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始まりの扉を開ける鍵は終わりにある

終わりと始まりを人間は繰り返して生きてますよねこの二つは直結してます。それをポジティブに捉えて生きているのが僕です。僕らは男であれ女であれ生き物として生まれたのちには事実として待っているのが「死」ですよね。これには誰しもが抗えない人生なんですよね死は結果的なものであり、他の物事においても始まれば終わりが絶対的に存在します。それは果たして自らの手で終わらせるか他者に終わりを与えられるのか、それは全てにおいて始まりへの第一歩だと思っています。なので僕は終わりを恐れず生きていこうと意識するように最近強くなってきました。もちろん僕も聖人君主ではないのでそうも思えない瞬間もあります。だから僕はリアルに、『始まれば終わるのは結果でしかない。』と改めて強く感じるんですよね。だからこそ今だけを大事に意識しないといけないと心から思うし、過去に縛られず未来に囚われずあるがままの自分に今納得するのが僕の生き様なんです。皆さんの生き様はどんな感じですか?恐れず選んで掴み取って欲しい何事にも終わりが訪れるのは決まっているのなら終わらせないことはできないんだって納得して、急に何か大事にしてる人やモノに終わりがきて別れの瞬間があなたの身に降りかかったとしてその時はこのコラムを読んでほしいです。人は何度でも立ち続けて前を向き続ける勇気を持って進んでいけると僕はそう信じているからです。なのでそれだけは僕が保証します。あとそういった前向きな日本人を増やしていきたいなあとも僕は思っているんですよね。今回は誰しもが生きてたら絶対にふと考える事実を僕の人生哲学に交えてコラム書きしました!!またお会いしましょう!!
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五感から深まるいのち

おはようございます*^^*おうちのお花や植物を観ていると生きてる・・・といういのちを感じます。蕾だったところからそれが開かれて葉っぱの先から、また葉っぱが出てきていて・・・そのような当たり前の動きの中から生きてるということ教えてもらってる。どこにも行かなくても満たされるというのもこのようにどこにいても動かなくても、いのちを感じられているからかもしれませんね。私たちもその動きと一緒。先日、天川の水を汲みにいくことにお供して感じましたがその天川の水も今この体を流れています。私という固まったものは実在せずこの体もまた常に変化しているその中の一つなのだということが実感できるのでした。最近の亡くなるということに向き合わせていただけたことから生死もこの自然ないのちの動きの一つ表現なのだと深く理解起きたように感じています。そうでしかない動きの中にありそれを分かち合っていただいていたのだと。生死も良い悪いでは決して決められずそのような動きを人はそう名付けその方はその動きを最後まで経験として味わわれたのだなと・・・いのちからはその方も私もなくただ動き続けているのですが・・・・これも、思考の世界の中に理解が起きるのではなくて感覚から・・・五感により、今ここが深まることで起きてくること。昨日お電話くださった方が五感を感じるということの素晴らしさを分かち合ってくださいました。本当に、これからは思考から五感、今を生きることへと変化が起きてくるときなのかなあとここを感じていて思うのでした。
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今日を大切に生きる

おはようございます。私は起床すると、ときどき『あぁ、今日も朝を迎えることができた。』と強く感じる時があります。むろん、その逆の感情をもって起床する時もあります。一日の始まりは、おそらくすべての者にとって特別な時であると思います。「また一日が始まるのか・・・」とか「今日から休みだ、遊べるぞ~」とか「もう少しでボーナスじゃん!」といった具合に。そんな起床時に感じる感覚は、まさしく「生きている」の証です。そこで今日は「生きている」ということをテーマにちょっと書いてみたいと思います。人は、なぜこの世に生を受け、そして生き、死にゆくのでしょうか。 真剣に考えてしまうと、とても哲学的になってしまいますし、宗教色が強くなってしまい、賛否が出てしまうと思います。なので、難しく考えるのはやめて『シンプル』に、そして『ラフ』に考えてみたいと思います。「生きている」ということは、心病む健常者や精神疾患の者にとって、常に考えさせられ、悩まされるテーマだと思います。そこで、私が今まで引用してきている『禅語』ではどう表現しているのか。 その視点から考えてみたいと思います。 *****『生死事大』(しょうじじだい) みなさんは、お寺に行った時に『生死事大』と墨で書かれている、合図を告げる時に打ち鳴らす木板(板木【はんぎ】)を見たことはないでしょうか?この『生死事大』、きちんとした意味があります。 簡単に説明すると『人生には運不運がつきものですが、一日一日を大切に生きる。それを続けてこその人生』ちなみに、辞典には次のように記述されています。 生き死にの問題は重大であり、それをいかに超越するかが最大事であること
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あなたの責任ではない

