JWとしての自然消滅

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Eテレ ハートネットTV「宗教2世」にちなんでわたしとエホバの証人2世との関わりを書いています。
富山県に越して半年後、新潟に戻ることにしました。
両親を養わないといけなくなったからです。
金澤、富山、新潟ではいちばん稼げたのが新潟での仕事の繋がりだったからです。
富山での職場の人達からは送別会の最後に「エホバが養ってくださるとの信仰でこの会衆に留まるべきだ」とかなりきつく言われてしまいましたが、それを振り切りました。
金澤にいた両親を連れて新潟に戻りました。
1998年から始まるデフレによる「失われた14年」始まりで、建設業界も工事単価が著しく下がって、収入が半分近くにまで落ちて、仕事の面でもストレスが溜まりましたが、職人として成長した時期でもありました。
結局、理不尽にも、気に入らないという理由でわたしのいちばん大切にしていた建設奉仕を取り上げた長老に頭を下げざるを得ない中で、忸怩たる思いでしたが、恭順を示すために開拓奉仕を再び目指すことにしました。
長老になって組織を変えたかったから臥薪嘗胆を気持ちで耐えることにしたのです。
やがて仕事が請負制になったのを機に正規開拓を申込み再開しました。
建設奉仕にはまだ行けませんでしたが、近隣の大工をしている信者を数人雇うことになり、彼らを送り出すことで組織に貢献する、と自分を慰めていました。
しかし、長続きはしませんでした。
さまざまな事がストレスとなり、わたしの心を蝕んでいました。
もともと両親は不仲でたびたび問題を起こし、さらに母親から虐待を受けていた過去があるので、せっかく独立できたのに、また同居するということ自体非常なストレスでした。
また、土日に布教するために平日は独り現場に残って夜九時まで残業する生活は疲労が蓄積して、精神衛生上とても悪い環境でした。
雇っていた信者はやはり週に3日しか来ず、おまけに集会の日は3時とか4時で帰るので、工事日数がかさみ、大赤字になりました。
やがて運転資金の目処がつかなくなりました。
追い討ちをかけるように、当時婚約していた信者から解消を告げられた事が重なりました。
鬱病になりました。
少しの休養を経て現場には戻れたのですが、やがて父が警察の厄介になり、それで鬱が悪化して、とうとう大工の仕事が出来なくなりました。
この事で珍しい苗字ゆえにもう、区域で布教すれば神の名前に傷がつく、もう出来ないと考え、開拓奉仕を降り、伝道にも出られなくなりました。
集会も人の多いところで過呼吸が出るのでやがて行けなくなりました。
そんな日々の中で、ネット上のエホバの証人関係者のコミュニティ「ヒロちゃん」を見つけました。
ここで、中にいては決してわからなかった「懲らしめの鞭」にまつわる残虐さや、組織の闇を知りました。
続きます。

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