気で語る人間関係作りの話

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朝晩、涼しさをこえて、京都もだんだん寒くなってまいりました。先日、蹴上に行ったら街路樹の紅葉が少し色づいていましたので、山の方はもっと寒くなっているのかもしれません。寒暖差が大きいので京都にお出かけの際は、調節が効く服装をお勧めします。

体調の方は、まだまだですね〜。傷口が服で触ると痛いのが不快です。でも手術後、手足や眼球がまえよりずっと動くようになったのがありがたい。今週、再度メガネを作り直しに行きます。

さて、今日は、ですが。

色々な人間模様、人間と出会ってきましたが、今回はこれまでの鑑定やコンサルティングのなかで感じてきたことを少しだけ語りたいと思います。
というのも、日本語の中には、「気」にまつわる言葉がたくさんあります。

それは、明治よりも前の時代から「気」という概念が重視されてきたことを意味します。しかし、今の人は、気を意識して生活していません。
 断片的に伝統世界の中に残っている考えですが、今の多くの現代人はその全体像がわかりません。私が、いつも気、気、って言ってるこの考え方は、明治政府によって意図的に壊されてきたからなんです。

そんな世界は迷信だよ、時代遅れだよ、と物質至上主義に人々を引っ張っていき、労働力として権力層の目的のために、フルに働かせるために国民を洗脳教育したい明治政府にとっては、気の概念は、まったく邪魔でした。

気というのは、その人の肉体と被る形で存在する情報磁場・オーラと考えて良いと思います。そして、この情報磁場には、そのひとが生きてきた全ての記録が残されています。今世だけではなくて、その前の人生までも。
輪廻転生してきた記録が全て残っている。
こう、古代の人間は考えてきました。

よく、悪いことするとおてんとさまがみているよ、とか地獄行きだよとか言われてきたのは、なにかが罰するわけではなくて、自分が意識の上でどんなに否定して不都合をなかったことにしようとしても、それがおこったと同時にすべての記録が情報磁場に残るので、その情報に従って次の人生が設計されていく、という意味も込められていたんです。

そして、古代インドの価値観ではそれを輪廻転生、因果応報と名付けていました。仏教が発生するよりも何千年もずっと前から、そういう価値観があったんです。ある意味で国の範囲を超えて、ユーラシア大陸の土着の価値観というか、そんなものがあったんですね。

そして、その気というのは、良い状態の時は、光っています。さまざまな色で光り輝く炎に見えます。しかし、その人が低い意識で生きれば、低い波長を持つ気になり、その光の明度は濁ってきます。
あまりに低い波長の気を取り込んだ場合は、それが黒い胡麻粒のような種の形に凝縮されるようになり、カルマとなります。

古代インドにすんでいた人たちはそのカルマによって、人生の質が決まると考えて、祭祀に儀礼によって神にとりなしてもらい、なんとかしてもらおうとしてきました。

そして、日本の古来からの価値観のなかにも、古代ユーラシアからのそういった考え方が残っている、という証拠があります。
それは、「すみません」という言葉の中にあります。

このすみません、というのは漢字で書くと「あい澄みません」です。あいは、『相』と書きます。 これは特に改まった言い方をさします。 辞書に依ると、動詞に冠して語勢を添え、語調を整え、改まった意を添えるためだそうですが、一方、すみませんは、なんですまない、なのかというと、口伝で残る江戸文化では、澄みません=濁っていた、という意味からきているのです。

つまり、私の意識(気)が濁っていました。と認める意味で「すみません」を使っていたのです。
つまり、気が濁れば、その濁ったフィルターによって世の中を眺めますから、正しくものごとが見れなくなり、正しく物事をうけとれなくなり、いわゆる仏教で言う悪い考えや邪念などが湧き出してきます。108あるという煩悩が発動し、暴走していくのです。

