久しぶりに東京へ

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子供の卒園式のため、久しぶりに東京へ帰っています。
 ピカチュウと子供たちが喧嘩ばかりで、度々娘から涙の電話が続くので、心配してたんだけども一週間前、ついに上の子供がパパの横暴ぶり(命令口調)に腹をすえかねて、もう、パパの車の送迎を受けたくない、と小学校から脱走したのを機に、ポジションを交代してピカチュウを京都へ更迭することにした次第。w

ピカチュウよ、お前、ほんと、子供の世話が下手くそすぎる....子供と同じ目線で喧嘩してどうするよ(汗)
(これが「ハイ!俺も人間!お前も人間!」みたいな生粋の対等目線の車騎星でなく、牽牛星の夫ならば、役割や立場を明確に線引きするので、子供に巻き込まれることなく、なんとな〜く上の視点を保ち、子供をコントロールしただろう。)

そして、久しぶりに東京に帰ってきたら、環境変化もだいぶ感じた。
 お互いに顔をよく知ってる間柄の自営業者の店が2つも3つも閉店してた。なんとか持ち堪えていたんだけども、ついに限界が来たんだろうな。
 ツタヤも先月、十五年営業していた近くの温泉ランドも4月初旬で閉店。いよいよ、東京も経済的に厳しくなってきたという実感があるね...

 そんなことがあったので、諸手続きで、市役所に卒園最後の無償化手続きをしに行ったら、ちょうどオスカルさんの厚労省のチラシが目に入り、今って、まるでフランス革命前夜かなぁ〜と思ってしまった。
 このチラシに書かれている標語はわかる。けど、多分、ブラックな働き方だって、みんなわかっちゃいるだろうけども、小さな会社ほど、そこで揉め事起こしたくないからまともに通報もできないよね。
家族くわせるために、パパが耐える。ママが耐える。
 でも、苦労に耐えても、本当に労働の割に賃金がめちゃ安い!
いつまで耐え切れるのかって感じだよねぇ。
 森の中の車中で親子の遺体が発見されたとかいうニュースを聞くと、経済的困難か、病苦かわからないけど、この日本でそれ以外の選択が見つからず、助けを求められる場所がなかったのかなぁ、といたましく思う。
 税金が高いくせして、国のセーフティ・ネットが全く機能していないことの表れだと思う。そして、それを汲み取れるだけの、セーフティ・ネットに関わる人たちの共感力がないんだよな。
 やっぱり、「これをどうにかするとしたら、本当は、フランス革命を起こすしかないよ!!暴動級だよ!」ってことで、民衆のリーダー、オスカル様がなんとなく選ばれたんじゃなかろうか。w って密かに思ってる。

 最近、たまたまyoutubeで、斎藤一人さんの一番弟子、柴村恵美子さんの豪邸紹介動画をなんとなく見たんだ。
 豪邸紹介っていうか、まぁ豪邸だけど、カーテンは2000万よ、とかこのドアは600万で、壁も綿が入ってて、〜は〇〇円は下らないって、ここは大理石のキッチンでいくらしたかなぁ...って、感じの動画。
 バブルの昔ならば、物珍しさが手伝って、「へぇー、お金がたくさんあるとそういう使い方なんだ〜」と興味深く見てたはずの映像だったんだけど、
この世相で豪邸紹介とか見ると、その金があったら、巷でご飯も食べれず、進学もおぼつかない子供にそのお金あげればいいのにな、って思ってしまう。

 どんな意図があって、自分が金を持っていることを動画で流すんだろう?
と、すでに良い年齢超えた、まるかんのえみちゃんの意図がよくわからない。

 ここは5つもセキュリティをこえないとここまで入れないんですよ、ウフフ、すごいでしょう?
 って、動画の中で満足げな柴村恵美子社長の話を聞きながら
 私はふと、京都の人がこの番組を見たら、
「金持ちになると、自ら5層の檻に入って、ガッチリ鍵をかけないと日々、安心して寝れない生活なんやね〜w 窮屈やな〜」
とか、さらっと呟きそうな気がしたんだよね。(京都弁、間違ってたらごめん。w)

