「もう、わけがわからなくて」
カウンセリングルームに入ってきた彼女は、座るなりため息をついた。
クライエント「すみません、いきなり予約してしまって...」
ダイキ「いえいえ、大丈夫ですよ。今日はどんなことでお越しになったんですか?」
クライエント「なんか...最近、もう、わけがわからなくて」
そう言って、彼女は少し困ったように笑った。
クライエント「転職して、新しい仕事を始めたんです。それ自体は良かったと思ってるんですけど...でも、毎日が混乱していて。やることは山積みだし、覚えることも多いし、人間関係も新しくて。もう、頭の中がぐちゃぐちゃなんです」
ダイキ「ぐちゃぐちゃ...」
クライエント「はい。朝起きても、何から手をつけていいかわからない。仕事中も、あれもこれもって焦って。夜は疲れすぎて何もできないのに、頭は冴えて眠れなくて」
彼女は手元の資料を整理しようとして、また止めた。その動作に、彼女の内面の混乱が表れているようだった。
「しっかり者」として生きてきた
ダイキ「転職されてから、どのくらい経ちましたか?」
クライエント「...1年くらいです。もうそんなに経つのに、まだこんな状態で」
ダイキ「『もうそんなに』って思われるんですね」
クライエント「だって、普通はもっと早く慣れますよね。私、前の職場では10年以上働いてたんです。そこでは何でもスムーズにこなせてたのに」
彼女の声には、自分への苛立ちが滲んでいた。
ダイキ「前の職場では、スムーズだった」
クライエント「はい。むしろ、周りからは『しっかりしてるね』って言われてました。子どもの頃からずっとそう言われて育ってきたんです」
少し間があった。
クライエント「親も、『あなたはしっかり者だから大丈夫』って。だから私、いつも頑張って、期待に応えようとしてきたんです」
ダイキ「ずっと『しっかり者』として...」
クライエント「そうです。だから今、こんなに混乱してる自分が...すごく情けなくて」
彼女の目が少し潤んだ。
「頑張れば、なんとかなる」はず、だった
ダイキ「今は、どんな風に過ごされてるんですか?」
クライエント「とにかく、頑張ってます。朝は早く起きて、業界のニュースを読んで。通勤中も業務マニュアルを見返して。休日も資格の勉強したり、ビジネス書読んだり」
ダイキ「休日も...」
クライエント「はい。だって、早く追いつかないと。周りのみんなは当たり前にできてることが、私にはまだできてないから」
彼女は少し前のめりになった。
クライエント「でも、頑張れば頑張るほど、なんだか疲れて...集中力も落ちてきて。この前なんて、簡単な資料作成でミスしちゃって」
ダイキ「それは、どう感じましたか?」
クライエント「もっと頑張らなきゃって」
即答だった。
クライエント「まだ足りないんだって。だから、もっと早く起きて、もっと勉強時間を増やそうって」
ダイキ「...」
クライエント「でも、なんだか、体が重くて。朝起きられなくなってきて。それも情けなくて」
彼女の声が震えた。
「混乱してる」ことが恥ずかしい
ダイキ「...今、どんなお気持ちですか?」
クライエント「もう...わかんないです。何がしたいのかも、何ができるのかも」
しばらく沈黙が続いた。
クライエント「あのダイキさん、正直に言うと...」
ダイキ「はい」
クライエント「混乱してるって、すごく恥ずかしいんです」
ダイキ「恥ずかしい...」
クライエント「だって、大人なのに。いい歳して。周りはみんなちゃんとやってるのに、私だけこんなに混乱してて」
彼女はハンカチを取り出した。
クライエント「『しっかり者』だったはずの私が、こんなに...ぐちゃぐちゃで」
涙が一粒、こぼれた。
ダイキ「『しっかり者』だったはずの自分が、混乱している...」
クライエント「はい...だから、誰にも言えなくて。夫にも、友だちにも。『大丈夫、順調だよ』って嘘ついてて」
そう言って、彼女は顔を覆った。
しばらく、静かな時間が流れた。ダイキは何も言わず、ただそこにいた。
やがて、彼女は顔を上げた。
クライエント「...すみません、こんなに泣いちゃって」
ダイキ「いえ、大丈夫ですよ」
ダイキはゆっくりと話し始めた。
ダイキ「混乱してることが恥ずかしいって感じられてるんですね」
クライエント「はい...」
ダイキ「でも、少し考えてみてほしいんです。なぜ、混乱してるんでしょう?」
クライエント「...え?」
ダイキ「混乱するって、どういう時に起こると思いますか?」
クライエントは少し考えた。
クライエント「...わからないことが多い時?」
ダイキ「そうですね。他には?」
クライエント「新しいことに取り組んでる時...とか」
ダイキ「はい。つまり?」
クライエント「...あ」
彼女の表情が少し変わった。
ダイキ「混乱してるって、実は...」
クライエント「変わろうとしてる、ってことですか?」
ダイキ「どう思いますか?」
クライエント「......」
彼女は少し考え込んだ。
人生の転機には、必ず「混乱期」がある