古来の日本人は、人として生まれた以上、煩悩と縁を切ることができませんけども、この煩悩フィルターにできるだけ影響されないように八正道で生きましょう、とそうした仏道的な考えの影響を受けて、自律して生きていたのです。
 集落にひとつは戸籍登録係としての寺が日本中にありましたから、僧侶たちが日本中の集落へ、この精神世界でうごく社会を指導していきました。
 ですから、すみません、は、仏教的視点で言えば、私、ただいま、うっかり煩悩を発動させてしまいました。それを自分で認めます。という意思が含まれた言葉になります。相手に謝る言葉ではなくて、自分の非を認める言葉。


そしてヒンズー密教世界では、煩悩をそのまま放置しつづけていくと、濃いひとはカルマになると考えました。ですから、ヒンズー密教の方はそのカルマを浄化して徳を積んで生きることをこの世の使命と考えて宗教生活を送ります。
 その生活の中で、ボランティアなどがあり、自分のオーラをきれいにするために、聖者など、徳の高い存在や、高い波動を持つもの(神 dieties)によって、一族に遺伝でつながるほどのカルマを少しでも薄くしておこうとするのです。よく虐待が連鎖するって言いますよね。生き方に偏りがあるとか。これは言い方をかえると家系につながるカルマと言えると思います。

 これらのことを踏まえて、実践的な実学算命学コンサルティングのプロファイリングで見えてくるのは、常に、人間関係があれるときというのは、人間関係のグループの中に、この煩悩が、通常よりも強烈に強い人が存在する時なんですね。
この煩悩が強烈な人というのは、強烈なカルマをもったひと、と言い換えることができます。カルマによって、目隠しをされたまま、違う認識で、善意の行為を、意図とはちがう受け取り方をして、世の中を誤解し、自分を守るため周囲を攻撃し、策略を練り、まちがった選択をし続け、物事の発展を止めていきますので、そのひとを取り巻く時空間に大混乱が起こります。

 日本人は古くからそれを知っていました。ですから、禅などは代表的ですが、仏教では、菩薩、修行者は自分の煩悩を内観によって、見つめ直し、捨てていくといったことをやってきました。
 でもそれは、なかなか高度なことです。僧侶になるにも、そうした難しい概念や教養があり、文字が読める高い地位にいた層にはできましたが、大多数の庶民には高尚すぎるものでした。

 だから日本人は仏教を国のベースに据えると聖徳太子がきめた後も、日本では同時に土着の神道も上手に組み合わせて活用したのです。
 神道や山岳世界にあった呪術は自然界にある高い気を利用する方法論をたくさん持っていました。渡来人がもたらした知識もたくさん含まれていました。

その高い気で、人々の気が濁った時、その濁りをとる、という選択が、どんな身分のなかにも生まれたのです。
修験者は山に入って、自然界の高い気を帯びて、自分の気を洗って、世俗に帰ってくるために、たびたび山に入ったのです。

 職人も、官僚も、同じく、江戸時代にはそうした濁りのある気で、不調和な世界を自分が作り出して行かないように、人生の大事な時、自分のこころにふとなにかがおこるとき、神社仏閣に参拝してきました。個人宅でも、自分のうちにある神棚を通して、日々、祈り、清めようとしました。

清めたまえ、はらいたまえ、というのは、なにか外側の悪霊をはらっているのではなくて、日々の生活の中で自然と埃を被ったようになってしまっている自分のオーラを、高い波動で綺麗に拭いてもらっているようなものなんですね。

そして、ただ、儀礼を何も考えないでやっても意味がありません。オーラというのは、自分の意図に従って動きますので、このことをわかってやっているのか、知らないで形だけ真似してわかったような気になっているだけなのか、忠実に結果に反映することになります。

 目に見えない自分よりも尊い存在に対する畏敬の念を持っていないとだめなんだよ、と諭した時、子供を虐待している女性がこう言いました。
私は、いつも毎年正月には神社に行くし、お賽銭だってあげている。って。
神様に毎年お願いしている。信心の心はある。って言ったんです。
(生粋の日本人ではなく、その方、ハーフの方でした。)