 基本、彼らは東京人や他の地方人と違い、金持ちや有名人だからといってそういう人にへつらうことは愚か、頭から羨ましがることはまずない。
 自分達は、もっと大切なものを知っていると思っているからだ。
 彼らがメディアで称えられるような人を認めるときは、確かに本物の実力を持っている、と実際に本人に会って、人格や実力が伴っていることが確認できたときだ。何事も自分の目で、本質をしっかりはかる。
 元々商売気質で自営業の街だが、本当の京都の人たちは、金は手段として割り切り合理的に捉えるが、だからと言って、お金に人生哲学を簡単に動かされる人は野暮だと思っているし、お金は本来、もっと価値のある大事なものを生かすために使うべきもの、というような、そういう種類のプライドを心の奥に秘めている。

 私としては、京都人のプライドに見合うものまではないかもしれないが、大富豪まるかんのえみちゃんの動画を見ても、
どんなにあんたが金持ちだったとしても、今、子供と子育て世代を守らなかったら、二十年先の日本の未来はないんだよ。って、ドライに思ってしまう。
 子供を守ることは、日本の未来を守ることなんだから。そして知恵を受け継げる賢い子供たちがいれば、長い歴史を持つ日本人が祖先からずっと守ってきた価値あるものがこの世から消されずに済む。
先祖からいただいた愛のバトンを次に受け渡すことができる。
そっちの方が、この先の世界にとって大きな意味があると考える。

 今度のインターナショナル・スクールの総校長も、面接の時に親の私たちにこう言ってた。
 世界の状況を掴むほどに、教育後進国の日本が今のまま教育の本質を見失っている限り、今後は国として存続できないかもしれないという危機感が募ります。資金がなければ、システムが回っていかない事情はあります。だから、今はゆとりのある人しか通えないとしても、私の心の中では、正直、誰の子供であっても良いから、国を立て直す力を持つ子がいるならば、この国のためにそんな優秀な子供たちを日本人全員が無条件で応援され、社会に送り出されていかなくてはならない状況にあると思ってます。
 私たちは日本で、国が全くやらない教育の仕組みの土台になるようなものを具現化することで貢献したいと思っていますと。

 もう、自分の子がどこの学校に行ったとかいう狭い視野を超えていかないといけない。日本の子供たちの可能性全体に目を向けないと、日本の国体そのものが危うい状況だということをこの学校はしっかりわかっているんだよね。
 私がプロファイリングの時、子供の将来性が関わってきた場合は料金以上に詳しく子供の才能を見るのは、自分の立場から少しでも貢献したい、そういう意図もある。うちの子でなくても良い。才能のある子供は、どんどんプッシュして、花開いていってくれ!という強い願いなんだよ。
 子供は、個人の欲得を超えて、国民全員で育てていくべき存在だと思う。

 今回の下の子供の卒園。これにもいろいろな思いがあった。
本番の式の後は、私は早々に引き上げて、あとのパーティなどはピカチュウにお願いした。私はこの茶番には参加したくないが、ピカチュウは子供のために参加させてやりたいというので、ご自由に、と任せた。

 地方でこれ以上どうやって切り詰めればいいのか...と小さい子供が二人いる夫婦が頭を抱えて、年収210万円で必死で生きてる一方で、下の子供の幼児園の卒園式の何万円もかけた謝恩会では、子供たち全員がパーティドレスで参加していたそう......。この園では、普段着指定されていても、これが普段着、とばかりに、園の行事のクリスマスパーティでは、子供たちが当たり前のように全員、大人顔負けの豪奢なドレスを着てくる幼児園なので、さもありなん。
それを聞いて、改めて複雑な思いになった。

 もちろんパーティドレスで楽しむ時間を持てた子供たちはよかったね、幸せな時間を送れていいね!って心から思えるけど、同じ思いを他の経済格差がある子供たちにも当たり前にさせてやれないだろうか、子供にとって夢のような時間を誰もにプレゼントさせてあげられないだろうかって、一方で思ってしまうんだよね。
 ましてや基本的なインフラ供給すら危うい子供たちが今いる。
 冒頭の潰れてしまった自営業者たちも、一人は私と同じ年の子供がいたし、もう一つの店の店主は大学進学で四人の子供の学資が必要な家庭だった。

 キリスト教的な考え方かもしれないけど、大してお互いをよく知ることもなく仲良くないのに、同じクラスに所属したからという理由で、3万円から6万円もかけて豪勢な謝恩会がやれるなら、シンプルにして、その分自分達が受けられた環境の恩恵を感謝して、他の厳しい経済環境の子どもたちが教育の恩恵を受けるためにその金額を丸ごと寄付することだってできると思うんだよね。
 謝恩会って正直、そんなにする必要あるの?