おはようございます。最近、お話する中で生死のお話も多かったです。生死もまた自然に起きることだと感じています。自死もそのうちのことで・・・”4度しようとして、全部助かったのです。役があって生きる必要があるのだなと感じています。”その様に表現されておられる方もいました。個人的な視点になると様々な解釈が起きてきますが全体から感じてみるとその働きの一つでしかなく私たちが何かをしているのではなくてそこから現れる表現が私たちでそれをしていると思ってる。手は動いていて指が自分でしてるとそれぞれ思ってるような感じ。何が起きてもそれは起きてしまっていて解釈はその人を通してその人の経験の記憶の中から様々な表現が起きてきますがそれはその人の責任ではなくて・・・方便になってくるのかもしれませんが全体の責任であって(問われる誰かがいるわけではないけれど)個々の責任ではないのですね全体はまた良い悪いや個人な何かを把握しているわけでなく全体の都合というのかバランスの中ですべて起きてる個人を気にしている何かから起きているわけではない起きたことから人の数だけのストーリーが浮かび上がっているもし、何か辛く悲しいことが起きて自分の責任だと責めておられる方がいたらそうではないということ届けばいいな・・・そう感じるのでした。届いたり届かないこともまた全体のうちのことでなるようにしかならないのですが・・・
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生も死も両方祝福されている

どんな時も祝福されてる・・・そのような想いに包まれました。叔父が意識不明だという連絡を頂いてから感じたこと。幸せ感じているときだけではなく物事がうまく進まない、心が傷ついてるそのような状態の時でさえも、自分という存在は常に祝福されています。一見不調和だと見えるときでさえも、それは、自分を通して見える小さな一つの部分でしかなく、その不調和と見える一コマさえも、全体の調和の中の一つなんですよね。目の前で、かわいそうに・・・と感じる人がいたとしても、”かわいそう”という見方をしてるのは自分で、その存在はかわいそうでもなんでもない。ただ生き生きと命の現れとして、そこに表現されているだけ。意識の状態で見え方は変化します。見え方は世界を創る。ときめきとつまらないもひとセット。ときめきに目を向けているのか、つまらないことに目を向けているかで一日の過ごし方も違ってきます。死さえもかわいそうなことではなく、魂の視点からいけば、もう充分体験をした。もっと大きくなって、次のレベルにいくというときに死が訪れるとも最近目にしました。全体の視点から行くと、死もまた生へ向かうための命の循環、変化の一つ。全体の中で私と思う体は表現されているので体が死んでも、全体のわたしは生き続ける。死も生も両方が祝福。どんな状態も祝福されている。今このとき、どのような状態だとしても・・・・喜んでいても、悲しんでいても・・・
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分類よりも大事なこと