なにがちがうかわかりますか。これじゃ、レジャーなんですよ。w
こころのなかに、高い気と共振できる要素がその人の心になかったら、聖なる気をわずかにでも有しなかったら、神社に行って形だけ真似したところで、それほどご利益なんてないんですよ。w
「蜘蛛の糸」に象徴されるように、どんな悪人にもある一部の聖なる部分。そこに、仏から共振するエネルギーが一筋の光として入ってきた時、その瞬間、その人の意識のくもりが払われることがある。現実の地獄から救い出されることがある。
 神道や寺(まぁ神仏習合なんでどっちでもいいんですけど)、そういうスピリチュアルな意味があったんですね。そっちょくにいって、形には意味がない。何を意図するか、なんです。


 密教を勉強するとよくわかるんですけど、弘法大師が重視していたのは、この人の心、意思、意図、これが正しくあるかどうかによって、わたしたちのために用意されているすべての要素がはじめて働き出すのだ、という認識です。

これは量子力学の考えにも近いですね。観察者がいないとうごかず、観察することによって動いた、というあの実験です。
私たちの意思が、世の中の要素を動かしている。という実験がどういう意味をもつのかというと、実際に、オカルトや想像でなく、古代から語り継がれていたように私たちのこころがこの世の中を動かしているのだ、ということです。

私は、このことをインドの聖者からなんども繰り返し言われました。
私たちは創造者なのだ、と。

さて、ここからひとのこころと人間関係について話したいと思います。
算命学の五行で考えますと、経営を表すのは、禄存星や司禄星ではありません。貫索星や石門星になります。
つまり、禄存星も事業にまつわりますが、それは本質的な違いがあります。自分自身の得や信用を集めるという組織ならば禄存星に合致してきますが、貫索星・石門星はそれができません。かれらには意識される仲間が常にあります。 仲間と繁栄し、こころが安定した人生を生きていきたい。そこから、経営の本質とは、昔からいわれていたように、「経世済民」であるということがわかってきます。

つまり、昔の商人が考えてきた経営とは、個人の欲得のお金集めではありません。自分が流通の間に入ることで、民の生活を潤し、物を行き渡らせ、楽にしてあげること、そして社会が欲していたサービスをつくりだし、世の中全体のために使いやすくし、自分と自分の社員が環境に対応しながら永続的に運営し続ける才能を保つこと、が貫索星と石門星の経営意識世界なんです。
これは今の世の中の、金集め競争が目的である資本主義のルールとはまるでちがうので、この星があっても経営がうまくいってない人は多いでしょう。

 しかし、歴史的に見ると、今の京都の経済の中心地・四条あたりでは、昔年末に、京都の商人たちがその年、自分たちが儲けすぎた分を庶民に還元するため、投げ売りのように大バザールをやっていたという記録が残っています。
 商人たちにとっては、その行動がカルマを被らなくてよくなる、浄財的な位置付けにもなっていましたし、それによって貧しい人たちがその年の生活必需品を賄い救われたんですね。あの時期をまって購入しよう、と。
お金を稼ぐことが生きる意味ではなかった時代、私たちはこのような商売をしていたのですよ!

そして、松下幸之助のような方は、そういう価値観を踏襲していましたね。
松下さんにとって、お金はある意味で世の中のためにサービスを普及するための潤滑油として必要不可欠な物であり、永続的な活動をするためのものだったのです。
だから、あまりがでれば必要なところにお金を回し、この国の未来のために、政治家を育てたり、文化財を保護し、篤志家的なことをたくさんやってきました。
 自分の得・自分の欲を満たすための収益集めであれば、こういう生き方はしません。いまのIT起業家は、自分の趣味のロケットにお金を注ぎ込んだり、豪邸を買ったり、投資してもっと大きくなるためにお金を動かします。
でも、本来の日本人は、お金が人間の生きる意味ではなかったので、社会を繁栄させるための役割として、企業活動(商売活動)を考えてきました。
だから、今とは全然、消費の判断が違っていたんですね。そして、「全体の繁栄のために私はこの商品を、サービスを、人々の心安らかな人生に貢献させたい」と願う経営者のこころに共振して、周りが動かされました。
 その純真なエネルギーに、周囲の人たち、お客さん、社員、協力者が、情熱を持って企業を動かしてきたんです。