 そして形式主義になっている学校寄付。
元々営利の企業が作ってる金持ちの幼児園の設備にうん十万円も寄付するなら、お金がなくて、子供たちに十分に遊具も消耗品も揃えられないような園や支援団体へ寄付してあげたら良いと思うんだよ。
 自分の子供にはいくらでも金積めるけど、一緒に自分達の子供以外の子供も幸せにしよう、ってどうして、今の親たちは思えないのかなって思う。
 結局日本の金持ちって、みんな、強欲なんだよ。

 多分、海外なら、この私の発想はわかってもらえる。
でも、日本の金持ちの保護者たちには、つゆほどもこうした考えがないことが残念だ。

 私は子供が健康で卒園できたこと、特殊な教育を受けられたことを感謝するからこそ、他の子供たちにも同じような恩恵があって欲しいと思う。
 仲間と助け合える子供に!を園が掲げるなら、なおさら、自分達のようなゆとりのある幼児園に通えなかった世の中の「仲間」を助ける姿勢を持ったっていいんじゃないのかなって思う。

 上の子供が別な幼児園に通っていたとき、日本の幼稚園と今の幼児園と何が違う?って聞いたことがあるんだけど、
その時上の子は
「普通の日本の幼稚園に通っていたときは折り紙一枚がとっても貴重だった。欲しくてももらえなかった。でも今の幼児園は、欲しいだけいくらでも折り紙も塗り絵ももらえる。失敗してもまたもらえるから大丈夫。」
って答えたんだよね。

 充分にもらえない子供たちと、有り余るほどもらえる子供たち。
 両方の保育施設を見てきたから、この格差が想像以上に、ものすごく大きいことを私は知ってる。
 日本の無償化保育で教育の経済格差が解決されたようには見えない。それどころか、もしかしたら、経済格差がさらにはっきりした、と言えるかもしれない。無償化の前の、扶養控除で恩恵を受けていた時代と違い、各家庭が無償化対象幼稚園に囚われて選ばざるを得なくなり、自由に幼稚園を選ぶ選択がなくなった。
これが園の文化なら、そこでうちの子供だけ私の信念に従って、パーティで普段着を着せるみたいなことをやると、ピカチュウが子供を傷つけることになると怒り出すので、間をとって、うちの子供もドレスを着る。年に何回もでる発表会に着るものにもなるので、むだにはなってないけど。
 しかし、パーティドレスを新しく何着も持ってる幼稚園児たちって、世の中でどれくらいいるだろうね?
生活を回すので精一杯な家庭にとっては嗜好品だと思う。
 だから、ドレスも自分の子が使った後寄付して、無償でレンタルして、保護者会が管理して、下の世代に回していけば、万一、経済的に大変な子が混じっていたとしても救われる。そういうことができるなら、伝統的にやったらいいと思うんだよね。

 けど、そんなめんどくさいことは金持ちたちはしない。そこに価値も感じない。世の中全体の必要性に目を向けることがなく、自分と違う人たちに関心を向けることもなく、視野も思考もものすごく浅い。
 私は一緒にいるだけで疲れてしまい、拒絶感がさらに募ってしまったのか、京都でしばらく元気にしてたけど、東京の卒園式から帰った後は、高い熱が出てしまった。
 自分達と同じ生活水準・同じブランドを持つ人とは協調するけど、日本社会みんなで共に発展していこうよ、という意識は皆無ってさ、
ちょっと昔の日本人って、そんなだったっけ?

