HSPは、陰謀だよ

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写真のレシート見て、なんか気がついたことありません?
いや何を買ったか、とかそういうことではなく....

東京に帰るので京都駅でお土産を買ったんですよ。
そして渡されたこのレシート。

ちょっと真ん中が折れているの、わかります?
これを見た瞬間、京都駅のモールのお土産ショップの店員さんのささやかな愛に思わず感動しちゃったんですよね。

レシートって元々ロールになってるので、出てくるとくるっと丸くなって出てきます。たまに何気なく捕まえようとして、レシートが逃げちゃうことがあってどこかに飛んでしまうこともある。
 だから、この店員さんは、取りやすいように、お客さんに渡す前に、ちょこっと真ん中をわざわざ折るという気遣いをしてくれていたんです。

観光客で忙しい、京都駅ですよ。
にもかかわらず、そういう相手への思いやりや心遣いができる京都の人ってすごいなぁと思ったんです。

そして、京都駅を利用する他県民が、こうした細やかな情の配慮を京都の人にかけられていたとしても、そこにどれほどの人たちが気がつけるのかということも思いました。

京都人といえば、火曜サスペンスドラマに出てくる豪奢なお家元とかお家騒動の複雑な職場や鼻持ちならない態度が度を越して殺されてしまう役みたいなのが、京都人のステレオタイプだと思ってやしませんか?w 
ほとんどの京都の人は、それとは絶対違うからね。w

観光に来た時、ちゃんと京都の人の優しさも見えてるといいなぁと思って。

 見るひとが見たら、ただのレシートです。
どう思うかは自由だけど、かけてくれた愛に気がつけたら、相手に感謝したくなる。幸せな気持ちをもらえる。良い念を送りあえるんです。
それが本当の一期一会。

こうした細やかな感性がまだ残ってるのが、西だと私は思うんですよ。
相手に嫌な思いをさせないためのサービスだけじゃなく、相手がどうしたらもっと心地良くなるだろうか、という優しさの表現がある。

こういう気遣いって、いまの東京にどれだけ残ってます?
効率を追求しても削っちゃいけないものがある。
東は、そこをだいぶ削ってしまったような気がします。

多分、この話を東京の誰かに言ったとしても、予想される反応は、
「考えすぎ」「深いね」「神経質な人」という評価で、共有するものがなく、
ふ〜ん、と終わってしまうんじゃないかと思います。
自分のわからないことは、自分の勉強不足を疑うのではなく、さっさと簡単に切り捨てる、そんなのが東京での当たり前になってきました。
わかりやすいところで「ひろゆき」氏みたいな人間が増加中です。
 どう生きるのも自由で、間違いと言えるものではないですけど、私はそれが東京の孤独や世知辛い環境を作ってると思い、この環境は苦手だなぁと思いました。

昨日はね、京都の町屋に行ってきました。
元々自分は骨董とか好きで、町屋も古民家も好きでどこの都市に行ってもこういうのを結構見て歩くので、ある程度、古いものの豆知識は増えていて、立派な町屋の作りの細かな部分にいちいち感激していました。

 鉄道オタクたちが写真に収めるのは、電車の全体像だけでなく、案外プレートや部品だったりします。
 部品が写った写真を見ても、見る人には「なんでこんなものを写すんだろ?」と不可思議に思われるだけかもしれません。
でも、物を知る、ということはもしかしたら、そういうことに近いことなのかもしれません。オタクのような観察眼が必要なんです。

町屋だって、ただの古い家に見えるかもしれない。
でもその細部を見れば、当時の生活の工夫だったり、建具ひとつ、職人技の集大成なんですよね。その土地の気候の特性などがわかることもある。

 普通の町屋以上に立派な梁や昔の手作りガラスに食いついている私を見て、
私にはわかるかもしれないと思ったようで、京都のその町屋を管理している職員さんがこんな接客体験を教えてくれました。
この町屋に、フランスの庭園を作るのが仕事だという、造園士さんが来られたことがあったそうです。
その時、やっぱり、この町屋の小さな庭の一本の木を見て、感動して立ち尽くされた。
そして、彼は、こう言ったのだそうです。