 ですから、こういう前提を踏まえて世の中を眺めてみますと、こういうことも言えます。あなたが世の通りに従って、自分のビジネスを発展させたいのならば、絶対的に不可欠なのは、「世の中のため」「応援してくれる人々の存在」です。
 どれだけ優秀でも、優れた商品でも、それを支持してくれ、手助けしてくれる人たちの存在がなければ、それが大きく発展することはないのです。

あなたがなにか商売をしたい人だと考えた時、まず一番にかんがえなくてはならない重要なポイントです。
それは、あなたはどんなひとと付き合っていますか?ということなんです。

口先だけで行動しない人なんて、いくらでもいます。頭が良くても一向に動かない人。言い訳して回り道して、結局、有耶無耶になる人。
 口では、相手に優しいことを言いながら、こちらをなんともおもってない人たちはたくさんいます。

「人生がうまく行かない、と思っている人は、これらのひとたちを友人としてくっつけているから、あなた方は一向に発展しないのですよ!」ということなんですね。逆に自分がどんなに周りに誠意をつくし、貢献しても、付き合う周りの人間の意識が低次元ならば、決して発展繁栄することはない。
あたまがいいか、ではなく、どんなこころのひとであるか、なんです。

 そばに手助けしてくれようとしている友人はいるのに、そのひとを蔑ろにしている自分の煩悩に気がつかないひとは、実際、本当に多いです。
 私もプライベートでは、子供の関係性から算命学とは全く関係のない普通の人と付き合わなくてはいけない場面はよくあります。
そのひとたちは、自分の人生の嘆きや悩み、文句など、よく話しています。

でも、私がその人の本質を踏まえて、方法論を伝えた時、彼らはムッとしてこう思うんです。教えたがり!上から目線!タメ先。(同世代の先生)
実際、そう言われた時は、びっくりしました。
そして、そういう人たちは、起業したいと言いながら、サラリーマンから決して脱却できないひとです。自分で仕事を作ることができないんです。

 私が自分の人生の時間を最大限投資して、得た情報や知恵を、彼らは日頃からの煩悩のフィルターを通してみているので、金言もなにも受け取れないし、正しい反応もできない。だから結果を生み出すこともない。
 これが普通にコンサルタントとして相談したことであれば、何万円もかかってしまうアドバイスや紹介先を、普通にドブに捨てているのですが、本人としては、情報はテレビコマーシャルのような扱い。
価値に全く気がついていないのです。それどころか噛みついてくる!
そして自分は不運だ、と再び、えんえんと嘆くんです。
なにがしたいのか、わからない。

なんかそういうのと時間一緒に過ごしたくないですよね。w
私の周りはそういうひとはほぼ、いないので、このギャップにいつも驚かされます。

一方で知恵者は、私がぽつっと語ることを聞いて、さっと目の色を変えて、メモを取ったり、その場で紹介先にコンタクト取ったり、アプローチしたりと行動し始めます。ヒントはどんなところからやってくるかわからない、と常にアンテナを張っているので、すぐに情報の質に気がつくんです。
こういう人間は、日頃の生活も非常に面白い生活を送っています。
チャンスの女神にすぐに飛びついて、飛びついてから、考える。w

普通の人でも結果が予測できるような、明らかにわかることに飛びついても、人生はなにも新しい変化は起きません。同じ意識世界をぐるぐる回るだけです。なのに、前者のひとたちは、自分が完全にわかることだけしか実行しないのです。習得できないのです。

そういう人間関係をくっつけていたら、無駄な時間しか残りません。
人生は短いので、楽しい時間を送れる、相乗効果が出せる相手と付き合った方がいいに決まっています。

余談ですが、海外の人は、すぐにYou're a good friend, って言ってきます。
海外の人にとって友達ってどんな位置付けなんだろう、と私は長年、う〜んと思ってきました。でも、英語圏の人たちにとって、友達とは自分の味方になってくれる人、というニュアンスがたぶんに含まれているんですよね。