私の知っている日本人は、近所のおっちゃん、おばちゃんがご飯に呼んでくれたり、我が子のように教えてくれたり、あったかく接してくれて、近所中が大きなファミリーみたいだった。
 正直、今の東京の金持ち親子には、違和感だらけだよ。
穿った見方をすれば、ドレスを着てパーティに出て楽しむ子供たちが世の中の縮図というか、特権階級に見えるわ。

私は、おんなじ地域の西松屋で「このズボンが欲しい。」って七百円のズボンをねだる子供に、一つを買うのに三十分も迷った挙句、「必要なものだけ!今日は、もうこれしか買えないの!」ってイライラして店で怒るしかない若いお母さんを見かける。
 中古屋さんで900円のプラレールを手に取って、「高いわ、買えないわ、ごめんね。」って泣く子の手を引っ張って出るお母さんもみる。

 子供にとっては大人の何倍も過敏な時期だけに、おもちゃひとつにショックや悲しみも残る。そういうのを見ると、すごい辛いんだよな。
 でも親が悪いんじゃない。親だって買ってやりたい。だけど、お金がない。
 子供と社会との間で板挟みになってるお母さんの心を考えると本当に辛い。
日本は先進国でもなんでもなく、今、かなり貧しい国になっている。
 金持ちですらも、心が貧しくなってる。

 教育の世界は原則的に、お金のあるなしで教えることが変わる世界であってはならない。全ての子供が教育による恩恵を平等に受け、そこは営利や社会的な地位といった外側からの利権が絡んではいけない聖域なのである。
 モンテッソーリ教育を主宰しているアメリカの建築家は、ヨーロッパの人は建築・芸術・文化・医療・教育を聖域として、しっかり区分けして政治判断し、聖域を守っていると言ってた。

日本の教育ははっきり言って遅れている。教育への意識も遅れている。子供の発達を効率的に促す教育方法があっても現場では採用されていないし、さまざまな部分に既得権益の障害があって、認可の幼児教育の変化スピードも非常に遅い。
 すると必然的に、良い教育、発達をデザインした教育となると、現実として営利主導の幼児園系が強い、ということになる。

 しかし今人気の幼児園というところは、基本的に特殊な教育をするところなので、保護者からすると、無償化のお金だけでは賄えないお金が非常にかかるところ。だから必然的に収入のある家しか子供をそういうところへ通わせることができないと言える。つまり、経済格差がそのまま幼児教育格差になる。

 子供の脳には臨界期がある。幼児期は特に大事だ。発達に必要な刺激をきちんと入れてやることで、伸びる能力があるのに、教育費をかけられる家庭は先端教育を受けられ、そうでないところに生まれた子供は、得られないとしたら、それってどうなんだろう。
 無料の園で得られる社会体験は懐事情があるので必然的に乏しくなる。私立ならもうちょっとゆとりがあるか。幼児園なら、これでもかというくらいイベント三昧だ。どこに生まれたか次第で、経験や将来のスキルの差になる。
「親がちゃ」とか言われてるけど、親に責任があるというより、結局この国のシステムに問題があると思えるんだわ。

 私は自分の子供で手一杯で毎年、経済困窮者の子供のサポートのための支援金を出すことくらいしかできないけど、本来は国がこういう世界を作らないように政治の舵取りしなくてはならなかったはず。
 金持ちも、もっと考えてほしい。
本を寄付するとか、ランドセルを寄付するとか、なんでもいい。
親の生活水準から言ったら、絶対に連れて行ってはもらえないかもしれないオペラやアイススケートショーや能楽、舞台を観せるための寄付を小学校・中学校にしたっていいはずだ。精神を肥やすための体験するにはお金がいるんだから。精神が豊かでなければ、創造性は高くならない。

 柴村恵美子さんも、2000万の自動で動くカーテンを眺めて満足するならば、2000万の学資を得られたおかげで、意気揚々と未来を切り開く若者を眺めて、自分の幸せを感じられる感性を持ってほしい。
 戦前の金持ちは、日本のために資金を提供した人がたくさんいた。今の日本の金持ちが、自分のことだけしか考えなくなったのも、時代性なのかもしれない。ちょっと気持ち的に疲れているのかもしれないけど、卒園式を通して、そんなふうに思った、今日この頃だった。
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