先月、術後の経過確認と手術で摘出した腫瘍の内容物が何だったのかという話を聞きに東京にいってきました。
切り取ったものは、予想外に大きくて、あ〜。。。と言葉にならない。
腫瘍は、幸いガンではありませんでした。
これが様々なところに不可解な害をもたらし続けていたのかと思うと。
茶筅を握れない、髪を握れない。指が動かない。肩が動かない。
片目が動かない。徐々に強くなっていく症状に、強い焦りを感じて暮らしてきました。術後それらすべては消失していて、三ヶ月もすれば消えるだろうとのことでした。ただ、血液検査の結果上、数字がもどってない。
無理せず、十分に休みを取るようにというお医者さんのお話でした。
手術前は、それらの症状は、腫瘍とは関係がないといわれてきました。だから温存して付き合って暮らした方が良い、というアドバイスを受けてきました。
でも、自分の意思が体に伝わらないということは非常に不安にかられることでもあり、気道がふさがることで睡眠の質も最悪だったので、本当に手術してよかった…。そして、結果が明らかに好転してよかった。
声が楽に出せるようになってきましたし。
先生は、あと三ヶ月は声出せないねぇ〜無理して声出さないでね、って言ってたんですが、本当に不思議。
というのも、先週、大学の授業の中で経典関係の論文を読まされる時に、教授が「いや〜すごく感動した。読むのが非常にうまい。違いがわかるよ。」とすごく評価してくださって、経典系冊子を読むときは、毎回ご指名を受けるようになったんですよね。
手術後、別に声に変化ないと思うよ、と家族は言ってたんですが、前期の授業の中でも教授の前でよんだところで別にそんな評価は受けなかったので、w、やっぱり読み方とか音そのものというよりも、音に含まれるエネルギーが変わったからなんだろうなぁと思いました。
おそらく、喉のチャクラっていうのかね?具体的な名称はわかりませんが、伝えるための気のようなものがちゃんと発動するようになったのだと思うんですね。息継ぎができたり、呼吸ができるようになったことで、生きていける安心感を手に入れたような気がしました。
これを読んでいる方、クライエントさんも皆さんなにかしらお病気に苦しまれているかたがおられるかもしれません。
体調がおかしいとき、本当にいろんな思いが湧いてくると思います。それは健康な人にはなかなか伝わりづらい、焦りや落ち込みだったり、ときに自分を攻めたくなったり、過去を後悔したりとあるかもしれません。
でも、必ず答えはある!そう信じて、なにか、希望につながる糸口が見つかってくるといいと願っています。
私にとっては、もう、ここから反転(のはず)です。
私にとって、長く続いた苦しい大運の象徴として犠牲になったのが、甲状腺。
何かを得れば、何かをその対価として失う。
本来ならもてなかった子供を持てたことによる対価として、伝達の象徴として喉にある甲状腺が持って行かれたのです。
私が問題なく元気であったら、子供の方に問題が出た可能性があったことを考えると、これでよかったと、こころからホッとするのです。
そして私の師僧の老師が昨日の炉開きでお話されたこともまた関連性の高いことでした。算命学の世界観のもとは、仏道、そしてもっと突き詰めるとインドや遊牧社会の古くからの思想にあります。
逆にその理解なくしては、どんなに技法を学んだところで、まったく正しい解釈に至りません。だから茶道と仏道とは、自分の仕事とまったく関係のない話ではないんですね。
全ては、宇宙の大きな秩序の中にいる自分、という意味でですね。
老師はカナダ人なので、英語をわかりやすい日本語に直すとこんな話です。お話しは、ひとはだれしも場というものを持っている。ということから始まりました。
その場というのは、子供か大人か関係なく、意識しようがしなかろうが、その場は、自分を中心とした多くの人や領域にエネルギー的な影響をもたらしているんだ。ということでした。(いわゆるオーラのことですね。)
ここから老師の話を日本語訳します。