あなたは。私にとって有益な状況をもたらそうとしてくれる間柄。
そうじゃなければ、友人じゃない。
そういうふうに捉えている人が多いなぁと感じました。

貫索星も石門星も、仲間と共に生きていこうとする星です。
仲間と共に生きるとは、仲間と共に繁栄していく。

例に漏れず、西洋人の友達作りというのも、仲間とは、血のつながらない自分のファミリーと同じ感覚なんですよね。
 根っこは狩猟民族ですから、自分のファミリーだけでは生きていけませんし、血も濃くなりすぎます。血のつながらないファミリーを作って生きるほうが彼らは繁栄したからです。

けどね、日本のお受験に勝ち抜いてきた日本のサラリーマンは、名刺を交換した相手を友達って言うんですよね。単に職場が同じだけの人、学校が同じだけの人を友達、SNSで交流した人を友達。組織の役割からのつながりと個人的なつながりをごっちゃにしている。

貫索星・石門星の本質をよ〜くみてください。
森と同じですよ。雑草の生える草っ原と同じですよ。
共に、Win and Winを作り上げながら、発展していこうとするのが植物の世界なんですよ。

としたら、自分が友達と言っている人は、自分に対してどれほど貢献してくれてますか?ランチを一緒に食べてるだけのひとは、友達とは言いません。
自分のベネフィットのために、実際に動いてくれる、自分のリソースを分けて使ってくれる協力者、のことを言うんですよ。
そして自分も同じことが相手にできる関係性を友達といいます。

そして、そういう本来の意味の友達をたくさん繋げた人たちが、なんにおいても追い風を受けて、あらゆる環境下に対応し、豊かに発展していくわけです。

だから、友達というものの本質を一度も考えたことがなく、自分の発展になんの影響ももたらさないひとをつなげているひとたちというのは、気の感性が非常に弱い人ともいえます。

人間関係は気が合う、合わない、で無意識に選択されているからなんですね。
人は人と出会う時、オーラでお互いの情報を探り合っています。
そして、共通の気がそこから発見された時に、その気は強く共振し、一緒にやっていけそうだ、と無意識レベルで思います。

貫索星・石門星は、同じ気、似た気が自分にやってきた時に出てくる星であるという本質を考えれば、自然にそのことが導き出されます。
わたしと同じ匂いを持つひとに安心感を覚え、無意識レベルで接点を持つわけです。

そこから、宿命の中に共通項がたくさんある相手は、気の合う仲間、として長く付き合えると判断するわけなんです。生きてきた環境がちがったとしても、方針が同じ、方向性が同じ。自分の生き方を今後も邪魔しない相手だからです。まさに、日本語の中の気が合う、気が合わない、というのはそういうところから生まれてきている言葉なんです。

そして、ここでいう気とは、もともと宿命のなかにあった気のことだけを言うのではありません。人間関係のネガティブな側面をいうならば、同質のカルマ(気)をもつときにもこれが起きます。

 後天的な気であっても、環境としてろくでもない父親の圧力に怯えたときに生まれた気持ち(気持ち=気を持つ)をどこかで持っている人が、たまたま出会った、同質の要素の気を持つ相手に無意識レベルで親近感を覚えることになります。そして、気の法則通り、その気が強化され、現象として表出してきます。そしてそれは、自分の元々の性質ではなく、後から後天的につけたネガティブな気なので、「それを卒業する」と自分自身が決めない限りは、そのエネルギーにずっと翻弄されつづけ、お互いに共振して強化した気が影響し続けます。お金に汚い配偶者に疲弊させられ、別れたいのに別れられないとしたら、自分も絶対的にお金に執着する要素をどこかに持っている。それを見ないから、嫌な相手なのに、変化がない、ご縁が切れない…。

 しかし、そう言うところへ、そういうネガティブ面だけではなく、自分の別な望ましい面を強化するような気や、高い波動をもつ気を極端に取り入れた時、そのエネルギーが変容して、急にそのひとのオーラから消えることがあります。すると、それまで悩み続けてきたその相手とのご縁も突然に切れたりするわけです。

