取調が終わって高瀬が留置場の中に入ると先客がいた。
「どうも」
高瀬は、留置場の隅で埋くまるように膝を抱えて座っている先客に、ボソッとそう云った。だが、返事はない。
鍵を掛けた看守が立ち去ると、高瀬は初めて入った留置場の中を見回した。まさか、自分がこんな所にくるとは。)
高瀬は、そう思いながらも全身に激しい疲労感を覚えた。そして、その場に座り込んだ。
高瀬純平。四十七才。市内のとある総合病院に勤める外科医。およそ留置場とは無縁と云っていいほどの善良なる彼が逮捕されたのは、今朝の九時四十八分。容疑は殺人。そんな今朝からの出来事がドキュメント番組のように高瀬の脳裏に甦った。そして、今までその容疑の取調が行われていたのだ。一応一日目の今日は、高瀬は黙秘を通した。
(こんな所にくる奴ぐらいだから。)
そう思いながらも、高瀬は先客の方ををおそるおそる見た。すると、先客が顔を上げてこちらを見た。風体から云えばかなりの年輩者のようであったが、顔を見るとまだ未成年のようだった。
「あんた、何でこんな所に来た」
いきなり、その青年は高瀬に尋ねた。
「殺人です」
高瀬は、緊張しながら、わが子と同じくらいの年齢の青年に答えた。だが、青年はふうん云った表情で、さほど驚いた様子ではなかった。
「でも、私は患者を安楽死させただけで。殺人なんて」
そして、高瀬はそうつけ加えた。その言葉は、取調の間ずっと、心の中で叫び続けていたものでもあった。高瀬は一瞬、こんな所でその言葉を吐露したことを恥ずかしく思った。そうして、戸惑いながら俯くと、
「そうかい。あんたが」
意外にも青年は、微笑みながら高瀬の方に身を乗り出してきた。それで余計な緊張が解けたせいか、高瀬はいままでのことが走馬燈のように思い出した。
高瀬の親友仲山が、高瀬の勤める総合病院に診察に来たのは昨年の秋のことであった。そして、検査の結果、仲山の肝臓の一部に癌細胞が認められた。
「大丈夫か」
検査が終わって高瀬が仲山の病室を訪れると、仲山はベットに横になっていた。そして、高瀬の顔を見るなり、仲山は身体を起こしそう尋ねた。
「さっきも説明した通り。まだ早期の段階ですから、切除すれば完治しますよ」
高瀬は笑いながら答えた。仲山とは高校時代からの付き合いだが、これほどおびえた仲山を見るのは初めてだった。
(無理もない。大体の患者が癌と聞くと始めはそうなのだから。)
高瀬はそう思いながらも、やはり仲山は他の患者と同じようには見れなかった。
「だいたいさ。治らないなら、始めから癌なんて告知する訳ないだろう。治るから、そう云ったんだ。それとも何か。親友の俺の腕を信用してないって云うのか」
と、高瀬が顔をしかめて云うと、やっと仲山に笑みが浮かんだ。それを見て、高瀬はふっと息を吐いた。
「それに俺達まだ、四十代だぜ。くたばるには早いよ。それに、俺にはお前に借りがあるからな」
「借りって。 」
仲山は不思議そうに高瀬を見た。親友にマジマジと見つめられて、高瀬は、窓の外を眺めた。そこからは、正面玄関の傍らにある銀杏の大木がよく見える。それを見ながら高瀬は、話を始めた。
「あれは高校二年の夏休みのことだった。俺とお前は同じ陸上部で、田舎の山寺で合宿したことがあったろう。あの時だよ。ある夜、俺が激しい腹痛を訴えたことがあった。その時、他の連中は朝まで我慢しろって云ったけど、お前は暗い夜道を町まで医者を呼びに行ってくれた。十五キロも離れた町まで走って。そのお陰で俺は助かった。なにせ、あの時俺は急性の盲腸炎で、あと三、四時間遅れたら助からなかったって云われたんだからな。ほんと、お前のお陰だよ。その時の借りが俺にはあるんだ。だから、その借りを返せ
ないうちは、お前にくたばっては困るんだ」
高瀬は、振り向いて仲山を見た。だが、
「忘れたな。そんな昔のこと」
と、仲山はとぼけたように云った。
「嘘云うなよ。それが原因でお前、秋の県大会に出場できなかったじゃないか」
「そんなことあったかな」
