死刑を廃止しようという動きも、その「そもそも論」で、立ち止まってしまうわけですよ。
一体、誰のための死刑なんでしょうね。
現代では死刑制度そのものが、存在を脅かされている。(ドイツでは、日本で死刑の執行があるたびに、「日本は先進国の中では数少ない、いまだに死刑制度を維持している国」とお約束のように報道されます)
というのも、死刑は非人道的ということだけではなく、死刑希望の人が犯罪に走ったりするじゃないですか。
生きることに絶望したけど、自殺する勇気のない卑怯な意気地なしが、他人を巻き込んで通り魔殺人や、テロのような犯罪を企てるとかね。
死刑になりたいので、人を殺すという本末転倒、はた迷惑もいいところな結果になってしまうケースすらあるわけです。
生きる、生きたい、生きなくてはならぬ・・・明確な意思を持って生まれたわけではない人間にとって、「生」というものが、
とてもあいまいなものになりつつあるような気がしますねぇ。
それで逆に「死」というものの「絶対性」が際立ってしまい、「死」こそが救済かのように考える人たちも出てくる。
漫画や小説、ドラマや映画のような明確なテーマのある人生ではない。
理由のない人間が大多数。目的がないのが当たり前な中、「生きる」ということはどういうことなのか、そこを問われている気がいたします。
死刑制度のアウフヘーベンを考えていた過去の世紀ですが、
それはもしかしたら、「生」が絶対的なものだったからなのではないでしょうか。
今は、それがあいまいになってしまい、むしろ「死」の絶対性が際立ってしまうのではないか・・・。
もしかしたら・・・死刑制度とか安楽死とかうんぬんより、生きることのアウフヘーベンの方をもっとより真剣に考えなければならないかもしれませんねぇ。
それに、日本の死刑制度も、変なところでアウフヘーベンしないで、もっと普通に処刑方法そのものを考え直してもいいんじゃないかと。
明日死ぬかもと思いながら、自分の罪とむかい合える冷静な死刑囚なんていないでしょう。。。
被害者遺族の人たちにとっては、心からの反省と謝罪を求めているのに、死刑囚の方は「明日死ぬかも」で頭がいっぱいなんですよ?
意味ないことこの上ない。
刑務官にとっても、被害者遺族にとっても、死刑囚本人にとっても・・・誰のためにもなってない。
犯罪の抑止力どころか死刑になりたい犯罪者がいるような状況ですよ?
だけど、アウフヘーベンって、とっても危うい思考方法ですよね。
何を切り捨て、何を維持するかで、方向性が変わってしまう。
明確な核や思想、信念を持っている人間にとっては助けになるかもしれないけど、それがない人間にとっては・・・悪魔の思考法にもなりうるものじゃない?
だって、もし人があのまま、首を切るという処刑方法を断念せず維持し続ける方向でアウフヘーベンしていったらさ・・・
ものすごい首切り道具がどんとん開発されて行ってたかもよ?
というわけで、アウフヘーベンはとりあえず、このまましばらく寝かせておきましょう。まだよく理解してないので、自分なりの解答が出ましたら、ご報告することにします。これに関して色々教えてくれる方がいましたらぜひぜひご連絡ください。
みなさんにとって新しい年がよい年でありますように。
よいお年をお迎えください☆
注)死刑廃止、安楽死の問題を「欧米など先進国ではー」と論じることは私は危ういと思ってます!欧米の理性を私は既にそこまで信頼してない・・・。生死観につきましても、キリスト教の文化背景とアジアは大いに違いますからね・・・。