相手に感じていた魅力を急に感じなくなった。
相手が急に転勤になった。強制終了が起きた。
自分が会社を辞めることになって、全く新しい世界にいくことになった。
などなど…

そう言う形で簡単にご縁が切れる人間関係というのは、後天的なカルマの解消と言う形で繋がった相手であって、自分の本質を発展させてくれると言うよりは、重荷を消化させることにつかったらいい人間関係なんですね。

しかし、ベーシックな人間関係を作る上で、多くの人が知らないと思うんですが、人脈作りをしっかりやれる人というのは、人間関係を作ろうというときに、相手との関係性を確かめるためにじつは、密かに必ず、やっていることがあります。それは、相手に自分からギフトを送ること。

 物質だけではなく、相手のベネフィットになるようなことをするか、または逆に相手に小さな頼み事をしてみる。関係性を深めたいと思ってくれている相手は、頼み事を喜んでくれます。
 ですから、そのときに人脈作りのプロというのは、自分の働きかけで、相手がどう反応するかをみています。ある程度お互いを自己紹介して知りあったあと、相手が自分のために現時点で、どれだけ動いてくれるかどうかをみてるんですね。要は、相手が自分を好きか嫌いか、応援者か敵かを見ます。
 なにかをしたとき、お願いした時、気を利かせて、本当に自分のためになる行動をとってくれたら、そのひとは友達・味方です。
しかし、敵は、「わたし」のためになることを、やりたくない人ですから、自分の幸せにつながることには行動をおこしてくれません。
その敵とは、親や親戚であることも含みます。
また自分のことを重視していない相手の場合も同じ行動になります。

なにかをギフトして、相手の反応性を観察し、ああ、口でうまいことをいってたり、優しそうな対応をしてくれているけれど、本音はこうなんだな、と人脈作りのプロは、ソナーのようにその記録を取り、記憶するんですね。
そういうひとだとわかったときには、以来、目的がない限り、積極的にかかわりません。そこに自分の資源を振り分ける必要性はありません。

自分が削られていくだけの相手だからです。
人脈を本当に力にしている成功者が、密やかにやっていることは実は、そういうことなんですね。

とくに、貫索星・石門星をもっているひとは、人が基本的に好きですし、仲間だと感じる傾向があります。だからこそ、よく、そのひとの本質をみて!
特に、貫索星さん。
貫索星が多いほど、自分の思い込みは強いと思ってくださいね!


思い込みで相手を見ていないか。自分の煩悩フィルターで相手を解釈していないか。これによって、自分の人生の可能性がかわってくるのだということを肝に銘じて生きると、開運に繋がっていきます。

また、逆も言えますよ。付き合って浅い相手からなんらかのオファーがあったときは、「あ、人間関係の強度を試されてるな」とピンとくるセンスをしっかり持った方が良いです。
そのオファーの種類もしっかり見極める必要があります。

 起業コンサルティングのプロである本田健さんは、ひとにお願い事や企画を持っていくときは、かならずそのひとに徹底的に損をさせない企画を持っていく、とお話ししています。ですから、うさんくさいと断ったら、その人が長い目で見ると、損をするような、お願いなのです。
そういうとき、断られても、傷つくことはありません。
一緒に成功する波動がそだっていないひとだな、と思えばいいからです。

それって、石門星・貫索星のセンスがないと思いつかない発想でもありますね。しかし、逆に自分に損のあるお願いを相手がもってきたら?
相手に利用されそうなネットワークビジネスのようなお願い事やお誘いをもってきたようならば、その人間関係はどんなに積み重ねても、ろくでもない人間関係であり、付き合っても以降良い話が飛び込むことはまずないと思っていいでしょう。相手は条件付きで自分に近寄っています。自分を駒として利用しようと考えているからです。

でも、こちらの負担感がない申し出だったら、もしかしたら、こちらにつながろうというサインをおくっている可能性があります。
ならば、その人の「今後も付き合っていける相手ですか?」という暗黙のメッセージに行動するということで「Yes」と示す必要があります。付き合う気が全くなかったら、そこでもう「No」をはっきり伝える。

