―トー横キッズを責める前に、私たち大人が考えたいこと―
新宿・歌舞伎町。
眠らない街の一角に、家庭にも学校にも居場所を見つけられない若者たちが集まる場所があります。
派手な服装。
独特のメイク。
スマホを片手に座り込む子どもたち。
大人たちは、その姿を見て「危ない」「近づいてはいけない」「問題のある子たち」と言うかもしれません。
けれど、その場所に集まる子どもたちは、ただ遊びたいだけでそこにいるのでしょうか。
ある父親は、娘を失ったあと、その答えを探すために夜の街へ通うようになりました。
娘は、まだ十六歳でした。
幼い頃はよく笑う子でした。
絵を描くことが好きで、家族との時間もあった。
父親にとって、かけがえのない娘でした。
けれど、小学生の頃に大切な家族を亡くしたことをきっかけに、少しずつ笑顔が消えていきました。
朝起きられない。
学校に行けない。
体調も心も、思うように動かない。
父親は、次第に言葉が強くなりました。
「早く寝なさい」
「学校に行きなさい」
「このままでどうするんだ」
親として当然の不安だったのかもしれません。
けれど、娘にとってその言葉は、責められているように聞こえていたのかもしれません。
やがて娘は、家族に本音を見せなくなりました。
そして父親の知らないところで、夜の街へ通うようになっていました。
父親がそのことを知ったのは、娘がこの世を去ったあとでした。
遺されたスマホの中に、夜の街で過ごした痕跡が残っていたのです。
父親は、何度も自分に問いかけます。
なぜ、娘はそこへ行ったのか。
なぜ、そんなにも軽く命を扱うような会話をしていたのか。
なぜ、父親である自分は、その苦しみに気づけなかったのか。
その答えを探すように、父親は夜の街へ通い続けます。
そこには、娘と同じように、家にも学校にも居場所を見つけられない子どもたちがいました。
虐待を受けた子。
いじめを受けた子。
親に認めてもらいたかった子。
家庭に帰りたくない子。
自殺未遂を経験した子。
薬に頼ってしまう子。
一見すると、強がっているように見える子どもたち。
でも、話を聞くと、その奥には寂しさがありました。
「全部を危険とか悪い子でまとめないでほしい」
「最後まで怒らないで聞いてほしい」
「親に認められたかった」
そんな言葉を聞いたとき、父親は自分の娘と重ねます。
もっと早く、向き合えていたら。
娘は、もういません。
もっと話を聞けていたら。
もっと怒る前に、娘の苦しさを見られていたら。
その後悔は、消えることがありません。
けれど、その後悔は、ただの悲しみで終わりませんでした。
父親は、娘と同じように苦しむ子どもたちを救いたいと思うようになります。
夜の街で声をかける。
危険な大人に気をつけるよう伝える。
相談できる場所を知らせる。
行政との意見交換の場にも、子どもたちを連れていく。
「補導して帰らせるだけでは終わらないでほしい」
「継続して話を聞ける場が必要だ」
子どもたちの声を、大人たちに届けようとします。
そこには、支援の難しさもあります。
子どもたちは、すぐに変わるわけではありません。
約束を守れない日もある。
危険な行動に戻ってしまうこともある。
支援者が目をかけていた子が、事件や問題行動に巻き込まれることもある。
それでも父親は、足を止めません。
なぜなら、知っているからです。
一人の子どもが命を失う悲しみを。
「もう誰にも、あんな思いをしてほしくない」という気持ちを。
支援とは、きれいな物語ではありません。
一度声をかければ救えるものではありません。
居場所を用意すれば、すぐに立ち直るわけでもありません。
それでも、子どもにとって「また来ていい」と言ってくれる大人がいることは、命綱になることがあります。
夜の街にいる子どもたちは、危険な場所に行きたいのではないのかもしれません。
本当は、安心できる場所を探しているのかもしれません。
自分を責めない人。
最後まで話を聞いてくれる人。
ご飯を食べさせてくれる場所。
何も話さなくても、そこにいていい場所。
そういうものが、家庭にも学校にも見つからなかったとき、子どもは夜の街へ向かいます。
だから私たち大人が考えるべきことは、「なぜそんな場所に行くのか」と責めることだけではありません。
なぜ、その子にとって他に居場所がなかったのか。
なぜ、助けてと言える大人が近くにいなかったのか。
なぜ、子どもが危険な場所でしか息をできなかったのか。
そこを見つめる必要があります。
もちろん、夜の街は安全ではありません。
子どもを利用しようとする大人がいます。
薬、性、金銭、犯罪に巻き込まれる危険もあります。
だからこそ、子どもを守らなければなりません。
でも、守るとは、ただ追い払うことではありません。
叱ることだけでもありません。
危険な場所に行かなくてもすむ、安全な居場所をつくることです。
家庭でも学校でもない、第三の場所。
安心できる大人と出会える場所。
お腹を満たし、心を少し休められる場所。
子どもが「ここにいていい」と思える場所。
それが必要なのです。
父親は、娘との思い出の場所でこう思います。
生きていれば、きれいな景色を見られた。
おいしいものを食べて、おいしいと感じられた。
そんな当たり前の時間さえ、娘にはもう戻らない。
だからこそ、今も生きている子どもたちには、死を選ばずにいてほしい。
どれだけ苦しくても、今日を越えてほしい。
夜の街でしか息ができない子どもたちに、昼の光の中で安心できる場所を届けたい。
トー横キッズを責める前に、私たち大人が考えたいこと。
それは、子どもたちをどう排除するかではありません。
どう受け止めるかです。
どう守るかです。
どうすれば、その子が「自分はまだ生きていていい」と思える場所を作れるかです。
子どもたちは、問題そのものではありません。
大人が見落としてきた孤独を、夜の街で表しているのかもしれません。
だからこそ、必要なのは正論だけではありません。
温かいご飯。
安心できる大人。
否定されない時間。
そして、何度失敗しても戻ってこられる居場所です。
私は、不登校、ギフテッド、2E、発達特性、いじめ経験のあるお子さんと、そのご家庭を支える教育相談を行っています。
また、子どもたちが安心して過ごせる第三の居場所として、「ギフテッド食堂」にも取り組んでいます。
学校でも家庭でもない、子どもが少し肩の力を抜き、自分のままでいられる場所。
人間関係に疲れた子。
学校で傷ついた子。
周囲と合わずに孤独を感じている子。
自分の特性を理解してもらえず苦しんでいる子。
そうしたお子さんにとって、私が安心できる大人の一人になれるかもしれません。
お子さんの居場所は、学校だけではありません。
家庭だけで抱え込む必要もありません。
その子に合った学び方と、心安らぐ居場所を、一緒に探していきます。