Aus der Wahrheit Feuerspiegel
Lächelt sie den Forscher an.
真実の火鏡から、
喜びは、学者を見て笑っている。
Feuerspiegel、火鏡とはなんぞや・・・という謎。
シラーの創作、造語らしい。「解釈による」ので、何を指すものなのかは、明確にされていないようです。
んで、火で連想するのは、拝火教=ゾロアスター教。または太陽。
先日ご紹介した動画でも、キリスト教の成立にはゾロアスター教の要素が含まれている、とのことなので、この解釈も別におかしくはないかもしれない。
また、日本的解釈では、火=△、水(鏡)=▽、カとミでカミ=✡
鏡は、日本でもご神体として考えられています。
だが、ギリシア神話の中で火とくれば、プロメテウス、人間を作り、人類に火をもたらした神がいます。多分、この神様のことじゃないでしょうか。
真実の火の鏡から=真実の原初の火を映す神から、プロメテウスの鏡から、
喜びさんは、学者を見て笑っている。
鏡から見て笑っている・・・プロメテウスが、「ほーほー、そこじゃないのになぁ」とクスクス笑っているのかな?という想像をしてしまいました。
神=鏡という想像もあながち間違いではない、ということを後日ご紹介します。
私がこれに気づいた時、軽いめまいを感じました・・・。
みなさんにも、そんな「軽いめまい」を感じていただけたら、すごく嬉しいです。
キーワードとして鏡をわざわざあえてヒントのように持ってきたんじゃないかなーという気がします。
第一節の「エリジウム」もそうなると、キーワードとして出してたんだろうなぁと。つまり「ギリシア的な世界観で読め」というヒント。
前回の「予言者の筒は喜びの作用について知らない」ということを踏まえると、学者たちが必死に探し回っているものは、そこにはない。見当違いなところばかり探している、という感じでしょうか。
「そんなところをのぞき込んだって、意味がない」…「神はそこにはいない」「神だと思っているものは神じゃない」・・・「人類起源の謎の答えはそれじゃない」という意味だとしたら、予言者とか、学者とかは、喜びの作用について、感知してないから、真実は見えてこない。という感じでしょうか。
喜びこそが天空の仕組みを動かす原動力である、神も人類の謎も、喜びという要素なしには解けない・・・。
聖書をどんなに研究しても、望遠鏡で眺めても、顕微鏡をのぞき込んでも、真実は見えない。
だけど、一つの分からない謎の答えを求めて、あらゆるところを引っ掻き回し、ひっくり返してのぞき込んで・・・好奇心むき出しにしている人間を見て、「楽しそうじゃん」とプロメテウスが笑ってくれるなら、それはそれでなんかイイネ。
毎日、ワシに内臓食われるなんて刑まで受けて、それでせっかく作った人間が死にたくなるほど苦しんでいたら悲しいもんね。
そんな思いまでして人間を作って、人類が寒くないようにって火をくれて・・・それでひどい罰を受けているのに、当の人間が自分で自分を苦しめて喜びを感じることができなくなっていたら、きっと悲しむと思うよ。
毎日内臓を食われている痛みよりも、もっと苦しいと思うよ。
こんな罰を受けた甲斐があったよ、と思ってもらえるような素敵な生き方が、みんなでできたらいいねぇ。
それで、いつかプロメテウスの刑が終われるようになったらいいねぇ。
自然神である、喜びによる循環システムの世界ということから、以下の内容を見ていきましょう。
Zu der Tugend steilem Hügel
Leitet sie des Dulders Bahn.
喜びは、忍耐の人の軌道を、美徳(へと続く)しんどい坂道の丘(単数形)へと導く。
Auf des Glaubens Sonnenberge
Sieht man ihre Fahnen wehn,
Durch den Riß gesprengter Särge
Sie im Chor der Engel stehn.