君たちも知っての通り、茶道にはたしかにヒエラルキーのようなものがある。階層的に、先輩や師を敬うし、階位のようなものがある。
しかし、それは人の価値を示すものではない。
本来これの意味は、宇宙の、自然界の秩序だと考えて欲しい。
それはまるで、空の上に星があり、その間に雲があり、そして眼下には山や海や川が見えるようなものと言っていい。
高さは違うが、それぞれが素晴らしいものだろう。
それぞれが構成する世界が素敵なものだろう。
君たちがたとえ階層の下に置かれていると感じたとしても、それはその価値を否定しているものではない。
なにが優れていてなにが優れていないかといったような話でもない。
自分たちが世界の構成要素であり、同時に全体であり、同時に個であるのだ。
だから、ここにいる小学生の一番ちいさな女の子の持つ意識の場が瞬時に全体に波及して、伝搬して、全員の場を底上げしてしまうことなんてしょっちゅうある。
ワシが君たちに言いたいこと。
自分を小さく、孤立した存在だとは思うな。
私たちが発生させているこの磁場は、世界を変えている。
世界を創り上げている。
その意識と責任を持って、いきていきなさい。
ワシは、茶道とであって、今年で50年なんだが、
人生は、自分と合わないものばかりと遭遇するものだ。
それは、人間であったり、食べ物の好みであったり、職場であったり、近所関係であったり、学校であったり。
そのとき、心の中で、人はそれを敵とみなしている。
自分に向かってくる敵と対峙してると思っている。
でもそうではない。
チベット密教の私の師のリンポチェはドォラの思想を教えてくれた。
それは敵を超えてゆけという思想だという。
超えるには、敵だとみなしているその視点を、瞬時に移し変えることができるようになることなのだという。それは観音の視点だと言っていた。
すると、あるとき、180度ガラリと違った領域が眼前に広がることがある。
敵が目の前にいたかのような心境から、自分がとっくみあっていた敵が消えて肩透かしを食らうようなそんな体験をすることになるだろう。
そう。敵といっても、それは具体的な人だけをいうのではない。病気であることもあるし、自分の苦手なものに取り組まなくてはいけない訓練かもしれないし、社会環境であることもある。葛藤をもたらす全てが、敵とみなしている存在にあたる。
つまり、それは、自分の心のなかで起こっている現象であるからだ。
仏道とは、自分の内面の世界と徹底的に向き合う世界だ。
そして、自分のこころを整え、自分が発しているものを自分の内側から捉えて、変えたいものを変えて、影響をもたらしている場全体を変えていくことだ。
誰もがそれぞれ「社会」というものと向き合っている。
異質でプレッシャーを感じさせられるような社会(相手)とむかいあっている。敵を作り続ければ、永遠に戦乱の世の中だ。
茶道とはそんな対立の世界に平和をもたらすものだ。
だからタオのマークが、円相がある。
ここは、違和感があって受け入れがたいもの、苦手なものと敵対しない、新しい視点や場を自分の中に作り出すところだ。
生きるを真面目に生きる。
そして、茶道が目指しているのは、今ここに自分の意識がちゃんとのっているのか見直し、日常のゴタゴタや煩悩に引っ張っていかれる自分を正規のこころの位置に引き戻すためのすべてだ。
そうでない教室もたくさんあるけど、うちはそうしている。
なぜなら、茶道とは心の世界の修行場だからだ。
(注釈:単にうまい茶をたてるなら、数字化して茶の成分が美味しく出るもんをつくりだすための実験をすれば良い。)
茶を通して、我々は己の心を修行している。
茶を点てる、点てるとはどう書く?
点じゃないか。
茶道のエッセンスは、言って見れば全てが点なんだ。
こころが茶道の中にある点の連続のつながりや大事にしている点の深みをしっかり見えるようになったならば、茶道は本当に学ぶのがたやすくなってくる。
全ての点前は、全てが違う。同じものは一つとしてない。
わしは、今日、君たちに、今、君はここでなにを感じた?