ダイキ「人生の大きな変化には、段階があるんです」
クライエント「段階...?」
ダイキ「はい。まず、古い環境から『離れる』。次に、新しくも古くもない『混乱期』を通過する。そして最後に、『新しい始まり』を迎える」
クライエント「混乱期...」
ダイキ「その混乱期って、実はとても大切な時期なんです」
クライエント「大切...なんですか?」
ダイキ「はい。それまでの自分のやり方が通用しなくなって、でもまだ新しいやり方は確立していない。だから混乱する。でもそれは、新しい自分になろうとしている証拠でもあるんです」
クライエント「......」
ダイキ「今、どんな感じがしますか?」
クライエント「...なんか、少しだけ...楽になった気がします」
彼女は小さく笑った。
クライエント「混乱してることが、ダメなことじゃないって思えると...」
ダイキ「はい」
クライエント「でも、ダイキさん。じゃあ、どうすればいいんですか? このまま混乱し続けるのも辛いし」
ダイキ「そうですよね。少し、今の状態を振り返ってみませんか?」
疲れている時こそ、「頑張る」は逆効果
ダイキ「今、どのくらい疲れてますか?」
クライエント「...かなり」
ダイキ「例えば、10段階で言うと?」
クライエント「...8くらい、かな」
ダイキ「8...そうですか」
少し間があった。
ダイキ「その状態で、朝早く起きて、通勤中も勉強して、休日も資格の勉強をされてる」
クライエント「はい...でも、やらないと」
ダイキ「やらないと?」
クライエント「追いつけないから」
ダイキ「...今、ちょっと想像してみてほしいんです」
クライエント「はい」
ダイキ「スマートフォンの充電が、5%くらいしかない状態だとします」
クライエント「はい」
ダイキ「その状態で、動画を見たり、ゲームをしたり、いろんなアプリを立ち上げたら、どうなりますか?」
クライエント「...すぐに電池が切れちゃいます」
ダイキ「そうですよね。じゃあ、何をすべきでしょう?」
クライエント「...充電」
ダイキ「はい」
静かな沈黙が訪れた。
クライエント「でも...充電してる間に、周りはどんどん先に行っちゃう」
ダイキ「そう感じるんですね」
クライエント「はい。だから、充電しながらでも、何かやらないとって」
ダイキ「充電しながら、何かをする...」
クライエント「はい」
ダイキ「それって、効率いいですか?」
クライエント「......あ」
彼女ははっとした表情をした。
クライエント「充電の効率、悪くなりますね」
ダイキ「そうなんです。疲れている時って、心も体も、充電が必要な状態なんです」
クライエント「......」
ダイキ「でも多くの人は、疲れている時こそ『頑張らなきゃ』って、さらにエネルギーを使う活動をしてしまう」
クライエント「...私、そうしてました」
「離れる」「休む」「工夫する」の順番
ダイキ「疲れている時の対処には、実は順番があるんです」
クライエント「順番?」
ダイキ「はい。まず『離れる』、次に『休む』、そして最後に『工夫する』」
クライエント「離れる...」
ダイキ「ストレスの原因から、少し距離を取る。時間的に、物理的に、あるいは心理的に」
ダイキは説明を続けた。
ダイキ「たとえば、仕事のことを考えない時間を作るとか、休日は職場から離れた場所で過ごすとか、頭の中で仕事のことが浮かんできたら、意識的に他のことを考えるとか」
クライエント「でも、それって逃げてるみたいで...」
ダイキ「逃げてる、と感じるんですね」
クライエント「はい。問題から目を背けてるような」
ダイキ「...今、お聞きしたいんですが」
クライエント「はい」
ダイキ「連続して強いストレスを受け続けると、同じストレスでも、感じる辛さが2倍、3倍になっていくって知ってますか?」
クライエント「え...?」
ダイキ「疲れている時って、普段なら何でもないことが、すごく辛く感じられる。それは、心と体のエネルギーが枯渇してるサインなんです」
クライエント「......」
ダイキ「その状態で、さらに頑張り続けると?」
クライエント「...もっと、辛くなる」
ダイキ「そうなんです。だから、まず『離れる』。そして『休む』。充電する」
クライエント「...でも」
ダイキ「はい」
クライエント「休んでる間に、体力落ちたりしませんか? 仕事の感覚も鈍るんじゃないかって」
ダイキ「そう心配になりますよね」
クライエント「はい...」
ダイキ「でも、考えてみてください。普段、運動不足で1年過ごしても、『運動不足だね』って笑って済ませてますよね」
クライエント「...確かに」
ダイキ「でも、疲れている時に『1ヶ月休む』と聞くと、『体力が落ちて、何もできなくなる』って思い込んでしまう」
クライエント「......あ」
ダイキ「それは、疲れている時の思考の偏りなんです」
クライエントはゆっくりと頷いた。
「休む」ことの、本当の意味
クライエント「でも...休むって、何をすればいいんですか?」
ダイキ「何もしない、です」
クライエント「え?」
