娘に、そのDV男との対決の役を押し付けて・・・
娘を守るためにといいつつも、結局隣人に頼り、彼を殺人者にした上・・・最後の最後でこの女は「良心の呵責」で、自首をする。はぁ?!ですよねぇ。
散々周りの人間に面倒押し付けておきながら、なんです?この女は!!
選べない、決断できない、責任を負いたくない、行動しないというだけで、周りの人々をどんどん不幸に巻き込む女。
数学教師の愛に気づいていながら、自首するという最悪の形で彼の愛を拒絶する。だが、本人自覚なし!
これは、立派な魂の殺人と呼べるのではないでしょうか?
恋愛法廷では、このヒロインの罪はかなり重いですよ、きっと!!
良心というものがあるのなら、彼の魂の救済をすべきだったのです。
彼が身を挺して、踏み台になってくれたのに、今更拒否するという・・・血も涙もないのか、この女には?!
いや、拒否すらしてないんですよ。スルーです、完全スルー!!
男の命をかけた純粋な愛の告白を、平気で無視することのできる無神経で鈍感な女。
むしろ自首したことで「私は法を順守する市民です」という大義名分を手に入れる。
こうなると犯人の男が「法や秩序などどうでもいい」捨て身になって偽装工作したこと、「彼女とその娘が幸せに暮らせたらそれでいい」愛の下に誠実に行動した彼が・・・
ただの「外道」「非道」そのものに落ちてしまうんです。
自分だけ安全圏にいることができる。
捨て身の犯人が、「超えてはいけないラインを超えた」人でなしになるだけ。
ここまで、この残酷なことを、この女、無自覚でやってるんです!
自分は正しいことをしたと思ってるんです!!
こんなことされて、それこそが「女」というものである、と達観してる男性がいるとしたら・・・
もはやマゾです、それ。
ガリレオ教授が絡んでくるということが、犯人の緻密な計画をほころびさせる悲劇の始まりだった・・・と、解釈することもできますがー。
そもそもでこの女の覚悟のなさを計算に入れてなかった犯人のミスですよね。
この犯人、「女」について何も知らないんですよ。可哀そうに。
だから、選んではいけない女を選んで、破滅する。
ドイツ語で、zweifelnという言葉があります。
「疑う」という意味です。
ドイツ語、おぉ~と思うどころか、時々ぞくぅ~としますよ。
zweifelnに接頭語のver-を付けますとverzweifeln。
ver-という接頭語は「除去」や「排除」「消滅」というネガティブな意味を添加することもあるのですね。
verzweifeln・・・絶望する
彼女は自分を受け入れてくれるだろうか?
だけど、どうだろう、ひょっとして、もしかして・・・などとグダグダ考えて、相手の気持ちを疑える状態というのは、まだ最悪ではないのです。多少の希望が残されてるからこそ、人は疑うのです。
すべての望みが絶たれた時、疑いの余地もない時、それが絶望なのです。
「ない」ものは「ない」。それを直視する時、その絶望に耐えられない人は、発狂するのです。
あの数学教師のように。
フツーの女に純度の高い愛をぶつけると・・・核反応起こして大惨事という最悪の例がこの小説ですよね。
東野圭吾さん、あなた・・・頭の中どうなってるんです?!