仲山は、あくまでとぼける気らしい。
(こんなになっていても、俺に負担をかけまいと気を配っているのか。いつも、そうなんだから。)
と、高瀬はそう思いながらも、また銀杏の大木を見た。高瀬にとっては見慣れた木ではあったが、なぜか寂しそうに見えた。そして、突風が吹いて色づいた銀杏の葉が空に舞散ると、高瀬は厭な予感がした。だが、その時は全く気にも留めなかった。
それを高瀬が思いだしたのは、それから三日後の仲山の手術中のことであった。癌は肝臓だけでなく、その奥の血管や臓器にまで侵していたのだ。
「だめだ」
高瀬は開腹した仲山の前で、しばらく呆然とした。
「高瀬先生」
そう側にいる看護婦に声掛けられて、やっと高瀬は我に返った。そして、摘出可能なだけの癌組織を摘出して手術を終えた。だが、それももはや焼石に水の状態であった。
むしろ大変だったのは、それからだった。
癌を告知した以上、別の病気でごまかすことも出来ない。それに、患者は周知の親友。そんな相手に嘘を付き通すために、高瀬には苦悩する日々が続いた。また、親族に事実を告げる時も、高瀬にとっては辛いものがあった。仲山とは家族ぐるみの付き合いであり、仲山の妻も両親とも高瀬とは親しかった。その時高瀬は、あまりの苦しさに、
「余命、あと○ヶ月です」
という言葉が、ついに言い出せなかった。
そんなある日、いつものように仲山の病室を訪れると、
「もし、俺が苦しむようなことがあったら、あっさりとお前の手で」
と、仲山は神妙な表情で云った。ベットに横たわっている仲山の姿は、誰の目にも判るくらい衰えていた。
「おいおい、なんだよ」
高瀬は、慌てて否定した。うすうす気づかれているとは感じているものの、そういうしか仕方なかった。
「苦しみながら死ぬなんて、そんな惨めな死に方したくないよ。だから。お前、俺に借りがあるって云っていただろう。それで、チャラにしてやるよ」
「なに云い出すだ。そんなことないよ。春になったら退院できるから」
と、高瀬は笑いながら仲山を見ると、仲山は真剣な眼差しであった。そして、その目は涙で潤んでいた。
「なんなら、一筆書いておこうか。安楽死って、患者の同意がないと出来な
いんだろう」
「そんなものいらないよ。だって、必要ないんだから」
高瀬は、あくまで否定した。だが、高瀬は一瞬、書いて貰っておけばと考えた。でも、それは出来なかった。それを書かせるということは、仲山の一縷の望みもを断ち切ることを意味するのだ。また、それは高瀬の治療を無駄すると云うことにも。そう思いながら、高瀬は外の銀杏の大木を見た。季節は既に冬。枯れ葉をほとんど散らし箒状のその大木は、仲山の姿そのものでもありまた、高瀬の心象風景のようでもあった。
「もう冬だな」
高瀬は逃れたい気持ちを必死に堪えながらも、ぽつりとそう云った。
それから三ヶ月後、昼夜問わず苦しみだした親友の姿に見かねて高瀬は、仲山を安楽死させた。と言っても、高瀬は事前に仲山の身内からは内々に同意を取っていたし、問題になっても院内でもみ消されるはずであった。それだけの打算が高瀬にはあった。それより何より、仲山自身の意思であることを高瀬は確信していた。それが最大の理由であった。
ところが、その時期が悪かった。折しも××の医師会の会長選挙が始まる頃であり、それで高瀬の勤める病院の院長の当選を阻むものが、画策したらしいのだ。殺人となれば警察が動く。それが、高瀬が逮捕されるきっかけとなったのだ。高瀬は、そういう事情を取調室で初めて知らされた。
「そうかい、あんたが安楽死させて殺人で捕まったと云うのは」
青年は、それまでとは打って変わってにこやかな表情で高瀬に話かけてきた。
高瀬が、不思議そうに青年の顔を見ると、
「あっ俺、俺は北沢京一。二十歳」
と、北沢は答えた。
「君はどうして、こんな所に」
「俺、ヤク。薬さ」
「薬って」
「薬って云えば、麻薬に決まっているだろ。あっ、何かって。マリファナかな。色々、やっていたから、判んないよ」
