。
たとえば、ソニーのウォークマンは、
「ラジカセのような大きなものを持たずに音楽を持ち歩くことはできないか」という会長の発想とそうした音楽の楽しみ方は必ず現代(1970年代末)の
若者に受け入れられるという会長の判断を
優れたソニーの技術者たちが現実化したものです。
会長は、電気工学を専攻した理系ですが、
いち音楽愛好家としての「こんなものがあったらいいな」(どらえもん!)という消費者ニーズを読む力は、技術的な知識だけではなく
さまざまな視点を背景とした総合的判断力といえると思います。
極限的に小さく、再生機能しかないというシンプルさで
ウォークマンは世界を席巻し、音楽の楽しみ方を根底から変えました。

そのウォークマンに刺激を受けたのが、若き日のスティーブ・ジョブズです。
80年代、すでにジョブズは、シンプルで小さな筐体(きょうたい)のなかに
カセットテープではなく、今でいうところのアプリのようなプログラムを入れて、さまざまな機能を入れ替えて使える道具を構想し、イラストを描いていたといいます。
このジョブズの未来観を技術者たちが現実化したものが、
iPoneでありiPadであったというわけです。


③文系人間が「総合的な判断力」を養うためには、まず学ぶべきは!

「相場」=(物事の常識)
「勘」=(これはいける!)(これはダメだ!)と感じることができるもの
を学ぶことです。

まずは、視野をひろく広くものを知っておくことが大事です。
たとえば、経済のことがまったくわからなければ、
AI技術が市場にどんな影響をあたえるのか
AI技術をどう新製品に生かせるかはわからないはずです。
逆にたとえ経済通だとしても、
AI技術について新聞の解説記事程度の知識もなければ
それをどのようにビジネスに生かしていくか判断ができません。
さらに言えば、これまでの市場の流れもわかっていなければ、
「今、この新企画に挑戦すれば、必ずうまくいくだろう」
「最近の市場の流れを見るといまからやってもうまくいかないだろう」といった判断もできません。
このように総合的な判断力を磨くためには、
幅広いいろんな知識が必要なのです。
しかしだからと言ってむやみに知識を集めればいいというものでもありません。

判断力を養うために学ぶべきポイントは、「相場観」と「勘」の二つです。
「相場」とは、「物事の常識」という事です。

単純な例でいうと、
何かの取引を行う際に、その品物の一般的な価格や費用の相場
当たり前の商習慣などを知らなければ適切な判断を下せない場合が出てきます。
しかし、さまざまな分野における「相場」を知っておけば、
判断を誤る可能性は、減っていくはずです。
データと数式を駆使する経済学でさえも、現実の経済を予測することに
ほとんど成功していません。

現実は、科学による分析が通用しない現象の方がはるかに多いのです。
その時に役に立つのが「勘」です。

科学を駆使しても答えの見えない難問に直面しながらも
なんとか的確な判断をして成功にたどり着く人はいるものです。
科学の通用しない場面、(その代表が、経済や政治でしょう!)
において、何となく「これはいける」「これはダメだ」と感じとることが
できる「勘」を持つ人は優れた指導者に多くいます。

総理大臣としてサンフランシスコ講和条約に調印し、
戦後日本の礎を築いた「吉田茂」は、「回想十年」(中公文庫)の中で
「勘」の重要性を語っています。

政治家という仕事においては、「勘」が決定的に重要で
特に「伊藤博文」などはこの点が優れていたと述べています。
「ここはこれ以上戦争を広げないほうがいい」
「この交渉は、ここで手を打とう」といった判断が適切にできたといいます。

”そしてそれは、勤勉にやってきた人間に与えられる贈り物”なのだとも述べています。

伊藤博文は、幕末から明治にかけて修羅場をくぐり抜けてきた政治家です。
吉田松陰の松下村塾で学び、長州から出てきて、斬るか斬られるかという
政治闘争を乗り越えて、明治維新の立役者の一人となりました。

そのような修羅場を潜り抜けてきた経験と、
必死になって欧米の知識を幅広く吸収してきたことが
伊藤博文の優れた「勘」を育んだのでしょう!

