真衣からのメッセージは、夜に来る。
仕事が終わって、帰りの電車に乗ったころ。 スマホが震える。一通じゃなかった。
「いまどこ?」「今日は遅いね」「読んだら返して」
胸が動く前に、指が動いた。
「今電車乗ったところ。あとで返す。」
送って、ポケットにしまった。 しまったのに、震える。
「ごめんなさい」「心配だったの」「待ってる」
僕は息を吸って、吐いた。
返す文章を頭の中で作る時間が、もう癖になっていた。
「大丈夫だよ」「落ち着いたら送るから」
指が勝手に打つ、もう定型文だ。
家につき、ひと段落して深呼吸する。 スタンプを一つ入れる。 柔らかい語尾にして、送る。
真衣から、すぐ返ってきた。
「お疲れさま」「でもさ、今日返信遅かったよね。」「私、既読のままって苦手なんだ。」
わかった、と返したかった。 わかったと言えば終わるからだ。 でも終わらない。
「次いつ会える?先に決めよ。」
決まらないと落ち着かない。
僕はソファにうずくまってスマホを見ていた。
今週末の土曜午後から。
打つ。送る。
「わかった。また明日ね」
息が浅くなった。 約束をした覚えがないのに、約束が増えていく。
しばらくして、メッセージが来た。
「ねえ、寝る前に一回だけ、電話していい?」
風呂から出てゆっくりしようかと考えていたとき、着信が来た。
出ると、声が少し違った。 泣いてはいない。泣く前の声だった。
「ごめんね。変なこと言って。でもね、亮の返事がないと、私、変になる。だからお願い。大丈夫って言って」
僕は何かを言いかけた。 しんどい、が喉まで来た。 めんどくさい、も来た。
でも声に出る前に、別の役が立ち上がった。 折れる役。空気を戻す役。
「大丈夫だよ。ちゃんと好きだよ」
真衣は息を吐いた。
「よかった。亮がそう言うなら大丈夫」
その言葉で、胃が沈んだ。 僕の言葉が、真衣の呼吸になっている。 嬉しいじゃなくて、怖いが先に来た。
電話を切った。 部屋が静かになった。
真衣
電話を切ってから、スマホをテーブルに置いた。
置いたのに、指が戻る。
画面を点けて、消して、また点けた。
既読の表示を見て、息が浅くなる。
返事が来ないだけだ。分かっている。
怒っているわけでもない。
どこかで誰かといる証拠もない。
それでも、来ない時間にだけ、頭の中が勝手に走る。
嫌われた。
飽きた。
面倒になった。
その言葉が浮かぶたびに、胸の奥が硬くなる。
自分で止めようとして、止まらない。
亮の声を聞いて「大丈夫」と言われた瞬間、やっと息が深くなった。
その深呼吸が怖い。
深呼吸のあとに、また落ちるのを知っているから。
だから確かめる。
確かめて、確かめて、確かめるたびに、少しだけ遠くなる気がする。
遠くなるのが怖くて、また画面を点ける。
それから一週間後の夜。
真衣が僕の部屋に来た。
いつもより早く来て、いつもよりよく笑った。
でも何かが違った。笑い方の奥に、測るような目があった。
夕飯を食べながら、真衣が言った。
「ねえ、スマホ見せて」
笑いながら言った。冗談みたいな声だった。
「なんで」
「なんとなく。悪いことしてないなら見せられるじゃん」
胸が動いた。 でも口は先に動いた。
「別に悪いことはしてないけど」
「じゃあ見せて」
笑顔のまま、手が伸びてきた。
僕はスマホを渡した。
真衣は画面をスクロールした。
アプリのアイコンが並ぶ画面で、指が止まった。
「これ、消して」
声が変わっていた。 笑いが消えていた。
「……わかった」
アイコンを長押しした。
削除の確認が出た。
指が止まった。
真衣の視線が、画面の上で動かなかった。
僕は息を一回だけ吸って、押した。
消えた。
真衣が小さく息を吐いた。
「ありがとう」
その言葉で、僕の背中が冷えた。
その夜、真衣が帰った後。
部屋に一人でいた。 アプリのあったところに、何もなかった。
指が勝手に動く、と思っていた。
でも今日は、自分で動かした。
真衣のために動かした。
それが同じことかどうか、わからなかった。
僕はなぜあのアプリを入れていたのか。
誰かに認められたかったから。
でも認められていたのは、僕が作った僕だった。
消えたアイコンのあった場所を、しばらく見ていた。
別れを言ったのは、それから二週間後だった。
大きな喧嘩はなかった。
ただ、いつもの夜に、いつもの連絡が来て、いつもの文章を打とうとして、指が止まった。
止まったまま、しばらく画面を見ていた。
打てなかった。
打てない理由も、うまく言えなかった。
次の日、会った。
真衣はいつもと同じだった。
笑って、話して、腕に触れてきた。
僕は言った。
「ごめん、もう無理かもしれない」
真衣の顔が変わった。
笑っていなかった。
「なんで」
「……うまく言えないけど」
喉が詰まった。
真衣の顔が変わるのが怖くて、言葉を選ぶ癖が抜けない。
本当の理由は、どこかにあるはずなのに、形がなかった。
「私が悪かった?」
「違う」
「じゃあなんで」
僕は息を吸った。
吸ったのに、胸が広がらなかった。
「返事を作るのが、もう無理なんだ」
真衣が瞬きを一回だけした。
「作る、って何」
「大丈夫とか、怒ってないとか、そういうの。毎回」
言ったあとで、舌が苦くなった。
真衣は笑わなかった。
「じゃあ直す。連絡減らす。既読も気にしない。だから」
言葉の途中で、真衣の声が細くなった。
「だから、やめないで」
僕は首を横に振った。
「そういう条件の話じゃない」
真衣の口が少し開いたまま止まった。
次の言葉を探している顔だった。
でも探したのは、言葉じゃなくて出口だった。
「……わかった」
声が低かった。
納得の音じゃなかった。
真衣はバッグの持ち手を握り直して、立った。
テーブルの端を指で一度なぞった。
「じゃあ、もう、確認しない」
確認、という単語だけが変に硬かった。
「送らない」
それだけ言って、真衣は出ていった。
床に、真衣の髪の毛が一本だけ残っていた。
ドアが閉まったあとも、空気がしばらく揺れていた。
真衣
家に帰って、靴を脱いだ。
いつもならすぐにスマホを握るのに、手が一度止まった。
止まったことに気づいて、息が少しだけ深くなった。
確認しなくていい、じゃない。確認できないだけだ。
それでも、その一分が軽かった。
軽いのが怖かった。
怖いのに、もう一度だけ味わいたくて、スマホを手に取った。
画面を点けて、消した。 点けて、消した。
亮のトーク画面を開いて、文字を打った。
ごめんね。
途中で止めて、全部消した。
次に打った。
会いたい。
それも消した。
会いたいのは、亮じゃなくて、亮の返事かもしれない。
そのことに気づきそうになって、指が止まった。
指先が熱かった。
送れないんじゃない。
送ったら、また確認が始まる。
始まったら、止められない。 それが分かっていた。
窓を開けた。
夜風が入ってきた。
胸が少しだけ楽になった。
亮が大丈夫と言うと、息ができた。
息ができる人を、好きだと思っていた。
その好きの中身が何だったのか、今夜はまだ言えない。
ただ、いまは落ちていなかった。
落ちていないのに、手が空いている。
その空き方が、少しだけ救いだった。
それだけが今夜の事実だった。
画面の中で生きていたぶん、部屋が広かった。