私達の身の回りには、さまざまな事柄があります。そのほとんどの事柄は「正と負」「プラスとマイナス」といった、相対関係が成立しているものです。 今回は、そんな相対関係を「どの様に心でとらえるか」を説く『禅語』を紹介します。 *****両忘(りょうぼう) 生死、貧富、善悪、愛憎。 世の中には対立する事柄があふれています。貧困は嫌だ、金持ちがいい、この人は好き、あの人は嫌い・・・こんなふうに色々なことを分けて判断してしまいます。何事に対しても、好きとか嫌いなどで分けると、それがさらに「心の葛藤」を生み出すこともあります。 そんな時「心の葛藤」を感じた時には、一旦ふたつに分けることを忘れて下さい。 「生と死」「貧困と裕福」「善と悪」「愛情と憎悪」 それぞれは、確かに相反する「対立関係」にあると思うでしょう。しかしよく考えてみてください。 「嫌いな人の意見」でも的確なら賛成。「好きな人の意見」でもそれに従えない事もある。「対立関係」という分類にとらわれることなく【物事の本質】をとらえて判断する。この【物事の本質】こそが最も大切であり重要なことなのだと気が付かなければなりません。「生と死」の本質とは何なのか? 「貧困と裕福」の境界線は? 「善と悪」の基準は? 「愛情と憎悪」の要因は? 「生と死」の本質。それは、与えられた命に対する感謝。 なぜ「生死」があるのかではなく、そもそも「生きるとは?」「死ぬとは?」という考え方の根本になるもの(本質)とは何なのか・・・「貧困と裕福」の境界線。それは、心の満足度・幸福度。 なにをもって「貧困」と「裕福」に分ける必要があるのか・・・「善と悪」の基準。それ
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年代関係なく「死」についての考えを。『DEATH 死とは何か』(イェール大学 シェリー・ケーガン 文嚮社)

本投稿は3分でお読みいただけます。今回は「死生観」についての気づきを得ました。2022年は3月3日(木)現在、25冊の本を読了しています。本書は今年読んだ本の中で一番気づきが多かった本でした。読んだうえでの自らの「死と生」についての考えを書いていきます。本書の要約ではございません。あくまで当事者意識を持って読んだうえでの「気づき」となります。※速読術は一切は使わない、私の読書法については下記をご確認ください。1.自分にとっての「死」とは✓大切な人と同じ次元で感情・経験を共有できなくなること ✓直接giveすることができない・コミュができない。 ⇒怖くはないけれど、寂しい・悲しい 2.人生の目標を設定する際には、常にgoal(死)を念頭に置くべき✓死は必ず行き着くもの。 Ex.部活も引退時期は必ず来る/ポイントカードにも有効期限がある。原理原則は同じだと感じています。⇒必ずくるgoalを見据えて人生を形作る必要あり。自分なりの死生観を問い続けていた方が一つ一つの行動に意味付けしやすいはず。3.意味付けして、主体的に生きる。そのためのマインドセット・決断・考動をする。(固定観念・先入観も捨てる。自分でファクトを集めて決める。)✓死を境に生前知り合った人とは同じ次元で存在できない。「周りの人にお世話になった」と感じているのであれば、 1.生きているうちにたくさん価値提供をする 2.自分の死後も大切な人たちの心を満たすようなモノ・コトを残す 3.負債・ネガティブ感情・選択肢を狭めるような考え方・生き方を伝達しない シンプルに上記3点を意識しながら、1つ1つの物事に意味付けして生きること
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死の恐怖から自由になるためのエッセンス

人間は生まれながら死に向かっている。 仏教の言葉「無常」です。私たちは常に変化して、死に向かって歩んでいます。 老いや病、やがて訪れる死に対して恐れや恐怖、そして絶望。 これは全てエゴ(自我意識)の声です。確かに、エゴの視点に立てば、死んだら終わり。だから怖い。 これは、「生」と「死」と分類して捉えている状態から来る恐怖。 個人的な臨死体験からの視点でこの「死の恐怖」を捉えると、 「生きること」と「死ぬこと」は、分類できない。それは、質の違いがあって、実際は、紛れもない「私」(※実際は「私」さえも無いのですが) 例えるならば、あなたが雨の一粒になって海の中に落ちる状態をイメージしてみてください。 空から降っている状態が「生」 大海に落ちた状態が「死」 空から降っている状態はエゴの視点であり、私たちがこの物質的な世界を肉体を持って、他の雨粒である他者と一緒に生活している状態。 海に落ちている状態は意識や源、本質、魂の視点であり、私たちが意識の世界を肉体を持たずにいる状態。全てと融合、統合していて、他者との区別も無く、時空さえも無い。痛み、病、老いなども一切ありません。空から落ちている時に認識していた他の雨粒も、この状態では一緒になっている状態。つまり、他者とさえも融合している状態です。ちなみに、蒸発することで、再び物質的な雨にもなれます。つまり、物資的世界、体は、大海(源、本質)から生み出されているということになります。 どちらも私たちが選択した結果であり、質の違いだけで、あなたはあなたです。 意識、本質の視点をエゴの視点と同時に持つ事が死への恐怖を乗り越える一つのキー。 肉体を
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この世の中で、唯一”平等”なこと

