正解がない「から」可能性がある
「正解がない」という言葉は、時にネガティブに聞こえる。どこに向かえばいいかわからない、手がかりがない、努力が報われる保証がない。でも僕にとって、それはむしろスタートラインだと思っている。
誰かが「これが正解」と決めたものには、もう自由がない。そこに必要なのは再現性や効率であって、創造でも発見でもない。けれど、正解が存在しない世界では、何をしても自由。だからこそ、チャレンジする余地がある。
たとえ手探りでも、やってみた先にしか見えないものがある。見落としていたこと、誰も気づいていない視点、自分だけが感じ取れる違和感。そうしたものに手を伸ばせるのは、正解が決まっていないからこそだと思う。
わけのわからなさが、僕を引き寄せる
未知のものには、良い意味での怪しさがある。論理では整理しきれないけれど、なぜか心が動く。何がどうなるかわからないものほど、試してみたくなる。予定調和では満足できない自分がいる。
もちろん、すべてが挑戦に値するわけじゃない。倫理的にアウトなもの、社会的に逸脱しているものは別だ。よく考えれば「ただ説明できないだけ」のことはたくさんある。まだ名付けられていない感覚や、誰も注目していない領域。そういうものを見つけていくことが、僕にとっての楽しさであり、新しさだ。
「知っている」と思っていたものの中に、「実は知らなかった」が眠っていることもある。だから、わからないものには価値がある。それを「ない」と思わず、「あるかもしれない」と思えるかどうかが、分かれ道になる。
霧の向こうに何かがあると思えるか
チャレンジとは、諦めないということと同じだと思う。ただ立ち止まらずに、1%でも可能性を信じて動いてみること。その1%が、10%、50%、時には大きな転換になることもある。
何かに挑んで、最初は霧の中でも、少しずつ視界が開けていく。やってみて、やっと見えるものがある。そうやって自分の中の「知らなかった」が「知ってよかった」に変わっていく瞬間が、僕は好きだ。
新しいことが苦手な人がいてもいいと思う。それはそれで向き不向きの話。でも、もし少しでも「やってみたい」と思えるなら、その気持ちを大事にしたい。正解のない世界には、誰にでも開かれたチャンスがある。