「モラトリアム人間とは⁈」💜😊(❁´◡`❁) 

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今私の頭の中に未来予想図が浮かんでいます。
それは、至る所クリーンな街が出現して子育て中心の生活を楽しむイメージです。そうなんです、モラトリアム人間とは、子育て中心の生活を楽しむ人間の事です。また、目標が定まらないのに何事かのために努力するというのが
基本スタイルです。
モラトリアムというのは、ある特定の生き方を決定しないという事です。
ある特定の生き方とは、普通、定職を持つことです。
定職を持たない期間をモラトリアムというのです。
あるいは、仕事を持っていてもその仕事を中心に自分の生活を回転させる必要のないフリーな状態の事を指します。
仕事は、インターネット活用で片手間にして子育て中心の生活を楽しむ手段になっている状態です。ですから、モラトリアム人間とは、積極的に言えば仕事も勉強も楽しんでやれる人の事です。
無の心(清らかな心)自分に正直な心の状態の事です。
ただブラブラしている人の事ではありません。
同じ事をするにしても、楽しんでするにこしたことはありません。
妙なもので「労働が人間の本質である」などと気張っている時代、
仕事は「男の生きがい」などとほざいてる時代は、浮き浮きと楽しんで仕事をこなしたりしていると、怪訝な顔をされたり、不真面目であると思われたりするものです。私の若い頃の昭和は、
「あなたお帰りなさい!お風呂!ごはん!それとも、わ・た・し」というフィーリングの時代でもありました。
少しは子育て中心の生活の感覚もありましたが、やはりお父さんが本当の意味での子育て参加には程遠かった感があります。
神聖な職場を演芸場か何かの様に思っている場違いな奴と非難されもするのです。まさに、私が、「出る杭は打たれる」というフィーリングにあったような気がします。私は出る杭だった!”ナンチャッテ”!
モラトリアム人間とは、子育て中心の生活を楽しむ未来の人間の原型で今その入り口に入っていると実感しています。
学生時代勉強が苦痛でたまらなかった人も、卒業して勉強から解放されると懐かしく思い起こすだけでなく新たに学び直して見ようかという気持ちになるものです。人間は、何につけ義務あるいは、強制されると楽しめなくなるという動物です。仕事という名前が付くと楽しさが半減すると思って間違いありません。プロ野球(テニスプロ)の選手は、もちろん能力がなければなれません。
しかし、始めは好きだったから、それをすると楽しかったからという人がほとんどのはずです。ところが仕事となると、好きだ楽しいという事は第二次的な事に変わっていかざるをえません。
野球・テニスを楽しんでいるうちはプロではないと言われるようになります。
このことは、全ての仕事に共通したことでもあります。
しかし、そんなことは本末転倒と私は思うようになりました⁈
仕事は楽しいのが一番です!
私も受験生を体験していますが「偏差値・点取り制度に毒されている」と言って批判する人がいますが同じことです。
仕事が神聖な義務・天職という地位から退任しなくてはなりません。
それから、情報化社会の特徴として誰もが自在に考え自在に書くことができる時代という事です。コンピュータの出現、進化、普及なくして考えられないものです。その先兵がワープロです。そして、筆記具となにか本質的に違う思考機械がワープロです。ワープロで書くとすらすら文章が出来上がります。
ワープロは、書記機械でなく思考機械であることです。
考えそして書いて活字にするという一連の思考工程を同時化しているからです。
それから、大学は、専門の高度な知識や技術を研究・教育する機関と位置付けられてきました。しかし、この規定では不足していると思っています。
大学は、かつての様に一国の指定的な仕事をする人間を要請する機関ではなく、大部分の人が進む大衆大学になったからです。
大衆大学の基本目標は、高度産業社会に必要な共通の知識や技術の総体を、
つまり、「教養」を研究、教育することに目標を置かなくてはならないという事です。もちろん、専門を教えることにこしたことはありませんが、「教養」を抜いてしまった専門は、幅狭く技術革新の遂行に対応できない「実務」と「技能」教育に終始しかねないのです。
学生一人一人の立場から言えば、自分に潜在的に備えている能力を十分に生かせる仕事や生活スタイルを発見する基本的な場が大学なのです。
高校までは、学校側が一方的に与えるメニューを必死の思いで消化していくのがやっとという状態です。そんな中で、自分の仕事や生活の基本を発見するのは能力的にも時間的にも無理があります。
もちろん人間の能力は極めて柔軟です。
どんな仕事にも生活にもそれなりに対応できます。
しかし、これが自分の仕事に違いない、生活スタイルに違いないという事をある程度確認できたのとそうでないとでは随分違ってきます。
大学時代に様々な領域を旅し、仮想体験を積むことがとても重要なことです。
広く浅く学ぶことです。
もちろん現代社会では、広さも浅さも従来とは問題なく濃度が増しています。
”ですから、大学時代だけではなく、いったん就職してからもあるいは就職を伸ばしてでも自分の生活スタイルを実現してくれる仕事を見つけ出すことが重要な事なのです。全てなのです!”
