最近の京都は、干物になりそうな暑い日が続きます。
そんな中でのエピソードですが…
夏休みに入ってから、下の娘が甘えたいみたいで「今日の夜は、お母さんと一緒に寝たい。」と言ってたんだけど、ちょっとめんどくさくて「あとでね」といいながらいつも先に寝せてて、私がベッドに入った頃には娘はすっかり寝入っていることが多かったんですね。
朝、起きた時、娘がほほえみながら、「あ〜お母さんまだいる〜・・・でもね、夜途中で目が覚めたんだけど、お母さんがいて安心してまた寝たんだよね。」って言っていました。
なんか安心したいのかな、と思って、
「昨日、抱っこして寝てあげられなかったから、朝おいで〜」と言ったら、「うん!」とうれしそうに布団に潜ってくっついてきました。
ほんわか、まったりしている娘に
「最近、ようちゃん、どう?幸せいっぱいで生きてるかい?なんか引っかかってることがあったら、なんでもいってね。」
と聞くと、
「うん、幸せだよ〜。色々と私も変えなくてはいけないところがたくさんあるけど」と言いました。
それで、私はなんとなく、少し考えてから、一呼吸おいて、こう言いました。
「あのね、ようちゃん、ようちゃんは、なにひとつ変える必要はないんだよ。」
一瞬止まるようちゃん。
「うん、あのね、ようちゃんは、そのまんまでパーフェクトなの。なにひとつ、変えなくていいの。お母さんは変わって欲しいとはおもってない。だって、ようちゃんには変えなくちゃいけないよくないところなんてなんにもないんだよ。」
ようちゃんは、そのまんま、私の腕の中で、なにかを考えながら黙っていました。
「ただね〜、お母さんの言ってるのは、そのまんまでいいんだけど、周りへの気遣いをふやしてあげようねってことなんだよね。」
「世の中にはいろんなひとがいるでしょ。いろんな好みの人がいるし。そういう人たちも心地よくなれるように、ちょこっと気遣いを足す。なんでも、そういう気持ちで取り組めばいいだけなんだよ。」
「お勉強とか仕事もそう。ダメだから、何か修正するわけじゃないの。自分を変えていく必要は全くなくて、変わらないままでいいんだけど、これまで自分が関心もってなかったところに、関心を行き届かせてみてみたら、もっといろんなことがうまくいくようになったりするでしょ。
別にあなたが悪い存在だから怒ってるわけじゃないの。普段、気にとめていなかったところに、気を回してみよう。っていうこと。
そういう感覚でいいんだよ。」
「うん、わかった。」とようちゃんは答えました。
そして、また楽しそうに国語の辞書を読み始めました。
私がそんなことを、娘に伝える必要があると思ったのは、茶道の老師の教えがあったからだと思うんですよね。
娘と私は一緒に近所の茶道教室に出席しているのですが、よく掛け軸の教授があります。
老師は、作法の云々の前に、まず、掛け軸に書かれた禅語の意味を問うのです。
掛け軸の崩字もそうだけど、そもそも、漢字がいろいろ難しいよなぁとおもってるんで、娘たちが質問に答えられなかった時、私がつい、救いの手を述べようとします。
すると、老師はすっと、手でいつも私を制します。
「この子が答える。」
あ、そうか、と思って、私も待ちます。
日本人の親は、子供に手を出しすぎる。そして子供の内側から出る正解の芽を親がつんでしまうんだ。と老師は常々言うんですね。
さて先日、老師は茶席で子供と大人の生徒たちを前に、こんなことを言い出しました。
「人の心とはもともと空(くう)。そしてその状態を無心とするならば、その反対は、なんというのだろうか。」
私のような大人などは、無心ってことは、有心?と、言葉の論理で考えます。また間違えたくないので、黙りこくる大人がほとんどです。
すると上の娘は、老師に問われたあと、しばし考え、はっきりした声で「多心です!」と答えました。
(多心?!
そんな回答ありなの?!)