この世の中は、理不尽なことや不平等なことばかりだ。しかし、唯一”平等”なことがある。それは、どんな人も『人生は一度きり』だということ。今を、幸せに生きている人も不安や不平不満を抱えて生きている人も人生のどん底でギリギリ生きている人もいつか、必ず、命の終わりが来ることを忘れてはいけない。”人はいつか死ぬ”そうであるのなら、あなたはこのままでいいのだろうか。嫌な思いをして、我慢をし続けて、都合の良い人を演じて…今、あなたが生きている人生は、一体、誰の為の人生なのだろう。他人の機嫌を取る為の人生?他人のために自分の人生があるんじゃない。自分の人生を幸せにする為に、他人との関わりがあるだけ。多少の苦労や我慢はしなくちゃいけない時もある。でも、体調を崩したり、自己嫌悪になるほど、頑張らなくていい。自分の気持ちに正直に生きてみると少し気持ちが楽になる。”今”食べたいものは、”今”食べる。”今”欲しいものは、”今”買う。”今”会いたい人に、”今”会う。”今”やりたいことをしないと、明日の自分は、相手は、どうなっているか分からないから。死んだら、何もできないし、何も持っていけない。だったら、”今”生きているうちに楽しもう😊自分に、正直に。良かったらプロフィールの方も見て下さい^^
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日記「太陽と2ℓアイス」

【猛暑日対策】 最近日中は暑くて10年に1度の猛暑日と 天気予報で言ってるけど毎年夏になると 10年に1度の猛暑日と言うので毎年毎年 最高気温を記録してるのかもしれない アワワワワ(((゚д゚; )))ワワワワッ なので俺は日中外に出ず日が落ちてから 外に出かける様にし熱射病から身を守り お肌も紫外線に当たらない様にし老化を 防ごうと気を付けてる しかし太陽光を浴びないとビタミンBが 作られないというがそれでも昼間は外が 暑すぎて出る気になれず完全に吸血鬼の 生活と同じになってしまった でも太陽光に浴びなくても画像で太陽の 光を見るだけでもビタミンBが少しだけ 作られると論文に書いてあったからPCの 太陽が出てる綺麗な風景を壁画にした とはいえ俺はこんなオカルト的な治療を 信用してないのできちんと科学的証明し 実証されて結果が出てる事の方が良くて 今後5分位外に散歩に行こうと思ってる 最近男性の間でも日傘が流行ってる様で 今まで日傘は女性のファッションと言う 固定概念があるがさすがにこの猛暑じゃ そんな事言ってられないのかもしれない そこで男が使える日さはどんな物か探し Amazonを検索すると明らかに女性用の 日傘しか無くて男が日傘をさすとしたら 折り畳み傘しか方法が無くなんかダサい (´・д・`)ショボーン 〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓=〓 【普通の発想】 最近昔よく購入してた2ℓアイスが無くて 1ℓアイスをイオンで買って食べてたけど 先日いつもの様にアイスを求めイオンに 行くとなんと!2ℓアイスがあった! o(^∇^)oワーイ♪ 1ℓは600円だけど2ℓは800円
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「36500」という数字