信念の星々の山(複数形)には、喜びさんの旗がはためいているのが見える。
そして、こじ開けた棺の隙間から、喜びが天使のコーラスの中にいるのが見える。
・・・この意味の分からなさをどう考えていきましょうか。
まず、注目したいのが、steilem Hügelと、Sonnenberge。
Hügel(単数形)は丘、小山です。一方でBerge(複数形)で山。高さ的には、山の方が高い、しかも複数形。
喜びがあるところというのは、自然や循環、天からのインスピレーションとか、そういうものに宿っている。
なので、忍耐とか我慢とか修行とかそういうのが好きな人たちには、喜びさんはあえて「しんどい坂道の丘」を示す、のではないでしょうか。単数形ですし、キリスト教的な「自己犠牲」みたいなイメージになりますよね。
「そんなに忍耐強い人ならば、忍耐が好きなのね!じゃ、しんどい坂道を登っていけばいいのではなくって、おほほほほ」と・・・。
そして、頂上にたどり着いてもせいぜい「丘」。忍耐、美徳だけでは高いところまでは行けないよ?ってことかなぁ。
それに宗教というのは、人に限界を設定してしまいます。唯一神の宗教でしたら、頂点も一つ。それ以上のものはない、それが真実、それが真理という理屈になります。
聖書や聖典、マントラをいくら読んでも、暗記したとしても、その宗教が設定した頂点までしか到達できない。
誰かが「これが真理」と設定したことを頑なに信じる以外の道がない。それ以上、それ以外には行けない。
一方、信念の人々が登る山々は、我慢や忍耐ではなく、自分の信じる道を自分の意志や好奇心で嬉々として登り、その上にはそれぞれ、喜びさんの旗印がある・・・なーんてどうでしょうか。
誰に言われたからでもない、自分がそうしたいと思ったからそうしているだけ。誰に許可を求めるものでもないし、誰かにお伺いする必要もない。それぞれの意志に従って、昇る山も違うので、複数形になる。頂点も一つじゃない。
さらに、その次の、「こじ開けた棺の隙間から、喜びが天使のコーラスの中いるのが見える。
こじ開けた棺・・・復活、ですかね。天使のコーラスが祝福してくれている。「おめでとう、こっちが正解!」ってこと・・・。
現にキリストは、自分の信念に従い行動して殺され、その後復活している。
キリスト教は輪廻転生システムじゃない。信者は死んだら天国か地獄かの二択。
キリスト自身の生き方と、キリスト教信者の生き方が違っているんですよね。
キリストを信じるんじゃなく・・・・キリストのように生きよってことですかね。
Chor
Duldet mutig, Millionen!
Duldet für die beßre Welt!
Droben überm Sternenzelt
Wird ein großer Gott belohnen.
勇敢に耐えるのだ、人々よ。
耐えるのだ、よりよい世界のため。
星のテントの向こう、その上だ
偉大なる神が褒めてくださる。
ここの神は単数の神・・・だから、キリスト教的な神と一瞬思ってしまうけれど、違うみたいなんですよね。
Droben überm Sternenzelt
キリスト教的な神は、überm Sternenzelt。星のテントの向こうです。
この Droben überm Sternenzeltは「星のテントの向こう、その上」です。
「星のテントの向こう、その上」にいるのは、偉大なる神。これは、キリスト教的神とは別の神である「未知なる者」ということになります・・・。
「未知なる者」は、調和、天体をつかさどる神、自然循環サイクルの世界です。
キリスト教的な考え方が一般的で、それ以外認められないという世の中だけど、みんな耐えて!頑張って自分の意志で山に登ることを諦めないで!星のテントの向こう、その上にいる調和の神は、ちゃんとそれを見ててくれる。絶対に褒めてくれるから!
シラーも、少数派として生きる息苦しさや憤りを知っていたので、信念の山のしんどさは知っていたはずです。
人からそしられ、理解してくれる人もいなければ、気持ちが折れても当然です。馬鹿にされる、無視されるだけならまだしも、嫌がらせされたり妨害に合う人だっている。
それでも、シラーには多くの有力な友人、金銭的にサポートしてくれる人もいた。だけど、現代では、一人でこの山に登るのは・・・よっぽどの覚悟を要求されるでしょう。
英雄と称していい存在です。
耐えるのだ!よりよい世界のため!
シラーはその苦しみを分かってる。その上で、頑張れ、負けるなって言ってる。
シラーは、この詩を万人に向けて書いたんじゃない。
信念の山に登る勇敢な英雄たちに向けて書いている。
その証拠に、誰か他の人の言う「真実」「真理」を信じて丘に登る人には(この場合は敬虔なキリスト教信者、聖書をちゃんと信じている人たち)、この詩の意味が理解できないようにできている。
これは、年末にみんなで仲良く手を繋いで意味も分からず歌うための詩じゃない。
こんな理不尽な世界で、悲しみや苦しみ、無力感ややるせなさに耐え、それでも信念を持ち続ける人が自分を奮い立たせるために読む詩だ。
注)・・・私個人の自分勝手な感想です。年末に酒飲みながら意味も分からずベートーヴェンの「第九」を歌ってください。ベートーヴェンだって、詩の意味、分かっちゃいなかったんだから(多分)