「やりたいこと」はどこにあるのか
やりたいことは外にはない。
見える景色、誰かの言葉、憧れる生き方。それらは確かに刺激になるけれど、どこかヒント止まりで、決して“答え”ではない。
結局は、自分の内側に戻ってきて、自分の時間、自分の物語、自分の世界を進めていくことになる。
時計の針を、自分の意思で進めていけているか。誰かの人生の針に、いつの間にか巻き込まれていないか。そこに問いがある。
外を見るのは、内を見るために
外を見ているようで、本当は自分を見ている。
他人の言葉や風景を通して、自分の感じ方、自分の反応、自分の輪郭を確認している。やりたいことがどこかに落ちていると思って外ばかりを探すのは、まだ「中」を見きれていないだけなのかもしれない。
もちろん、自分ごとにできるものと、できないものがある。それを無理やり「自分のためだ」と抱え込む必要はない。
けれど、世界のすべては主観を通してしか見られない。客観的に見たつもりでも、それは「主観的な客観」に過ぎない。だからといって、思いやりや想像力が無意味になるわけじゃない。むしろ、それがあるからこそ、誰かとの距離を埋めようとできる。
興味の矛先は、いつも自分とつながっている
自分への興味と、他人への興味は、きっと比例している。
「人間が好き」と言える人は、たぶん自分の内側にも強く関心を持っている。
逆に、自分にまったく興味がない人が、他人に深く興味を持つことは難しい。もちろん、表面的には他人に尽くしているようでも、それが自分への関心からくる行動であれば、きっとそこには整合性がある。
創作でも、研究でも、ビジネスでも、結局その対象の中に「人っぽさ」を感じることが、僕にとっては面白さにつながっている。
例え無機質な機械や概念を扱う場合でも、そこに関わる人の存在を想像できるかどうかが、関心を引き寄せる。
自分に戻る旅を、止めないこと
だからこそ、やりたいことは最終的に「自分の中」で見つけるものだと思っている。
どこかに落ちていて、誰かが見つけてくれるものではない。自分の中にある断片を拾い集めて、それを形にしていく過程こそが探索だ。
「これがやりたいことだったんだ」と確信できる瞬間が来なくてもいい。大切なのは、動き続けること。
外に出て、ヒントを拾い、自分に持ち帰り、内側を耕し続けること。その循環が止まっていない限り、あなた(自分)の物語はちゃんと進んでいる。僕の物語も同じだ。