これね、アメリカ人の多くは、すごくダイレクトに聞いてきますよ。
びっくりするぐらいに!彼らは人脈をそう捉えているからです。

 日本の場合は、察する行為のやり取りの中で、それを確かめ合っています。だから、本当に人脈の力を理解している、活用していきたい人であれば、ちゃんとそこで核を捕まえているんですね。
 そうしたやりとりから始めることでこの関係性が意味することはなにか、どの辺の付き合いにとどめておくべきひとなのか、はっきりとお互いの価値がわかってきます。

おそらく、普通に暮らしていて、人脈をしっかり持っていない人というのは、その辺りを社会でまったく意識したことがない人なんです。
すると、そういうひとは、経営者としても人を雇用し、社員に動いてもらう才能がありませんので、やっぱり発展は難しいんですね。
自分が作る側ではなくて、使ってもらう側に回った方がうまく行くでしょう。

 実際、京都というのは、商売の街です。ですから、そういうことが暗黙の了解で行われています。人間関係の本質を察知し、上手に距離感をとって、自分の繁栄に力を貸してくれる相手をつなげ、自分も相手の繁栄に寄与しようとするのです。だから、その人間関係の貸し借りがわからない人は、自営業には向きません。東京人は、そのやりとりがわからないので、野暮なことをして、「こりゃ、あかん、浅くつきあっとこ。」ておもわれてしまうわけです。

また「友達」の行動したこと、事実をしっかり評価するというのは、実はなかなかむずかしいことでもあります。
大概、いろんな理由をつけて納得しようとします。自分が好きな相手なら尚更そうでしょう。
 相手が私に害を与えるようなことをしてしまったのには、なにか理由がある。相手も忙しかったのかもしれない。本当はしたかったけどできなかったかもしれない。などなど。

しかし、仏教において、正しく物事をみるというのは、すなわち物事全て事実ベース思考なんですね。どんな壮大な言い訳を相手がしたところで、やらなかった事実には変わりがない。ならそれが、その人の本音です。
 だから、大阪の商人道を守ってる人や京都のやり手の商売人は、「そうだったんですね〜」と言い訳をやわらかく受けとめながら、頭の中では、人間関係の位置付けを微妙に変えていってるわけです。
東京人はそこがまったく見えていない。
 ですから、京都や大阪でもちろん江戸でも、昔、商売人にとって口約束を守る、ということは、それくらい重要なことだったんですね。
親から譲り受けた人脈も引き継がなくてはならないので、早くやりたいことが実現しやすい手前、そういう意味では、京都の後継は気を遣いに遣い、根回しにまわり、相当にしんどいそうです。

 もちろん、実際に行動できないこともあるでしょう。でもその時には、自己保身のためにではなくて、自分の本心に沿った言葉を使うことが、かえって信頼を築くことになります。友達になれる基礎力をもったひととしか、友達関係はできないのだということを、理解すると良いと思います。

貫索星・石門星に学ぶ人脈作りで大事なこととしてお話ししましたが、実はこれは、私のコンサルティングの中で、クライエントさんに実際にお話しして学んでいただく内容なんです。

一回でクライエントさんがすべて理解できるわけではないので、なんども繰り返してお話しして、意識を変えてもらうことになりますけども。
そして、人間関係の整理をしてもらいますね。
そして宿命から見て、ちゃんと知恵を活用できる土台がある人とだけ、私は仕事をやりますよ。

これは、私にとってもそうですし、自営業のすべての人の鉄則だからなんですね。そういう価値観の理解がないと、自営業者の手助けも受けづらいということも言えるかもしれません。

これからは、日本人が結束していかなくてはならない時代に入ります。
これは全体主義で縛られる社会という意味ではなく、本物の人脈による結束の時代だということを意味しています。
 子供のいない世帯や独身者は、自分の終活の際に明暗を分ける、特に大事になスキルになると思います。金だけで人が動く時代がもうすぐ終わりを告げますから…。


あ〜あ、やっぱり長くなってしまいました。
早く別な表現媒体見つけたいところです。

実学算命学プロファイラーJemmyでした。















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