ダイキ「成長するために何かをするとか、楽しいことをして充実させるとか、そういうことじゃなくて」
ダイキは少し間を置いた。
ダイキ「ただ、エネルギーの支出を減らして、回復に専念する」
クライエント「...難しいです」
ダイキ「そうですよね」
クライエント「だって、何もしないでいると、『時間を無駄にしてる』って思っちゃう」
ダイキ「その気持ち、よくわかります」
ダイキは優しく微笑んだ。
ダイキ「でも、充電も立派な『何か』なんです。今のあなたに一番必要な『何か』」
クライエント「......」
ダイキ「楽しいことをしてリフレッシュ、って聞くと良さそうに思えますよね。でも、楽しいことも、実はエネルギーを使うんです」
クライエント「楽しいことも...?」
ダイキ「はい。旅行も、運動も、人と会うことも。気分転換にはなるかもしれないけど、疲れている時にはさらに疲労を深めてしまうことがある」
クライエント「...知らなかったです」
ダイキ「まず、『休むこと』が最も効率的な充電方法だって、しっかりイメージしてみてください」
クライエント「はい...」
ダイキ「そして、『体力が落ちる』『怠け癖がつく』っていう心の声が出てきたら?」
クライエント「...それは、思考の偏りだって、思い出す」
ダイキ「そうです」
混乱期は、「本当の自分」を見つけるチャンス
しばらく、静かな時間が流れた。
クライエント「...ダイキさん」
ダイキ「はい」
クライエント「混乱期って、さっき言ってましたけど」
ダイキ「はい」
クライエント「それって、いつまで続くんですか?」
ダイキ「それは、人によって違うんです。でも、一つ言えることは...」
クライエント「はい」
ダイキ「混乱期を、無理に早く抜け出そうとしないこと」
クライエント「...え?」
ダイキ「混乱期って、実は大切な時期なんです」
クライエント「大切...?」
ダイキ「はい。それまでの『しっかり者の自分』が通用しなくなって、新しい環境で、本当の自分は何を大切にしたいのか、どう生きたいのかを見つめ直す時期」
クライエント「......」
ダイキ「混乱してるって、言い換えれば、いろんな可能性が見えてるってことでもあるんです」
クライエント「可能性...」
ダイキ「前の職場では、『こうあるべき』が明確だった。でも今は、まだ決まってない。だから混乱するけど、同時に、新しい自分を選べる時期でもある」
彼女の目に、少し光が戻ってきた。
クライエント「...そう考えると、少し違って見えますね」
ダイキ「どんな風に?」
クライエント「混乱してることが、チャンスに思えてきました」
ダイキ「チャンス...」
クライエント「はい。今まで、『早く元の自分に戻らなきゃ』って思ってたんです。『しっかり者』の、何でもできる自分に」
彼女は少し考えた。
クライエント「でも、もしかしたら、そうじゃなくていいのかもって」
ダイキ「そうじゃなくていい...?」
クライエント「完璧じゃなくていい。混乱してもいい。そういう自分でもいいのかもって」
涙が、また少しこぼれた。でも今度は、少し違う涙だった。
小さな一歩から
ダイキ「これから、どうしていきたいですか?」
クライエント「まず...休みたいです」
ダイキ「休みたい」
クライエント「はい。本当に休む。充電する」
ダイキ「具体的には?」
クライエント「...週末は、資格の勉強をやめてみます」
ダイキ「おお」
クライエント「代わりに、何もしない。ぼーっとする。罪悪感が出てきたら、『これは充電だ』って思い出す」
ダイキ「いいですね」
クライエント「あと、通勤中のマニュアル読みも、やめてみようかな。景色を見たり、音楽聞いたり」
ダイキ「少し、離れる時間を作る」
クライエント「はい」
彼女は少し笑った。
クライエント「できるかな...すごく不安だけど」
ダイキ「不安ですよね」
クライエント「でも、今のままだと、本当にエネルギー切れちゃいそうだから」
ダイキ「そうですね」
クライエント「...やってみます」
ダイキ「ゆっくり、少しずつ」
クライエント「はい」
混乱を受け入れたその先に
カウンセリングを終えて、彼女は帰っていった。
数週間後、彼女からメールが届いた。
「週末の勉強をやめて、ぼーっとする時間を作りました。最初はすごく落ち着かなかったけど、3週目くらいから、少しずつ体が軽くなってきた気がします。朝も起きられるようになってきました。
不思議なんですが、何もしないことで、頭の中が整理されてきた感じがします。混乱してることに焦らなくなったら、『あ、これは自分に合ってるかも』『これは無理してたな』っていうのが、少しずつ見えてきました。
まだ混乱してますけど、それでいいんだって思えるようになりました。混乱しながら、新しい自分を探してるんだって。
ありがとうございます」
混乱期は、辛い。
でもその混乱は、変わろうとしている証拠でもある。
無理に早く抜け出そうとせず、まず離れて、休む。
そうして初めて、本当の自分が見えてくる。
混乱期は、チャンスなのだ。