と思ったんですけど、
老師はおおおお〜と唸って、
「その通りだ、たま。多心。これは仏教の言葉だ。よく知っていたね。」
と言いました。
(えっなんで知ってたの?!)と、こそっと娘に聞くと、何事もなかったように、
「いや、仏教の言葉とは知らなかったけど、だって、何かに囚われて一つに定めて考えないことが無心ならば、その反対はたくさんのことが心に思い浮かぶということでしょう。なら多心だとおもって。」
と答えてきました。
老師は、見た目も達磨大師のような風貌なんですけど、その答えを聞いて、水戸黄門のように大声で笑ったかと思うと、
「そうだ。そういうことなんだ。では、多心とはどんなときに生まれてくると思う?」
といい、懐から懐紙を出してタオのマークを描きました。
「この図を見てご覧。これが多心だ。タオのマークだけど、陰陽を表す。」
あ、そのマーク、知ってる。
と生徒たちは、口々に言います。
「これは陰と陽と、全く違う性質の両極に分かれた状態。そしてこれは、私たちの普段の心だ。そうだ、多心だ。」
「そしてこれは、お互いがお互いを比べ合うからこそ、生まれてくるジャッジメントの世界だ。そう、判断とは、相対的なものがあって生まれてくる。」
「ひとのこころというのは、なにかとなにかを比較することから、判断が発生するんだ。つまり比較する対象物がなければ、判断は生まれない。黒い色があるから白い色が際立ち、それを認識するのと同じことだ。」
「じゃあ、この陰陽が生まれる前の状態はなんだと思うかな?」
そういうと、老師はもう一つの絵をかきました。
単なる、まる?
とみんなが見つめていると、
「これを円相という。」
「これは陰陽二極に別れる前の状態の人の心を表す。」
「無心とは、何も存在しないことではない。何にも考えないことでもない。比較をせず、それをあるがままに存在させておく心の状態なんだ。」
「子供は判断をしないだろう、それとも似ている心持ちかもしれない。」
小学生の子供たちも静かに聴いている。
円形を一筆で描いたこのような絵を円相 (えんそう)といいます。円相 は、禅宗における書画なんかによく出てくるモチーフです。
老師は、この円の縁を指して、ふたたび問いかけます。
「さて、この点は、始まりか、終わりか。」
ほとんどの人は意味がわからない。
黙っているしかない。
「円の上の点は始まりであり終わりである。始まりも終わりもないとも言える。」
もうほとんどの人がついていけなくなる。
「そして、この円のなかの空間は比較がないので色分けがなされていない。
何もないように見えて、この白の中に全ての色があるでしょう。」
後の人には視座が高すぎて難しすぎるので、老師はその後は、
「Jemmy、君はわかるね?」
と、視線を私に向けて知恵を授け続けた。
他の人たちは、関心が薄れ、それぞれ思い思いにおしゃべりを始めていたが、私には老師の伝えたい思想がすぐに頭の中に入って浮かんできた。
その時、私がイメージしたのは、白色が光の三原色である赤、緑、青を混ぜ合わせることで作られる「加法混色」のことだった。これは混ぜるほど光が明るくなり、最終的に白になるという。
つまり、白という色は、何もないように見えて、全ての色がある。
無限の色だ。
空(くう)の色は白。
何もないように見えて、白は全てを含む、完璧なニュートラルの色。
円相のなかにある白い空間は、あらゆるものを生み出す、宇宙のsource(源)なのだ。禅を通過した昔の茶人たちは、ここからその世界観を感じ取り、イマジネーションのなかでものの見方を広げていった。
同じ視点をJemmyは共有できたか?
