不平不満を言わずには生きられない

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コラム
 本日は、いくつか聖書の物語から例を出そうと思います。でも、聖書に詳しくないかたにも通じるように書きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。『「甘え」の構造』の著者である土居健郎(どい・たけお)と、牧師でNPO法人「抱樸(ほうぼく)」理事長の奥田知志(おくだ・ともし)さんの大きな影響下にある文章だと思いますが、だいぶ私のなかでこなれて自分の言葉のようになっています。

 聖書には、不平不満を言う人がたくさん出て来ます。例として、マルタとマリアの姉妹の話を挙げます。この姉妹は、弟のラザロが復活するときにも出て来ますが、今回、引用するのはそのときの話ではなく、新約聖書ルカによる福音書の10章38節以下に出る短い話です。イエスがマルタとマリア姉妹のところへやってきます。マルタはおもてなしで忙しく働いていました。マリアはイエスの足もとに座ってイエスの話を聞いているだけ。マリアはイエスにこう言います。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。それでもイエスはマリアをえこひいきすることをやめないのですが、このイエスのえこひいきは置いておきましょう。彼は神様ですから、誰をひいきしても自由なはずです。そして、このマルタのせりふは、明らかにイエスに不平不満を言っています。「マリアずるーい!」と言っています。しかし、マルタは自分が不平不満を言っているのを自覚していないだろうと思います。不平不満って、無自覚的に出るものですからね。マルタは自分が正当な主張をしていると思っているだろうと思います。理不尽な目にあっているからです。しかし、「マルタはこのあと嫉妬のあまりマリアを殺した」とかいう話にはなっていません。マルタはこの不平不満をイエスに言うことによって、だいぶ気が済んでいると思われるのです。

 私自身、ずいぶん理不尽な目にあってきました。30歳の新卒のときから、15年と11か月、あるところに勤めて、いろいろな理不尽な目にあわされてきて、つい2週間半くらい前にやめさせられました。同輩にはずいぶん出世しているのがたくさんいます。なぜ神様はこんなにえこひいきをするのか。それは神様だから人間には理由はわからないのですが、たしかに神様は不公平です(でもそれを言うと人間も人にたいして不公平ですけどね。助ける人はいつだって不公平なのです)。私はある意味でマルタと立場が似ています。理不尽な目にあって不平不満を言う人。私も不平不満ばかり言っています。自分で自分の機嫌は取れないのです。だれかにぐちを聞いてもらわなければ生きていけないのです。

 最近、平田オリザさんから「シンパシー」と「エンパシー」の話を聞きました。YouTubeの動画でしゃべっておられたのです。私がこの短い聖書の話からシンパシーを感じるのは圧倒的にマリアのほうです。私にてきぱきおもてなしする能力はありません。私は気が利かない人間で、「さあ、いまから机といすを並べましょう」みたいなときにまったく役に立たない人間です。これも発達障害の障害特性だといえばそうなのですが、とにかく気が利かないです。しかし、いま私はマルタにエンパシーを感じました。理不尽な目にあって思わず不平不満を言う人間として。

 同じルカによる福音書のなかに放蕩(ほうとう)息子のたとえがあります。15章11節以下です。イエスの語ったたとえです。いま、協会共同訳聖書から引用していますので「放蕩」という古い言葉は出ませんが、伝統的に放蕩息子のたとえと言われてきた話です。ある人に2人の息子がいました。弟のほうが父親に財産をわけてくださいと言います。それで父親が財産を渡すと、何日もたたないうちに、弟は何もかもまとめて遠い国へ旅立ち、そこで身を持ち崩して財産を無駄遣いし、何もかも使い果たしたのち、その地方にひどい飢饉が起き、とにかく大変な思いをして父親のところに帰ってきます。父親は弟を受け入れ、祝宴を始めます。ここまで兄は出て来ませんが、祝宴が始まったのち、ようやく兄の出番となります。兄は畑のほうにいましたが、音楽や踊りなどが聞こえてきました。何事かとしもべに聞くと「弟さんが帰って来られたので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」としもべは答えます。兄は怒って家に入ろうとせず、父親がなだめに来ましたが、兄はこう言います。「このとおり、私は何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、私が友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身代を食い潰して帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。兄は不平不満を言っています。「弟ずるーい!」と父に言っています。でも、このお兄さん、これでだいぶ気が済んだのではないでしょうか。この兄は、このぐちを言うことによってだいぶ気が済んで、そのあと祝宴に加わった気もします。いかがでしょうか。

 もうひとつ、兄弟の話を出します。カインとアベルの物語です。旧約聖書の創世記4章1節以下です。カインとアベルはそれぞれ神様にささげものをささげます。しかし、なぜか神様はアベルのささげものには目を留めるのですが、カインのささげものには目を留めません。また神様のえこひいきの話です。理不尽です。でも、この場面で、カインが不平不満を言う場面は、聖書には出て来ないのです。つまり、カインが誰かに「アベルずるーい!」と言うシーンは出て来ないということです。そして、カインはアベルを殺してしまいます。これは、もしカインのぐちを聞いてくれる人がいたら、カインは殺人を犯していないかもしれないとも感じます。いかがでしょうか。

 今年(2022年)の共通テスト(センター試験)の、東大での会場で、人を刺したある高校2年生がいます。どうしても東大の医学部(理科三類)に行きたかったようですが、成績が振るわなかったみたいですね。これも、もしも彼のぐちを聞いてくれる人がいたら、だいぶ結果が違っていた気がします。つまり、理想的なことを言えば、彼と勉強面でも関係なく、血もつながっていない、年も離れた大人がいて、彼のぐちを聞いてくれて「ふーん大変だねえ」とか言ってくれていたら、あの事件は起きていないかもしれないと思うのです。(そういう相手がいて、こういう事件になっていない例は全国にある気がします。)人は自分で自分の機嫌が取れないのです。少なくともここに出て来た人は皆そうです。マルタ、放蕩息子の兄、カイン、試験会場での彼、そして私。

 もうひとつだけ例を挙げます。イエス・キリストです。彼は十字架上で以下のように言いました。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(新約聖書マルコによる福音書15章34節)。これも、神への不平不満です。理不尽だからです。十字架刑は理不尽だからイエスは神にぐちを言って死んでいったのです。この言葉がなぜこんなに大切に取っておいてあるのかと言えば、これは多くの人に共通する思いだからだろうと思います。ひとによって程度の差があるとは思いますが、多くの人が「なんでオレがこんな目にあうのだ」と思っておられると思います。全人類の代表で十字架にかかったイエスは、全人類代表でぐちを言って死んでいったのだと思います。

 人には、ぐちを言う相手が必要です。不平不満を言わずに生きられる人はいないだろうと思います。旧約聖書に出て来る「ヨブ記」「詩編」「エレミヤ書」なども、ずいぶん神様へのぐちが多いです。神と隣人は同じくらい大切ですから、神だけでなく人にもぐちを言いましょう。神様にはいくらでもぐちが言えるところがいいですが、なにしろ見えませんのでね…。
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