「これは、本来ここにある木ではないはずだ。この庭園のデザインを壊してしまう一本になってしまうから。」
「つまり、明らかに、この庭を造作した後、何処かからタネが飛んできたか根っこがのこっていたかで、生えてきたものなんだ。」

そして、フランスの造園家は、

「この家は染色家の家で、上級なお客さまを通す場所として作られている。建築ひとつ見ても、これだけ美のこだわりを持ってるこの家の主人なら黄金比や造園の教養も当然お持ちで、当初から、ということなら、この木があることの、デザイン的な違和感を感じなかったはずがない。」
「それでも、ここにこの木があるということは、たまたま芽を出して一生懸命伸びてきたこの木の命をこの家の主人が優先したからなんだ。」

「つまり、この家の主人は命の尊さを知っている人だ」
と言ったのだそうです。

完璧を目指す職人でありながら、自分の強いこだわりを捨ててまで、一本の木の命を優先した。
そこに日本人の命への敬意の深さを感じ取って深く感動したのだそうです。

どう思います?
プロファイリングと似ているな、と私は思ったので、強く共感しました。

多分、大方の人は、この人がフランス人じゃなく日本人で、もし友人がこんなことを語ったとしたら、大して感動しないんじゃないでしょうかね。
そして「深いね〜」とか「考えすぎ」っていうんじゃないですかね?
「いちいちそんなこと考えて生きてたら、疲れるよ?」って。
この言葉、今の東京ではよく言われる言葉です。

でもね、このフランス人は自分の仕事に打ち込んできたからこそ、この家の職人の心を、文化が違うのに、物を通して感じ取っていたんですよ。
 フランス人はこういう感性を大事にするところありますよね。
私が教養のある京都人と教養のあるフランス人が似てるな、と思うのはそういうところなんですよね。
実際、フランスの方が京都に来られる割合も多いようです。

 もちろんこの話は、国籍や出身地でわけられる話ではなく、フランス人も京都人も色々いると思います。
 でも浅いのがスタンダードなエリアからきている自分としては、深いことを大事にする京都はすごく共感できる部分が多いんですよ。

もし、これから先、人類がこういう感性を大事にしなくなったら、この世界どうなっちゃうんだろうって思うから。

レシートひとつに感動する私も、庭の不自然な雑木ひとつに強く感動するフランス人も、間違いなく今で言えば、HSPに分類されるでしょう。
 自分で調べても、ああ確かに。HSPとするならば、条件には当てはまるだろうな、と思います。


でも、同時に違和感を覚えるんです。
これって必要な分類ですかね??

少数の高い感受性の人間が診断名や障害のように扱われるって、ちょっと違和感感じません?
本来、何万年も前から、人間の一定数は感受性が高かったんで、「今更それが何?」ってことなんです。

私のところにも「私、HSPなんです」、「私傷つきやすいんです」、「私には周りの理解や気遣いが必要なんです...」って、意図でご相談に来られる方がいらっしゃいます。
でもね、はっきり言わせてもらいますと、
あなたがHSPだとしても、ならばあなた、その感受性の使い方を随分間違ってるんじゃないですか?
って私は思うんですよ。

HSPは、自分の繊細さを公式に認めさせて、自分の都合に合うように周りを動かすためのものだとしたら、そんな診断ない方が良いです。周りに傷つきやすいので傷つかないように接してね、っていう印籠にするなら、です。

本来のHSPの人たちのその繊細な感受性の使い道は、
「人がかけてくれた、愛や優しさに人一倍気が付くためのもの、そしてその愛を周りに伝えるための感受性」なんですよ。

このフランス人がいい例です。
傷つきやすい、人とは違う、こんなことはどうだっていいんです。
高い感受性を本当に生かすように育てていくのは、自己責任だし、自分の生き方ひとつ。自分の負担にならない環境に移動するための指標にしたり、自分らしさに回帰していくのはいいと思う。でも自分を人と優劣区別するために使ってもそこに救いはありません。

自分の繊細すぎる感受性を、この世でどう役立てていくのか。
HSPの診断や判定を得たからって、人生何も変わりません。
特質を知って、どのような環境なら自分を生かせるのか、それを自分に問うための指標でしかないんだ、ということを忘れないでほしいんですよね。