と85歳になる茶道の老師はいった。
「はい。」と私は答える。
「こころが何かに執着するということは、こころのなかで何かを判断しているということで、自分がなにかを判断しているからには、そのベースになにか比較する対象が常に存在している。」
老師は、パチン、ととじた扇の先を指して、いった。
「タオの心になる前の、円相の状態は、さまざまな多心を離れている。つまり、偏りのない無心の状態だ。」
「茶席の亭主は、その無心の心で、茶を立てるんだ。そこがすべてのはじまりだ。ここでたてる茶は、単なる茶ではなく、亭主は自分の心ごとささげる茶をたてているんだ。」
それから、一呼吸おいて、老師はこんなことをつぶやくように言った。
「Jemmy、こどもはなにもなおすところがない。子供の動きの全ては無為自然でありのまま。自分の心と行動が一致し、無駄のない動き。こどもの動きは最高に美しい。だから、これを大人が加工してはならない。
いまの日本人は、子供の持って生まれた美しさを自ら破壊しにいくんだよな。」
ーー子供を変えるのではなく、本人の動きの中に沿うんだ。共に新たな領域にひろがっていくのだ、そして、その時かどうか、子供にとって最適な時をちゃんとみるんだよ ーーー
そんなことを言われた。
朝、ようちゃんにかけた言葉は、そんな思想が自分の中で板についたから出てきた言葉だったのじゃないかとおもってる。
老師の言葉は矛盾がなくて、これは大学で学んでいる古代インド哲学の価値観ともまわりめぐって合致する。
古代インド世界では、神道やキリスト教のように、神がこの世界を作ったというような創造の物語や世界観がない。世界は「ただ、あった」というところから、神話が始まる。
そして、人が手を加えていないにもかかわらず完璧に成立していくこの世界はもともと聖なるものである。人の手を加えていくものは、不自然であり、俗なるものであるという思想がある。
古代インドの思想上、宇宙を含めてこの世界にもともとあった永続的なものというのは、全て美しくて完璧な、「聖なるもの」なのだ。
老師はアメリカ時代、チベット密教系のチベット人リンポチェの弟子の灌頂を受けていて、その師僧に与えられた僧名も持っている。
無為自然とはすなわち、聖なるもの。
子供は、無為自然ゆえに、宇宙に近い存在。
そして、聖なるものである。
仏教は、そんなインドから思想が東アジア風に転じながら、流れてきている。
だから、聖なるものを、俗なる人の手でむやみに壊してはならない。
無為自然は、道教あたりから来た言葉だと思うけど、そのさらに先にはこうしたインドの思想も混じりこんでいたに違いない。
老師が言葉にしない「間」のなかには、そういう示唆が含まれていた。
茶道はそもそも、生日中殺の下の娘が「抹茶マン」という絵本をきっかけに、和菓子に興味を持ち、茶道をやりたいといったことで教室探しを始めたんですよね。
さらに前に住んでいた物件が裏千家茶道の聖地「今日庵」のすぐご近所だったことから、行き交う着物姿の男女や近所の俵屋カフェで、抹茶をたてたり、和菓子を買ったりしているうちに、なんだか、それを極めてみたくなったようで、茶道具がほしいと言い出し、Youtubeなどで見よう見まねの自己流をやるようになったというのが、始まりです。
そこで、気の利く私はw、娘に自分のペースで通いやすい茶道の教室を探し回った。そして、入門の面接試験の意図を含んだ体験に娘を連れていったというわけなんです。
ところが、初回、そこで起きたことは本当に最悪だったんです。
体験教室での下の娘の態度は、落ち着きなく、行儀が悪く、先生の言いつけは守らない、空気は読まない、きていた着物もはだけて、どうしようもない事態に。和菓子のおかわりが欲しいと言い出す。
そっと、たしなめても一層図に乗り、娘の態度の悪さが際立って、どんどん血の気がひいていく親たち二人。
「本当に茶道に興味があるんですか?」と娘に問う先生。
「んんん〜〜〜」
「だって、あんなにお茶自分でたてたりして、ティータイム楽しんでいたよね?」(熱意はあります!)とあわてて私が助け舟を出すけど、
「え〜そんなのやってない。しらな〜い!」とすっとぼける娘。
(ええっわたしが嘘をついていることになってしまうじゃないか!!怒)
流石の先生も、固まりました。
最初は同じ年齢のお子さんもきちんとやれていますから、と歓迎ムードだったのに、最終的には「まだお早いと思います....」とおっしゃり、生日中殺の娘は、ついに茶道の入門を断られてしまったのだった.....。
「末代までの恥〜〜.....あんな礼儀知らずな態度はうちでもやったことなかったでしょう!なんであの場で!!何のためにお母さんは、だんどりしたとおもってんのぉぉぉ!!」
と下の娘につめよった。インター由来とはいえ、マナーの悪さには、頭を抱えた。
あとでごめんなさいと謝ってきたものの、ピカチュウとは思い出しては、最後に黙ってしまうくらい、痛い、痛い、黒歴史状態。
娘曰く「ん〜、だってね、なんかあそこで習いたくないなぁ〜とおもったんだもん。」と。
「だったら、あとでそう言えばいいでしょう!!なにも場を破壊しなくても!!」というやりとりで終わっていたのです。
1年以上様子を見ていたけど、やはりちゃんと日本の文化を知ってほしいということで、どこかいいところがあれば、と思って探し当てたのが、このご近所に住んでいる茶道の老師でもあったんですね。
娘は体験してすぐに、
「私の教室はここ。私はここで、茶道を習う。」と宣言。
老師は前の教室で「学ぶための基礎姿勢からできていない」と匙を投げられた娘の全てに、合格点を出し、すべて、ビューティフル!!