伊藤は、日清・日露の戦争に対処し、その一方では、
大日本帝国憲法や帝国議会を作るといった近代国家建設のキモとも
言うべき大仕事を成し遂げています。
近代日本という国家を作るにあたって
伊藤博文の働きはとても大きいもので、彼も今でいえば文系の人間でしょう。

少し時代を下ると、
大正から昭和にかけて蔵相や首相を歴任し
日本の金融・経済危機を幾度も救った「高橋是清」なども
優れた「勘」をもった人物のいい例でしょう。
金融緩和をすべきか、すべきでないかといった判断は、総合的なものです。
彼には、少年時代アメリカに渡り、奴隷のような生活をしながら学んだ
経験がありました。
銀行で学び、銀山で失敗の経験もあります。
実地で学んだ知識と苦労の中で養われた「勘」が、
彼を名宰相にしたのだといえると思います。


④文系人間が使える”理系的思考法”とは!

文系の人も以前は、学校で算数、数学を習ってきたはずです。
昔習った杵柄(きねづか)で、かつての知識を引っ張り出してくることで
理系的な思考法を容易に駆使することができます。

まず簡単なもので言えば、座標軸の考え方です。
複雑な問題で、思考が混乱して、判断がうまくつかないなどというときは、
座標軸を作って思考を整理するのです。
原点がゼロで、x軸、y軸を自分で立ててみます。

たとえば、「バイトに対するやりがい」というものを横軸にとり
左から右にいくにしたがってやりがいがあるとします。
今度は、「時給の金額」で縦軸を立てます。
上にいくほど時給が高く、下にいくほど時給は安くなります。
こうやってx軸、y軸が交わることで、
平面が4つの部分に分けられますが、これを四象限(ししょうげん)と
言います。
やりがいがあって高級なバイトは、右上のほうにいき、逆に
やりがいもなく時給が安いバイトは左下のほうに行きます。
どんなバイトであっても必ずこの四象限のどこかに納まりますので、
整理して比較検討もしやすくなります。

この時大事なのが、自分で軸を立てるというところです。
この思考法が身につくと、たとえばある商品について、
A社、B社、C社の立ち位置を一目瞭然にすることもできます。
全体を俯瞰(ふかん)し、一瞬で見えるようにするのが座標軸の思考法です。
座標軸というと難しく思いがちですが、この過程では計算など必要ありません。文系でも大いに活用ができ、理系の思考のいい所を拝借できる方法だと
思います。

もう一つ、理系的な知識の活用で、文系の人に進めたいのは、
「写像(関数)」の考え方です。
関数としてy=f(x)という式を習ったことがあると思いますが
これはxが決まればf(function)の変換をへてyが決まるという
式です。
これ、画期的だと思われませんか?
「f」という変換のほうに目をつけるというところにです。
「f」という変換に着目してみると、
多くの新しい発見、アイデアが生まれてくるのです。

例えば、浮世絵です。
私たちが作品を見て、浮世絵だと認識するのは、
作品を浮世絵にしている「f」の変換を通しているからです。
それは、版画に色をつける独自の様式や線を大事にする描き方などでしょう!
彫師(ほりし)や擦師(さつし)も含めたチームで「f」を共有して製作するからそれは浮世絵になるのです。
また、それらの西洋にない様式は、ゴッホたちにも強い影響を与えたのです。

ゴッホの作品においても同じことが言えます。
ゴッホという「f」を通すと、
星を描こうが、木を描こうが、麦畑や人物、ひまわりを描いても
すべてゴッホ流になります。
つまりはゴッホを変換とみなすことができるのです。
ゴッホの描く絵は、すべて「ゴッホ変換」をへているというものの見方です。

そのような見方で世の中を見ると、たとえば、
スターバックスが多数出店していますが、
「スタバ的なもの」とは何だろう?スタバ流にする「f」とはなんぞや?と
考える事もできて、そこにビジネスのアイデアがあるのかもしれません!

消費者参加型という事を「f」としてとらえると
誰かが参加して完成するものとして、カラオケなどがまず思い浮かびます。
カラオケは、歌の部分を抜いて、消費者が歌う事で成り立つものです。
このような「参加する喜び」(変換「f」)(言葉)で成り立っている
商品やサービスなどは他にないか考えればいくつも出てくるでしょう。

※世の中で成功しているものを
「子供化」しているもの
「高齢者向け化」しているもの
「ひと手間省く化」しているもの
「リバーシブル化」しているもの  といった具合に
「〇〇化」という変換「f」に着目して見ていくと
新しい発想がどんどん生まれてくるのです。※

関数は、典型的な理数系のものと思いがちですが
このような考え方で世の中を見るという事は文系の人にもできることなのです。
こういった考え方の部分は、せっかく数学を習ってきたのですから
文系の人も活用するべきと思っています。
















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