という事は、モラトリアムの時間が長くなるという事です。
故に、大学は、専門を身につけるためにではなく専門を発見するもしくは
基本的な生活スタイルを見出すための期間でなければならない理由は、増こそすれ減りはしないという事です。
労働時間が労働日が短縮されていきます。
それにもまして一生のうち労働に就かない期間がますます拡大してしていきます。普通の人で22歳まで労働しません。60歳から80歳まで労働しません。
現在は、私も高齢者ですが、国は仕事をさせる方向で対策され実行されていますが、役に立つ立たないという事が念頭にないように感じている次第です。
労働している期間、仕事を生活の基本スタイルにしない生き方が必要と感じています。インターネットの効果で今までになかったフィーリングを感じています。仕事人間であると同時にモラトリアム人間でもある生活。
モラトリアム人間の方に比重がかかってきているそんな生き方が反面遂行中と感じています。特にコロナ禍で!
まして、まだ仕事をしている人たち、もう仕事をする必要のない人達にとって仕事を基本にしていた時期とは違う生き方がなければまるで「空」と同じです。しかし、若い労働する以前の人たちには、将来という漠然とはしていますが目標があるはずです。そのために勉強、労働があります。
しかし、労働を終えた人たちの生活はとても長いです。終わりはありません。
あるとしては、死です。老後の生活をどのように送るかを決めるのは、老人になってからでは遅いのです。
何故なら、長い準備期間、助走期間がなければ老後の生活を充実して送ることはできないからです。
自分がしたいと思ってきたことを楽しむという事に重点を置きます。
しかし、できません!
それまでの自分の生活スタイルの中にインプットされておらず、ただ想いの中だけにあったものをやろうとしても、心も体も動いてくれないからです。
モラトリアムとは、ある特定の時間の人間の生き方ではなく人生全般のとりわけ労働から解放された後の人間の生き方にとって決定的な意味を持っています。要するに、モラトリアム人間でなければ、老後を楽しく生きることはできないようになっているのが人間と気づいた次第です。
また、固定された特定の事に基本軸を置いて生活しないスタイルの事です。
ある一つの事、とりわけ定職を持つ前に様々なことを経験し、人間の幅を広げるような生き方の事です。
定職を終えた後も様々な生き方を実現できる可能性を約束できるような生き方です。
人間の生き方は、柔軟なものであるという事に気づくためにも身をもって経験することが必要です。
では、経験とはどういう事でしょうか?
昨日は競馬、今日はパチンコ、明日はボーリング、あさってはヨット等ということでしょうか?それもいいでしょう!
しかし、モラトリアムとはもっと攻撃です。
例えば政治。
政治家になるために、様々な政治活動を経験します。それは、良いことです。
しかし、それとともにいやそれにもまして、政治についてじっくり考えることです。現在の政治について、あるべき政治の姿、過去の政治について、個々の党派や政治家についても可能な限り「考察」を進めることです。
政治についてよく考えるということは、政治活動の為ではなくモラトリアムの基本だからです。よく考えるとは、思慮深くなるという事です。
大学生活でなにが必要かというと「暇」です。
立ち止まって様々なことを「考察」する時間です。
ですから、大学時代、授業に出なくても勉強しなくても無駄な時間を費やすだけでもいいのです。
無駄ができない、頭をリラックスできないで一生を終えるのはつまらないことです。
モラトリアムとは、可能的ないくつもの生を同時に生きるという事です。
したがって、その生の目標と手段の大部分は「思念」の中にあります。
いくつかの生を同時並行に生きることは、現実にはとても難しいことです。
でも、「思考」の中で、可能な限り破天荒に生きて見せることはできます。
それを仕事を持つ前も持ってからも、やめてからもとにかく続けることです。
「思考」の中で精いっぱいの生を生きて見せることによって、現実の世界でも思慮深く活力をもって生きることができます。
そんなことが可能になった時代に私たちはいるという事を身をもって示しているつもりになっている私です。




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