と褒め称え、常に娘に肯定的だった。
「.....高価なお道具もありますし、弁償等でお互いにしこりが残っても後味がわるいですから...」と前回は断られたのに、娘のえらぶままにさせたうえ、老師は高価な道具を最初から使わせてくれたんですね。
ただ、好き勝手にしていいというわけではなくて、その取り扱いだけは、娘に教えてあげていたし、娘もその教えをしっかりと守って茶道をやってます。
そんな老師85歳と娘8歳。寝る前にニコニコ顔で「ちゃどうって最高!なんて、素敵な習い事なんだろう!!」と口走ってしまうくらいの娘のお気に入りの習い事になったのでした。
娘の主星は、調舒星です。禄存星に向かう調舒星。
だから人に喜んでもらいたいという気持ちがとても強い。
そもそも、調舒星というのは、基本、ものの見方が減点式なんです。100%の理想の状態が心の中に漠然とあって、その理想から離れるほど心の内側で、静かなるマイナス点をつけていく…。
その減点式思考は、物事や他人にだけでなく、自分にもバッチリ向けられます。
調舒星の人は、心の奥底で、本人が認めようが認めまいが、
「ちゃんとやれているかな、自分。」ということがとても気になる人なんです。その「ちゃんと」の基準は、ひとによって違うけど、心の中にこうあるべきという形があることは共通します。
そしてそれが全てにおいて、そうなのではなくて、自分のこだわりが発揮されるところにだけ、その完璧主義が現れるんですね。
完璧というよりも、美しく物事を完成させたいという究極の理想にぴったりとハマりたいといった方がぴったりくるかもしれないです。
客観的事実として、他人からしたら忘れてるかもしれない、たいしたことのない失敗だとしても、調舒星は自分の思い描いた理想の枠組みから大きく外れた、と本人が思えば、そこにえんえんとこだわり続けます。
日々、一人振り返り、反省会をしたりしている人もいます。
落ち込み続ける。本人の中で、黒歴史として残り続ける。
付き合いきれない、と周りが思うほど、そこはしつこい。w
だから早い段階で、調舒星の子供は、
ひとにいうとき結構辛辣だし、『あんまりそうは見えないけど、実際は傷つきやすさを持った子供なんだ。自分を減点式に評価してく子供なんだ。』ということを親の方がしっかりとわきまえておく必要があるんですね。
そして、小さい頃にした失敗というのを、調舒星の子供たちはいつまでも、いつまでも、いつまでも、インパクトの大きさの分だけ、記憶に残して大人になるんです。そのトータルの自己評価が、今の自分として、存在しているんで、実際には自己肯定感が低い人がたくさんいます。
最高が百点にしていて、なにか本人的な失敗談や間違いがあるたびにそこから減点され続けたら、そりゃあ・・・ねぇ。
その上、人から否定されたら、深く傷つきます。
辛いんです。
元々傾向として、そういう性格構造があるので、うちの生日中殺の娘にしても、形にこだわり、こうしなくてはいけない、と過度に理想の枠を誰かから与えられるようなそんなムードが匂う、茶道の教室に、調舒星の娘は強いプレッシャーを感じていたのかもしれないです。
逆に、自分のありのままを全面肯定してくれる老師の前では、自由になれたのかもしれない。そして肯定された状態から、何も言われていないのに、調舒星なので自己検証し、自分なりに課題を見つけて、向上力に繋げていくことができるのかもしれないんですね。
減点式の発想の子供に「あなたは、変わらなくてはならない」と伝えることは、「あなたは問題がある。」と伝えることと同じニュアンスがありますね。