と話す北沢の表情は、先ほど見た人とは全く別人のように、高瀬には見えた。
「俺、あんたに会えて嬉しいよ」
北沢はそう云って、高瀬の手を強引に握ってきた。そして、話始めた。
「俺さ、これでも一年前半前までは、◇◇大学の学生だったんだ。家も平凡な家庭で、じいちゃんに親父、御袋、姉貴と俺の五人暮らしで。それが、じいちゃんが癌で入院してから、おかしくなった。じいちゃん、もうだいぶん年だし癌も相当悪かったから、治らないのは始めから判っていたけど、じいちゃん、なかなか死んでくれなかった。後で、看護婦さんがこそこそ話しているのを聞いたんだけど、どうも、始め担当医が余命一年なんて云ったものだから、じいちゃん植物人間のようになってもなかなか死ななかったみたい。
それで、そのじいちゃんの看病をしていた御袋がおかしくなってしまってさ。ある日の夜、仕事ばかりしている親父と口論になって、御袋、親父を刺し殺して無理心中。俺はその時は家に居なかったから助かったけど、それを見ていた姉貴も、おかしくなってさ。姉貴はそれで精神病院に入院よ。姉貴は、この春結婚が決まっていたんだけど、それもパァ。家族めちゃくちゃだよ」
北沢に握られている高瀬の手が、北沢の涙で濡れた。
「おい、大丈夫か」
高瀬が優しくそう云うと、北沢は黙って頷いた。
「親父と御袋の葬式が終わって三日目だぜ。じいちゃんが死んだのは。どうにでも出来るんなら、早く死なせろって云うんだ。馬鹿野郎。じいちゃんだってそれを望んでいたはずなのに。いや、そうでなくても自分のことで家族が不幸になることは絶対望んではいなかったはずさ。それで、俺は大学辞めて働きだしたんだけど、親が居なければと云う年でも無いけど、でも、そんな風に親が死ぬとさ。やはり、生きているのが嫌になって、気がついたら、見ての通りの薬漬け」
北沢は、そう云って笑った。それを聞きながら、高瀬も涙ぐんでいた。
(少なくとも俺は、仲山の家族を不幸にはしていない。)
高瀬は、心の内でそう呟いた。
「そのじいちゃんの担当医っていう医者。大学病院に戻るためにそんなことで点数稼ぎしていたみたいなんだ。世の中、そんな医者も居るんだよな。だ
から、さっき取り調べしている時、刑事からあんたの話を聞いて感動したよ。ほんと。もう少し早くあんたみたいな医者に出逢っていれば、俺だって、家族だってあんなことには」
と、北沢は涙に潤んだ尊敬するような目で高瀬を見た。高瀬は、少々照れくささを感じて、また俯いた。すると、突然北沢が苦しみだした。
「おい、どうしたんだ」
薄暗いところで、北沢の身体を抱き抱えるようにして高瀬が北沢の顔を見ると、北沢は辛そうに唸った。高瀬がいくら医師でも、こういう所で診察することは出来ない。だが、高瀬は勘でそれが麻薬によるものであることには気づいた。
「しっかりしろ」
高瀬がそう云うと、北沢は閉じていた目を開けて、
「俺には、あんたが神様のように見えるよ」
と、弱々しい声で云った。それから、高瀬は鉄格子に看守を呼び、まもなく北沢が担架で運ばれて行った。
そして、北沢は搬送先の病院で次の日の未明、あっけなく死んだ。
それを高瀬が知ったのは、眠れないまま朝を迎えて最初に看守と顔を合わした時だった。
数週間後、初めて被告席に立った高瀬は、
「他に、何か申し述べることは」
と裁判長に云われて、こう云った。
「確かに安楽死というものには、多々問題があります。私も自分の行ったことが絶対正しいとは思っていません。でも、何もしないで見殺しにすることが、残されたものを苦しませるような結果にすることが、いいとは思いません。もし慈悲深き神がいるとすれば、たぶん、死の淵で苦しんでいる患者を見れば、神もまた安楽死させることを選択すると思います。云うなれば、私は神に代わってそうしただけなのです」
その時高瀬は、かつて仲山が医者を迎えに行って戻って来た時、足が血塗れになっていたことを思い出していた。
完
※別のところで公開している拙作オンライン小説の転載です。