自分が感受性が高いことで、傷ついたこと、傷つけられたこと、失敗したことにフォーカスするのではなく、感受性が高いことで気づける「愛」にフォーカスして生きることの方がよっぽどこの特徴をうまくいかします。

そしてね、これはひとつの陰謀だと思います。
だって、考えてみてください。大手マスメディアを使ったり、「常識」という括りで、大方の人の感性を同じようにコントロールしたいと権力が考えるとしたら、その時邪魔になるのは、HSP基準に当てはまるような感受性の高い人間です。
 みんなは黒と言っている、だけど黒の中に混じっていられない。
自分は白だと思う。どうしても自分の感覚に嘘はつけない。

そうして、センサーが高いからこそ、言葉にならない世の中の異変にすぐに気が付く人たちでもあるはずです。
こういう人が「私、違うと思います。」って声を上げたとしたら、人類を定型規格にして合理的に洗脳したい人たちは、慌てますよね。
 黙らせたいから、HSPという新たな概念をこの世界に普及させるんです。

「いいですか、皆さん。たまにおかしなことを言う人がいますが、そういう人は、HSPという特殊な人たちなんですよ。気に留めないで見つけ次第、そういうのは無視してくださいね。」
っていう呼びかけが公式にできるようになるために。

コロナの情報がいっぱい出てきた時、違和感を感じ、アカデミックな立場から告発した人は、全て陰謀論と片づけられました。
それと似てますよね。
HSPの人に、耳を貸さないように、あの人たちは変なんです。って。

だからね、騙されちゃいけませんよ。
 もしあなたが感受性が高い人ならば、ギフトだと思うべきなんです。そして、高い感受性(右脳)だけを暴走させるのではなく、適切な知性を使って、専門性の高い分野で自分にしかできないことをどんどん勉強し、みがいてくださいね。

だってね、いってみれば、霊能者だってHSPですよね。
だって次元を超えた生命を捉える五感を持っているんですから。
しかしこの人たちを病気として完全否定してしてしまったら、「可能性」も同時に閉じられることになり、世の中から「突然のひらめき」もなくなる。

もし、この世を支配したい存在がいるならば、そういう宇宙と繋がっている人たちが一番厄介なんですよ。自分達の牧場の羊に、知られたくないことを吹き込むから。そのカラクリにいい加減、気がついた方が良いと思います。

日本人は、京都に文化のルーツを持ちます。
 でも生活していて、そもそも日本の標準とされる東京の大事にする価値観の軸と京都の大事にする価値観の軸はだいぶ違うなと思います。
だから私は、大手テレビの流す京都情報を頼りに、東京の軸で京都を測りつづければ、一生京都は理解できないことを京都に来るたびに強く感じるんですよね。

 例えばですが、京都人の婉曲表現に困惑する関東人は多いですが、そもそも京都というのは、自分の感性を上げないとわからないものがたくさん溢れています。

 本質的に京都の残されている文化って、冒頭のフランス人のように、感性の高い人間へ毎日の繰り返し型の中でコツコツと向上の努力を積み重ねて至っていこうとする世界なんですよ。
茶道とか、より、そうだと思います。

 万一、古くからの京都の人で、ステレオタイプと思われている、意地悪で厚かましい人がいたとして、さらに伝統ハラスメントを行うような人と出会ったならば、その人は実は京都人とは言えない人です。
 その人は京都の大事な心を忘れてしまった人と言っていい。日本人の根っこの精神を忘れて、ただ肉体だけが京都所属なので、京都人を誇りにしている人、と思って良い。

 だってね、京都の教養層が高い感受性を身につける中で、本当に目指していた世界は、人を見下すため型にこだわり、知識で優越する世界じゃないです。
むしろ高い感性を持つことで「自分の周りに溢れる多くの細やかな愛に自分が気が付けるようになること」すなわち「宇宙と調和していくこと」なんですよ。

 日本の伝統文化が目指している先にあるのは、平和と本物の調和です。自然界からの愛、宇宙からの愛、師からの愛、子供からの愛、今かけてもらった一言の中にある愛、そういうやりとりを感じ取れる人間になることなんです。
 そして心を素直に澄み切った状態に保ち、自分の持つ歪んだ認知のフィルターでただの事象や物ごとをさらに歪ませないようにするスキルも磨いていました。