とはいえ、学校のシステムは、もともと減点式にできています。
老師が示したタオの図のように、比較する対象がもともとあって、子供は相対評価されますね。
判断され、指導される=自分はなにかが欠けている。よくない。
自分は足りない、欠けている、だめだ。
それは、調舒星の子供の減点式思考にガッチリハマりすぎて、その減点式自己評価を強めていってしまうことになりかねません。
そして、頑張り屋さんで、一見、そういう世界でうまくやれているかのように見える調舒星だとしても、その生活をよく見るとその視点で他人も評価するようになるので、見方がキツくなります。自分に厳しい人は、他人にも厳しい視点を向けるからですね。すると、自分も苦しいし、周りの人も苦しくなる。
そういうスパイラルに陥ってしまった調舒星は、永遠に欠けた自分を満たそうとして躍起になる人生になるため、時々、やたら落ち込んで、鬱っぽくなることもあります。やさぐれます。いったん、徹底的にどん底まで落ちて、落ちるとこまで落ちたら、反発して上がってくる、みたいな感じ。w
だから、今朝方「私、変えなくちゃいけないところがいっぱいあるけど」と娘がいった時、あ、ここは一線引いてあげなくちゃいけない重要なポイントだなと即座に思ったんですね。
ここでその考え方を強めてしまう一言を言うのか、自分を削っていくようなことになる価値観を止めてあげるのか、親として、今が娘にとってのターニングポイントだな、と気づいたんですよ。
「自分の本質を変えるんじゃなくてね、そのままでありながら、それまでよりいままで考えても見なかった気遣いをちょっとずつ自分の中にふやす感覚ね。だってあなたは、そのままでなにも問題ない。パーフェクトに素晴らしい。」
これは、自分の気を与えることが本質の、伝達の気の本質をもつ、調舒星・鳳閣星には、馴染みのいい価値観でもあります。
ざっくり言って仕舞えば、この人たちは元々、プレゼント気質なんです。
そのあと朝食を食べながら、下の娘が言っていました。
「お母さんの言葉を聞いた時、体の中から余計な力が抜けた。すごく感動した!」
最近、娘はいろんなことを頑張っていて、学校では学級委員をやったり、英検3級を取得したり、英語のスクールでもクラスオフィサーを務めるなど結果を出しているときだったので、それが過度になりすぎないよう、必要なタイミングで、必要な言葉を伝えられてよかったと思いましたね。
調舒星は、感情的なわがままにみえて、心の底ではちゃんとやろう、っていつも思っています。
娘も、他のタイプの子供同様、自己評価をとても気にしているし、どんなに成果を出しても、調舒星らしく、これで本当に大丈夫かな、と常に再点検し続けていたりします。
どの子も、成人するまでの子供は、「私って誰?」と常に世界に問いかけて、周りの反応性から読み取って自己評価を決めているものです。
そのなかでも一番作用の大きい反応性は、親の反応性。
実学算命学の根本原則では、ありのままの元からの本質は、勝手に歪めず、否定せず、むしろそれを聖なる性質、与えられた宝、として活かすところにあります。世の中には、ガシガシ鍛え上げて、身を削って、見事な名刀になる人もいれば、炎のように自分をひとに分け与えても、減らさずに光を増やしていける人もいる。色々なタイプがあります。子育て方は一つではないんです。
大事なのは、子供がどういうタイプの本質を持っているのか、観察を怠らないことと、自分自身がどういうタイプなのかということを、ちゃんと把握しておく力ですね。
生きるって楽しい!
迷うことなくそう思う、そんな毎日を送れる子供に育って欲しいものです。