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造花の花11〜近すぎて見えないもの
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かわいかつひと
2026/03/09 06:04
その夜、バーに行った。
ドアを押すと、音が少なかった。
グラスが触れる音と、冷蔵庫の低い唸りだけが残っていた。
カウンターの奥で、バーテンダーがコップを拭いていた。
純さんはいた。
いつもの席に、いつもの姿勢で。
グラスを回して、正面を向いていた。
僕は隣に座って、息を整えるふりをした。
言うことは決めていたはずなのに、口に出す瞬間だけ迷う。
迷う理由がわからない。
「認められてる気がするのに、空っぽな感じがします」
純さんは顔をこちらに向けなかった。
グラスだけが、ゆっくり回り続けていた。
「お前が認めてほしいのは、何だ」
その一言で、喉が詰まった。
答えが出なかった。
何を認めてほしいのか。
認められていると言ったのは自分なのに、その中身がない。
カウンターに肘をついて、しばらく黙っていた。
泡が消えていくのを見ていた。
消える速度だけが正確だった。
「純さんにはなんでも話してしまいます」
言ってから、自分で驚いた。
なんでも話してしまう。
そんなつもりはなかった。
でも、そういう言葉が自然に出る関係が、この人との間にだけある。
純さんは短く言った。
「望んでない。期待するな」
期待。
その言葉が胸のどこかに当たって、鈍い音がした。
期待していたのか。
僕は。
純さんが何か言ってくれることを。
正解でも救いでもなく、ただ、何かを。
その瞬間、真衣のことが浮かんだ。
最近、真衣はどんなことでも意見を求めるようになってきた。
この間の2人で過ごした時の会話を思い出す。
今日の服、どっちがいいと思う?
この店どう思う?
今度の週末、どっちがいい?
亮が決めて。
僕はそのたびに、言い方を選んで返す。
否定しない。
傷つけない。
角を立てない。
メッセージでも同じだ。
気づく前に指が動いている。
相手が安心する文章。
柔らかい語尾。
絵文字は少なく。
真衣のこと、最初は素直だと思った。
僕の言うことをよく聞くな、と。
でも毎回だと、何かが引っかかる。
意見を求められているのに、僕がここにいない感じがする。
これまでの女性は、結論を持って聞いてきた。
背中を押してほしいとか、共感してほしいとか。
真衣は違う。
僕の言葉に、喜んで従う。
それが、少し怖い。
「一緒に住もうかな」
そう言われた夜のことが、はっきり浮かんだ。
真衣の部屋の照明。
皿を洗う音。
何気ない顔で言ってきたのに、その言葉だけが重かった。
僕は反射で言った。
「まだ早いよ」
その瞬間、真衣の顔が変わった。
怒りじゃない。
絶望したような顔だった。
何かが抜け落ちたみたいな顔。
その顔を見た瞬間、僕の中の別の役が立ち上がった。
折れる役。
空気を戻す役。
「もう少ししたら考えよう」
言ってしまっていた。
真衣は納得していなかった。
納得してないのに、頷いていた。
その頷きが、あとからずっと残った。
折れていた。
いらないほうを、また差し出していた。
グラスの底に少し残った液体を見て、僕は思った。
今の僕は、誰の顔色を見て動いている。
真衣の顔か。
純さんの声か。
それとも、どちらでもない何かか。
純さんが席を立った。
グラスを置く音が小さく響いて、僕の背中が勝手に反応した。
立ち上がる背中を追いかけるみたいに、口が動いた。
「一緒に住みたいって言われました」
純さんは止まらなかった。
振り返りもしなかった。
ドアへ向かう途中で、淡々と吐くように言った。
「俺はお前とは住みたくない」
それで終わりだった。
ドアの閉まる音が、一拍遅れて戻ってきた。
僕は笑ってしまった。
声は出なかった。
口の端だけが動いた。
そうだよな、と思った。 僕も住みたくない。
住みたくないのに、折れていた。
絶望の顔を見て、戻していた。
否定しない僕を作って、差し出していた。
近すぎて見ていないものがある。
それが自分だと分かっているのに。
会計をして、外に出た。
夜風が冷たかった。
街灯の光がやけに白く見えた。
帰り道、ひとつだけ考えた。
僕はなぜパートナーが欲しいと思ったのか。
必要とされたいからか。
安心したいからか。
寂しさを埋めたいからか。
どれも、正解みたいに聞こえる。
だから余計に、答えにならない。
家の鍵を開けた。
靴を脱いで、部屋に入った。
電気をつけなかった。
暗いままの部屋は、何も映さない。
鏡も、ただの黒い板みたいだった。
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#恋愛
かわいかつひと
傾聴カウンセラー、セラピストカウンセラー / 50代前半 / 男性
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