「36500」という数字を見て君は何を思うかな?この数字を1度真剣に考えてみて欲しいんだけど。…というのがね、数日前に、悲しいネットニュースを見てしまってね。ある人が若くして亡くなってしまった記事だったんだけど、そこでこの数字を思ったんだよね。36500日=100年もしね、君に今大切な人がいたとして。家族や旦那さんや嫁さんや彼氏や彼女などなど。その人と全く同じ日に同じ場所で生まれたとしも、100歳まで生きれるとしても…【36500日】しか【一緒に居れない】んだよね。36500「日」と聞くと大きく感じるかもだけど、円をつけてみて。36500円と思ったら、この数字なら、どれぐらいの大きさか想像つくよね?単位は違うけど意外と、本当にそれぐらいの数字なんだと思う。しかも、これは100歳まで生きる前提と、全く同じ場所で生まれるという条件付き。人生100年時代とは言われているけど、実際には100歳まで生きれる人はまだまだ少ないと思う。何が言いたいか?と言うと。朝目覚めて、君の大切な人が横でスヤスヤ眠っている姿を見れる事がどれだけ幸せなことか。毎日の日常という日々を、一緒に過ごせている事がどれだけ奇跡なのか。人は、僕も含めてだけど、なぜかどこかで「自分は死なない」と思っているよね。人は誰でも必ず死ぬのに、「死」というものに対して、どこか他人事だと思うんだ。明日も当たり前のように目が覚めて、当たり前のように眠りにつけると、誰もが思っている。本当に、いつ自分の時計の針が止まって眠る日が来るなんて誰にもわからない。年齢順ということも決してない。今を本気で生きているか?生きている事に感謝しているか?
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今後生きていける確信、安心が見えない幻覚、必要な全てを司り、必ず生かせる神権を信頼できない幻術が解ける遠隔法術ヒーリング

今回は人の自我意識による、今後生きていける確信、 ​ ​ 安心が見えない幻覚、必要な全てを司り、 ​ ​ 必ず生かせる神権を信頼できない幻術が解けることを ​ ​ テーマとした遠隔法術ヒーリングをお届けします☆ ​ ​ ​ ​ 本日は個人的に最も関心があるテーマの一つである生死に ​ ​ 関する自我さんの幻覚、幻術空間を扱うことになりました。 ​ ​ ​ ​ 自我意識を持っている私達人間は、地球で過ごす中で ​ ​ 死の可能性や死に対する恐ろしさ、死に対する痛々しく ​ ​ 大変なイメージを彷彿とさせるような光景や時間が視界に ​ ​ 入る時がありますが、死の概念や死を通した痛みや恐れ、 ​ ​ 重圧、危険などは本当に実体として存在するのでしょうか? ​ ​ ​ ​ 源の本体部分にとっては死の概念は無く不死であり、 ​ ​ 肉体を不要とする瞬間は人間のアトラクションで満喫したい ​ ​ 夢の時間を全てやり切った大団円と言えるので、 ​ ​ 肉体が消えることに対して何の蟠りもありません。 ​ ​ ​ ​ 死の可能性や死の存在を見るのも感じるのも、死と直面することに ​ ​ 対して痛み、苦しみ、恐ろしさといった重圧感や危機感の ​ ​ 色を付けているのも自我さん特有の判断だと言えるでしょう。 ​ ​ ​ ​ 自我さんの身体が持つ反応のエネルギーによって、 ​ ​ 源さんが創造している真実の世界の姿とは異なる ​ ​ 実体が無い虚構の幻術空間や幻覚反応が ​ ​ 存在しているかのように見えていること、自我さんによる幻術空間や ​ ​ 幻覚反応は予め絶対的に構築されている社会ではないこ
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究極の選択 ~奇跡の今~

