虹を追う

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小説
  それは高志が七歳頃の記憶である。

 秋のある雨上がりの日暮れ時のことであった。
 高志は近所に住む和宏と庭先で遊んでいた。縁側では高志の祖母が栗の渋皮を剥きながら、穏やかな顔で二人を見ていた。
 ふと高志が東の空を見上げると、そこに虹がかかっていた。紅葉で色づき始めた山と山をもう一つの稜線がつなぐように虹がかかっていた。
「カッちゃん。行こう」
と高志は和宏の手を掴むと和宏を連れて表に走りだした。 
「高ちゃん。高ちゃん。どこへ行くの」
高志の祖母は後を追おうとして急いで下駄を履いたが、そのときには既に二人の姿は表の路地から見えなくなっていた。
「高ちゃん。どこ行くの」
高志に手を引かれながら和宏は尋ねた。高志は前を向いてそれでもしきりに東の空を見上げながら走っていた。高志は何かに憑りつかれたような顔で、和宏は村はずれに来るまで高志に何も聞けなかった。
「虹のところまで」
高志は少し走る速度を落として振り向き答えた。
「虹」
和宏は不思議そうに首を傾げた。そして和宏も東の空を見た。そこには鮮やかな七色の虹が見えた。でもどうして。和宏は急に不安を感じて立ち止まった。
すると、それにつられて高志の足が止まった。
「どうした」
高志は振り向いて少ししかめた表情で和宏を見た。そして、二人ともハアハアしながらしばらく顔を見合わせていた。
 高志は辺りを見回した。
 気がつけばそこは田圃の中の広い畦道。両側には幾つもの金色の稲の穂が頭を垂れていた。そして和宏の肩ごしに高志の家が小さく見えた。距離にすれば大したことはないが、まだ自転車も乗れない二人にはかなりの遠さであった。
「虹の所まで行ってどうするの」
と和宏が上目使いに高志を見ながら聞くと、
「決まっているじゃないか。登るんだよ」
と高志は明るい表情で答えて、東の空を見上げた。そうして、高志は自分がその虹の頂きを歩いている姿を思い浮かべた。高志がいつか見たテレビか漫画雑誌の中にアニメのキャラクターが同じように虹を渡っている姿があったのを、高志は覚えていてそう考えたのだった。
「ええー、だって」
和宏は一瞬反論しようとしたが口を噤んだ。和宏は虹が映画のようなものであることは知っていた。だがそこで高志にそれを告げるのを止めた。それを言い出しても今の高志は納得はしない。口喧嘩になることは目に見えて明かであった。学校では和宏より高志の方が人気があった。クラスでの主導権も高志が握っていた。だから、そういう高志と喧嘩しないことが賢明だと和宏は考えて、
口を噤んだのだ。高志は後になってそのことを知った。
「だってなんだよ」
疑るような高志の視線に和宏は思わずうつ向いた。そして、
「僕、母さんの手伝いしなきゃあいけないから」
と和宏は小声で言った。それは和宏がとっさに思いついた口実であった。農繁期を控えた母親の手伝いをしなければいけないということは嘘ではなかったが、それより何より和宏はそんな高志から逃れたかった。
「いいよ。僕一人で行くから」
高志はあっさりと納得して走りだした。和宏がそうである一方、高志は少し焦っていた。というのも、見える虹が薄れかかっているような気がしたからだ。
それで和宏には構ってられないという思いがあった。だから、高志は一人走りだしたのである。すると、和宏は向きを変えて来た道をとぼとぼと歩きだした。
 それからどのくらいの時間、高志は走ったのだろう。
 いつのまにか高志は、黒川の堤防付近まで来ていた。その頃になると風が吹き始めていた。高志は足を止め、東の空を見た。
「えっ」
高志は驚嘆した。虹が消えかかっていたのだ。西日が弱くなり当然と言えば当然のことながら、高志は知らなかった。高志は何度も目をこすり目を見開いて、その度ごとに先ほどの鮮やかな虹が甦ることを願いながら東の空を見直した。
でも、その願いはかなわなかった。そうしているうちにあっけなく虹は消えた。それでも高志はしばらく東の空を見ていた。それでもなお再び虹が出てくるのを期待していた。
 やがて日が暮れて辺りが薄暗くなり、高志は始めて今の状況に気がついた。