としょっちゅう聞くけど、型についてはなしているわけではない。
型の中にある自分自身をちゃんと見つめたかどうかを問いかけているんだ。
茶道はまさに禅であり、仏道と大きな関わりがあるからだ。
向上には終わりがない。
でも先を考えたり、結果を考えたりせず、今を100%全力で生きているかを、ワシは、常に茶室の中で君たちに問いかけている。
今を100%意識を乗せて生きていなかったら、いつ生きたことになるんだ。
対等という言葉に英語でフィフティ・フィフティという言葉があるけど、ワシは正直、そんなもんはケチくさい考えだと思っている。
お前50%しかださないのか、って思うよ。
お前50%、俺50%、痛み分け、ってなんだそれ。
俺も100%出す。お前も100%の自分でいけ。
なぜその境地にならないんだろうなぁとワシは、英語圏に生まれているが、日本の茶道の思想を知り、そう思うんだよ。
ワシは、クリスチャンだけど、日本人が考える「思いやり」という思想はキリスト教の中に、はっきりいって、ない。キリスト教は常に間に神があり、神と自分の関係性しかない。ヒエラルキーしかない。
神の目線関係なく、相手の存在を尊く思い、相手を想うが故に、見返りなく相手のために動く(利他)の思想は、西洋社会で聞いたことないんだよ。
日本人がそれを忘れてしまったら、だれがこれからその思想をつなげていくんだ。君たちは「思いやり」で作っていく社会に、目覚めるべきだ。
これがワシが、今日の炉開きで言いたかったことだ。
あと、言いたいことは、美しさを大切にしなさい。ということだな。
美しさは、すごい力を秘めている。
美しさは、無条件に人の良心を内側から揺さぶるからだ。
本物の美しさというのは、人の内側から良いものを目覚めさせる巨大なパワーを持つ。形だけではなく、美しさの中に尊いパワーがあるから、人は強く惹きつけられるんだ。
茶道の所作の美しさ、美しい型、美しい音、美しい香り、使う言葉の美しさ、それらはみんな、人を目覚めさせる。悟りに近づける強いパワーとなる。
真善美という言葉がある。
私たちが美しさを目指すのは、自分の真我を目覚めさせる糸口につながるからだ。自分もそこに目覚め、それをみた人も目覚める。
その力を子供たちは自然に持っているんだけど、ありのままであれ。
自然なあなたが一番美しい。
それを今日は、心に留めてもらえたら幸いだ。
というお話だったんですね。
85歳の師匠は、頑固で有名らしく、自分の父にもどこか似ているので老師は貫索星のひとかなぁ、と私は密かに思っているところですが、老師の茶道を通して磨き上げたその信念体系は、本当に素晴らしいです。
美しくあれ。
美しさを追及せよ!
整形してどうのこうのという話ではなく、まず、それには、なにが美しさなのか、本当の美しさを感じる心から育てていかなくてはならないのでしょう。
こないだ検査で東京に帰って満州生まれの父と話したとき、なぜ我々は第二次世界大戦を負けたのか、海外に出た日本人たちが生き地獄をみることになったのか、というのは、やはり、大乗仏教的な利他の価値観が当たり前のように人々の常識の中にあって、それが極まった価値観を世界常識だとおもって、中国・韓国に行ったとき、そのギャップにさらされたからだろうねという話になりました。裏切り、悪口、収奪や嘘が当たり前、そんな大陸の人たちを前に、それでも戦前の日本人は、真善美を信じて、人の仏性を信じて生きようとして、天皇を信じて、あまりに無防備すぎたんだろうなぁという話しになりました。
いい人なだけでは弱い。
強いだけでは、美しくない。
茶道は多くの武将に愛されました。
最初は見栄っ張りから始めた茶道だったかもしれません。
しかし、美しさとは何か、水面下の思いやりとは何か、利休を通して名将たちは、トランスフォームしていったのでしょう。
利休の茶道に触れた武将たちは、ただのお人好しな風流家なわけでもなく、現実社会では、度胸も勇気もあり、戦略を持った武将たちであります。
老師の話を聞いていると、日本人の強さとは、そこにあるような気がするのです。私たちは、戦後、物欲だけが幅を利かす世界で、なにもできないと弱腰の日本人になってしまったのでしょうか。
老師はスピリチュアルにはまったく関係のないおじいちゃんですけども、そういう言葉が当たり前に出てくるんです。日本の伝統こそ、まさにスピリチュアルそのものだということを表しているかのように。
美学と戦略を両方兼ね備えた人が、日本の武将たちだったのではないかと、茶道を通して、そんな風に思う今日この頃であります。