私たちは一瞬一瞬に究極の選択をしています。「生」 か 「死」 か。それが顕在意識によるものであれ、潜在意識によるものであれ、その究極選択の結果今があります。いろんな悩み等々あって、いろんな選択をすることはあるでしょうが、究極の究極はこの2択でしょう。1秒どころかもっと微細な時間のうちに選択を繰り返し今があります。昨今話題に上がる量子力学的なパラレルワールド解釈にも通じるものがありますね。自分の生きていける環境すら選び取って生きているのです。いずれにせよ、今命あって生きているということは奇跡以外のなにものでもありません。魂のレベルであなたも私も生きることを選んだ。生きる意味があるから命を選択した。そういうことだと思います。魂が生きる目的を失ったら、次の一瞬に世界は終わります。魂レベルの崇高な目的など推し量れるものではないでしょう。が、先ほどのように「自分には生きる目的があるのだ」と信じ、今できることを行い、魂の目的を少しでも知ろうと努め、その理想に生き方を合致させていくことが大切なのではないかと思うのです。********* お悩み相談がありましたら、お気軽にお電話ください。 私、ぴよが提供するサービスは目的に応じて3パターンあります。 あなたの豊かな未来のお役立ちをさせていただきます。 ➀重くなった心をちょっとだけ軽くしたい方 ➁自己実現や理想の未来を手に入れたいと願う方  ③お仕事(営業)や対人関係の向上を目指したい方
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アウフヘーベンする死刑制度について

個人的に今月はアウフヘーベン月間だったじゃないですか。知るか!!バカ!勝手にやってろというツッコミが聞こえそうな書き出しですね。ご興味のある方、「アウフヘーベン?Aufheben!」という三つ前のブログにさかのぼってから順番に読んでみてくださいね。私が何かわからなくて、何にびっくりしているのか・・・共有してくれる人がいたら、私はとても嬉しい。まぁ、いいんです。興味ない人がほとんどだということは分かってますよ。私が個人的に営業して、まったく何の反応もないタロット占いや、ドイツ語翻訳と同様、必要のない人にはまったく必要なく、必要のある人にとってのみにしか意味のないことなんです。私は楽しいけど!というわけで、ずっと考えていたアウフヘーベン。考えてみていたら、死刑制度というものがアウフヘーベンというものを具体的にしてくれることに気づきました。処刑としての首切り→斧では切りずらいにゃ。大量に首切る時はしんどいのにゃ→ギロチンの開発これにより、大量首切りが可能になる。首切りという処刑方法をアウフヘーベンした結果、ギロチンができた。そしてそのギロチンですが・・・ギロチン→残酷じゃね?首がゴロンって落ちるんだぜ?→薬物で処刑すれば手も汚れず、大量処刑できるにゃ☆ギロチンがアウフヘーベンし、薬物や、ガスでの処刑が開発される。だが、この時点では死刑制度そのものは維持された。そして現代においてやっと・・・!!死刑って残酷じゃね?という「そもそも論」が発生。死刑→人権!→終身刑でどや!!日本の場合は、なぜか首つり処刑にこだわり続ける謎・・・処刑方法、全然アウフヘーベンしてない・・・アウフヘーベンされた
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タナトスに支配される

みなさん 「タナトスの誘惑」 という短編小説をご存知でしょうか?YOASOBI さん の 「夜に駆ける」 という楽曲のもとになっている小説です。小説の一節を下記へ。***************世の中には2種類の人間がいるという。  生に対する欲動──「エロス」に支配される人間と、 死に対する欲動──「タナトス」に支配される人間。この世界の人間のほとんどは前者だが、彼女は紛れもなく後者だった。***************この文章を読んだ時とても、すがすがしい気持ちになりました。完全に私は後者で小さな頃から、ずっとタナトスに支配され魅了され憧れ、まるで恋人のように寄り添われ生きている。待ち焦がれ今日も1日終わるのですね。いつになったら、ちゃんと姿をみせてくれるのだろうか。
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夢二元教

神夢教に仏の視点を含めたものを夢二元教とする。以前と変わらず、『夢』を中心としたテーマではあるがそこに神と仏の神仏論を取り入れていくより宇宙論的な視点にこの世界宗教をもっていこうというのである。神だけでなく、仏の見解概念も入ったので、2元論を展開させることになった。神は相変わらず強力な概念だが、一方、仏の視座は、なんでそうなるの?的なでも、奥深い視座を提供する。どちらも捨てがたいのである。だから、どちらからも学ぼう。この視座の呼吸が備われば、より人生の生死に果敢に向き合えることだろう。乞うご期待
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