河川敷のすすきの原を墨流しのように風が吹いていた。酷く落胆した高志にはその音がまるで嘲笑の聞こえた。そして次第に心細くなり高志は声を出して泣き始めた。
 そこへバイクに乗った信介が通りかかった。
「なんだ、高ちゃんじゃないか。どうしたんだい、こんなところで」
と信介はバイクを止め高志に話しかけた。すると、高志はホッとしたあまりに信介に駆け寄り信介の腰の辺りに顔を埋めて大声をあげて泣きだした。信介は高志の家の隣に住んでいる高校生であった。別に信介とは親戚ではないが、家
同士が家族ぐるみでつき合っていて、また高志に年上の兄弟がいなかったせいで信介を兄のように慕っていた。そうしてようやく落ち着くと、
「お兄ちゃん」
と言って高志は信介の顔を見上げた。自分を心配そうに見ている信介の表情に気づいて、高志は虹のことを話そうとした。だが、自分でも泣きじゃっくりが止まらずうまく話せなかった。それでも、
「そうか、虹を追いかけたのか」
と優しい信介は高志の言葉に頷いてくれた。そして、信介は高志をバイクの荷台に載せバイクを発進させた。
 二人が家に着くと玄関先に高志の母親と祖母が心配そうに立ち尽くしていた。
でも、信介に荷台から降ろされても高志は母親と祖母の顔をまともに見れなかった。そんな高志に駆け寄り母親と祖母はしゃがんでまでも高志の顔を確かめようとした。そして、
「高ちゃん、どこまで行っていたの」
と優しく声掛ける祖母と違い、高志の母親は怒った顔で
「高志」
と大声で言った。普段母親は高志を「高ちゃん」と呼んでいた。それが高志と呼ばれる場合は尋常にではない。それだけで高志は母親の気持ちを察した。すぐに高志は逃れるように家の中に駆け込んだ。高志が居間に来ると、父親があぐらをかいてテレビを観ていた。
「どうした、高志」
と父親は普段通りの顔で高志を見た。母親に比べ父親がそれほど怒ってないと知ると、高志はその父親の横に座った。
「お父さん、聞いて下さい。高志ったら黒川の辺まで行ってたらしいですよ。
虹を追いかけて。何を考えているのか、この子ったら。ちょっと叱って下さいな」
と居間に来た母親は開口一番、そんなことを父親に言った。だが、父親は、
「しかたないじゃないか、男の子なんだから」
と、嬉しそうに高志の頭を撫でた。
 その翌日の朝、高志は母親にお鉢一杯くらいの栗の実が入った紙袋を持たされて、信介の家に行くように言われた。その日は何かの祝日で学校休みだった。母親は、昨日の礼を言ってくるようにと高志に命じたのだが、高志はむしろ昨日途中で帰った和宏のことが気になっていた。 でも高志はしかたなく信介の家に行った。夕べの母親の顔を思い出せば、他にどうすることも出来なかったのだ。
 信介の家に行くと、信介は表でバイクを水で洗っていた。そのバイクのボディに付いた水滴が秋の日差しを反射して、高志にはまぶしく見えた。
「おはよう、高ちゃん」
信介はホースを片手に持ちながら高志の顔を見ると、明るい声でそう言った。
「母さんがこれをお兄ちゃんにって、昨日のお礼だって」
と高志は少し恥ずかしそうに言うと、持っていた紙袋を信介に差し出した。
「有り難う」
信介はホースを放して受け取った。そして、その紙袋をバイクの荷台の上に置いた。
「高ちゃん。いいもの見せて上げようか」
と信介はまたホースを持った。高志が不思議そうな顔で頷くと、信介はホースの先を塞ぐようにして流れ出す水を霧状にした。すると、その先に高志の肩幅ぐらいの小さな虹が出来た。
「高ちゃん、ほら、虹だよ」
信介が笑いながらそう言うと、高志は急に悲しくなってきた。高志自身何か判らない悲しみが胸の奥からこみ上げてきた。そして、高志はその虹を見ながら泣きだした。
 それから幾歳月か流れた現在、高志が覚えているその記憶はここまでである。
 高志はその後大学の工学部を卒業して大手の建設会社に入社、橋梁の設計技師になっていた。思えば不思議な因縁である。
 そんな高志がいま、本社ビルの七階会議室から独り東京湾にかかる虹を見ている。そして、高志はいまになってやっとあの時の悲しみを理解することが出来た。


※別のところで公開している拙作オンライン小説の転載です。
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