晴明神社は、実は晴明さんの居宅であっただけではなく、千利休が居宅にしていた場所でもあります。
千利休は、そもそも茶人ではなく、禅僧でした。
陰陽の統合思想の世界を、戦いに明け暮れる武士たちに向けて、茶道の型を通して体験させました。千利休は、無骨な武人たちに、茶を一服すするというだけの行為の中に、この世界の味わいを教えました。
 物事の深みを探求する価値を教え、文化やアートを通し、無骨で荒れた彼らの心のうちにある細やかな感性を静かに発掘していきました。
武人も感性が細やかになると同時に、浅い感情に任せた無駄な戦いをしなくなります。平和になっていきました。

 最近、ニュージーランドのマオリのシャーマンのインタビュー動画を見たんですが、その長老が話す、日本の役割っていうのは、つまりこれ。
日本人が目覚めた時に、目指すのはこっちの方向だと、私は思うんですよね。

 アメリカンドリームのヒーローのようなリーダーシップが日本人のリーダー像ではないと、動画で長老は語っていましたね。
だとしたら、どんなリーダーシップが発揮できるかというと、日本人の役割は、これから先の人間の高い感受性を発掘することを手伝い、理性と感情の世界のバランスを図る生き方を実社会の中で完成させようとしていくことだと思うんですよね。

細やかな愛を傾け、その細やかな愛に気づく。
それが本来、日本人がもつ精神世界なんですよ。

それは気遣いする、気を遣って自分を抑え込む、とかいうことじゃないです。
 自分の価値観の中では存在しなかったために気が付けなかった、相手の「してくれたこと」に気がつき、そこに感謝して受け取る心だったり、逆に自分が相手にほんとうに必要なことはなんだろうと想像して動くことだったり。
 日本文化の根っこにあるのは自分を取り巻く「愛」にどれだけ敏感になれるか、ってことなんですよね。察する文化というのは、愛を察する文化です。

 日頃、並木さんの統合の話をそのまんま受け取ると、ルールばかりが増えたようで、普通の人は何が何だかわからなくなると思いますが、要は彼が言っているのは、「高度な愛に気が付くようになればなるほど、かなり達観した理性的な愛の世界が開かれてゆくようになるんですよ」ってことなんですよね。情の世界を超えた先に、次元を超えたすごく静かな世界があり、そこに至るまでの価値観のプロセスが必要になります。

京都の禅の世界は、そういう次元にまで武人を引き込む力を昔は持っていました。今の禅は(自分が触れていないので)、どうだかわかりませんが、でも本質的にそういう世界だったんですよ。

 世界中の感性の高い人たちを、京都が惹きつける理由ってここにあります。世界の人が日本文化に何かがあると思ってくるのは、それを知りたいからです。

自分は京都の出身じゃないですが、京都のひとは「この人はちゃんと理解する感性を持った人だ」と判断してくれた時には、「本当の京都を知ってほしい」
「火曜サスペンスドラマで伝わっているようなのが、本当の京都じゃないんですよ。」「語ってもらえなければ、大事なものが知られないで終わってしまう。」
...って、「あなたが語ってください」と色々教えてくれたりする人もいたりします。京都の文化を愛する人の中には、それだけ日本の今に、危機感を持っている人もいる。

そして、多分京都生まれの京都人の若い人たちは、自分を取り巻く環境がどういう意味を持つのかを感覚的に理解しつつも、外に表現するような言語化は非常に難しいことだと思います。

 私がよそ者だから、語れる京都もあるってことだと思うんですよね。

京都は、感受性の高い人へこたえてくれる物がたくさんあります。真剣に自分の道を生きなければ、開けられない深い世界への扉があります。

 京都の「生きることに打ち込んでいる人」というのは、京都の町屋のようなところがあります。人を入れる間口は狭いけど、一旦入ったらそのどこまでつづくかわからない奥の深さにびっくりさせられるんですよ。
そして隣家と自分の家の壁の境界がよくわからないように、人間関係のネットワークが張り巡らされて、すごく密着しています。

面白いことに京都の町屋は、そこに暮らす人たちをそのまんま語ってくれているんですよね。


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